二
ゆっくりと俺は廃寺に近づき、両目の暗視モードを、赤外線に切り替えた。【遊客】のみが使える、一種の特殊能力だ。
超能力とは言いたくない。あれは不可知論の領域なのだが、俺たちの能力は、完全に科学で説明可能なのだ。
一瞬で、灰色の視界が、揺らめく紅蓮の炎に包まれた荒れ寺に変化した。昼間の熱が、寺の崩れかけた塀や、屋根の瓦から放射されているのが判別できた。ほとんどは、昼間の日差しの名残りだが、廃寺の奥からは、別の熱の放射が感知される。
門を見ると、幾人かの足跡が、熱の蟠りを見せ、廃寺の正面に消えている。確実に、夜になって、誰かがこの場所に足を踏み入れている。それも一人ではない。
俺は、にやりと唇を歪め、他人からは「ハイエナの笑い」と呼ばれる表情を作った。そんなに俺の顔は悪どいのかと、俺は常々疑問に思っているが、他人の評価など、そんなものだ。
ぴたりと動きを止め、耳を澄ます。
途端に、それまで意識していなかった虫の音、葦が僅かな風に嬲られ、掠れる音、遠くのざわめき、風の音がわっ、とばかりに、俺の耳に飛び込んでくる。感度を上げすぎたせいだ。
俺は意識操作で、俺にとって意味のない音をカットする〝カクテル・パーティ〟フィルターを起動させた。通常、聴取できない超低音──二十ヘルツ以下の超低周波に意識を集中させる。
思ったとおりだ!
微かな律動音が、地面の下から聞こえてくる。地面に耳を押し当てると、さらに律動音は、くっきりと聞き取れた。
会心の笑みが浮かぶ。その時ばかりは、俺は、狼が獲物を前にした時の、涎がたらたら口の端から垂れそうな、凄みのある笑みを浮かべているはずだ。
じわじわと、俺の体温で、辺りが赤外線の放射を見せ始めたので、俺は視界を通常より、やや感度を上げた、夜目に変えた。暗視モードほど、辺りははっきりと見てとれないが、うっかり星空を見上げると、星の光さえあまりに眩しすぎるので、このほうが都合がいい。
俺は門を潜り、境内に足を踏み入れた。
荒れ果てた庭に、覆い被さるような木々が鬱蒼と茂っている。湿気が強いのか、ぷん、と苔の匂いが籠もっていた。
慎重に、廃寺に近づいた。
足音は立てない。
俺は自分の仮想人格をデザインする際、感覚を研ぎ澄ませた、忍者のような性格を頭に入れて製作している。多少、通常のNPCに比べれば体力は上回り、苦痛に耐える上限も高めにしているが、見かけはぱっとしない、ただの男である。
他の【遊客】は、山のような筋肉の固まりか、あるいは女と見間違うほどの優男、女なら、目の飛び出るような絢爛豪華な美女にするのだが、俺はほぼ、現実の自分と同じ見かけにしている。
よくからかわれる長い顔。大きな口。両目は細く、狡賢そうな表情をしている。どう見ても、水も滴るいい男、とは言いかねるが、なあに、これでも、俺は結構もてるのだ。
話が横道に逸れた。
俺は全身の神経を、ぴりぴりと緊張させ、一歩一歩、そこに爆弾が埋まっているかのように、足を下ろし、じわりと体重を乗せると、次の一歩を踏み出した。
廃寺の障子は開け広げになっている。俺は土足で踏み込むと、周囲を抜け目なく見渡した。
あの柱が怪しい。
他の柱が、雨風に打たれ、今にも折れそうな枯れ切った状態なのに対し、なぜか、俺の目のつけた柱だけは、つやつやと表面が黒光りしている。何人もの手が触り、手脂が表面を保護しているのだ。
確認のため、一瞬赤外線モードにすると、柱の周りには、以前の足跡が熱の残滓を見せ、微かに光っている。
顔を押し付けるようにして、しげしげと見入る。目を精細モードにして、表面を拡大する。
あった!
目に見えるか、見えないほどの、小さな合わせ目が見てとれた。俺は指先を近づけ、爪先を引っ掛けるようにして、ぐいと力を込めた。
呆気なく、ぱたりと表面が開き、十進キーが俺の目の前に顕わになる。確実に、暗証入力装置だ! キーの下には、カードを挿入する細い隙間があった。
俺は懐から、かねて用意の開錠セットを取り出した。指先で薄い読取装置を掴むと、カード挿入口に押し込む。読取装置のディスプレイが忙しく瞬き、電子の指先が、目の前の暗証入力装置に隠された、開錠システムをまさぐる。
ぴーっ! と、俺にとっては、一杯に膨らんだゴム風船が勢い良く破裂したほどの音が響き、暗証を探し当てたと読取装置が誇らしげに作業の終了を告げる。
溜息のような音が洩れ、寺の床板の一部が僅かに持ち上がった。あれが入口だ!
俺は屈みこみ、床板をゆっくりと押し開けた。歯ぎしりするほど、自分でも慎重な動きである。
落ち着け! 落ち着け!
留吉に言い聞かせた台詞を、自分に呪文のように繰り替えす。
開いた!
黒々と、地下への入口が、俺の目の前に現れた。階段がついている。
俺は腰の大刀の鯉口を切り、いつでも抜き打ちできる構えを取って、地下への階段に足を載せた……。