四
俺の棲家は、浄土宗の成覚寺近くにある通称〝のたくり長屋〟の一画である。同じ名前の寺が、内藤新宿にもあって、こちらは飯盛り女の投げ込み寺として有名だ。現実の世界では、第一京浜から少し西側に寄った場所に、同じ名前の寺が存在している。
なんで〝のたくり長屋〟なんて通称なのか、理由は定かでない。恐らく、長屋に棲み付くのが独身の男ばかりで、夫婦者がほとんど居つかないからではないか、と思っている。
何しろ、品川遊郭が、すぐ近くにあるのだ。夫婦者にとっては、いろいろ不都合な場面が多かろう。
江戸の若い男は──若い男に限らないが──、大半が独身者で、相手を見つけて夫婦になれるのは、本当に稀な例外である。何しろ江戸には、若い女性がひどく払底している。
江戸は、初期の頃から植民地のような発展を続けてきた。家康入府の際、家臣を引き連れ、江戸の地形を開削し、海を埋め立て、利根川の流路を換え、江戸城を作り上げ、営々と改造を加えてきた結果が、今の江戸だ。
勢い、集まるのは、職を求めて故郷から出てきた、男たちだ。少ない女を取り合い、相手を見つけられない男たちは、遊郭──むしろ岡場所のような手軽な売春宿に足を向ける結果になる。
俺の棲家の長屋は、いわゆる裏長屋で、時代劇に登場する、あれだ。ごみごみとした狭い路地を縫うように歩いていくと、まず目に飛び込んでくるのが、長屋の木戸である。
木戸の上には、長屋に住まう連中の、商売の看板というか、案内板が掲げてある。大工、植木屋、占い、細工師、飴屋──これは木戸番屋の爺いが、細々と商っている。
俺は「何でも相談承り」が一応の表看板で、知る人ぞ知るで、名前は掲げていない。
もっとも、【遊客】の俺は、最初からたっぷりと幕府から活動資金を支給されているから、商売などする必要もないのだが。
木戸を潜ってすぐが、木戸番屋であるが、腰高障子は閉まっている。いつもなら、大きく開け放ち、商売物の飴が並んでいるのだが。
向かい合った長屋の中央にある溝板を踏みしめながら、自分の棟に近づくと、辺りは、しん、と静まり返っている。
前に夫婦者はいつかない、と説明したが、それでも木戸を潜ってすぐの棟には、夫婦者が一組、住み着いていて、上に二人の女の子と、下に一人の男の子がいる。今頃の時間なら、手習い(江戸では寺子屋とは言わず、手習いである)から帰って、騒がしく遊んでいるはずだ。
妙だな、と俺は首を傾げながら長屋の中へと足を踏み入れる。俺の足下で、ごとごとと溝板が騒がしく鳴り響くと、からりと一軒の戸が開いて、細工師の松吉が顔を出す。
松吉は、居職の細工師で、根付などを作っているが、高価な材料である珊瑚や、象牙、水晶、金細工などはやっていない。主に柘植などを材料にしている。
細かい作業を長年してきたせいか、目が近い。俺のほうに顔を向け、目を細めた。作業中だったのか、前掛けを無意識に払って、細かい埃を叩き落としている。
顔は四角く、背は俺の胸ほどしかなく、手足が細い。松吉はぼうっ、と俺の顔をしげしげと見詰めると、顔に驚愕の表情が弾けた。
「あ、あ、あ、あ……!」
俺は一歩踏み出し、声を掛けた。
「よう! 松吉。とんと長屋が静まり返っているが、何かあったのかえ?」
松吉は震えながら腕を挙げ、俺を指さした。
「い、い、い、い……!」
「あ、あ、あ」と来て、次は「い、い、い」だ。今度は「う」と来るのかと思ったら、ようやく松吉は纏まった言葉を発した。
「伊呂波の旦那!」
「何だ、俺の顔を初めて見るような顔しやがって。俺に、用事でもあるのか?」
すとん、と松吉は、その場でへたり込んだ。青ざめた顔を持ち上げ、俺の顔をまじまじと見上げている。
「旦那……生きていなすったんで?」
「何いっ?」
「今朝、奉行所から報せがありやしたぜ。旦那が、金杉橋の近くで水死体で上がったと。それで、長屋の連中は、成覚寺に葬式を上げに出払ってますんで。あっしは、急ぎの仕事があって、残ったんだ……」
「あっ!」と俺は思わず、自分の額をぴしゃりと手の平で叩いていた。
いけねえ!
俺の仮想人格は、江戸で死体になっていた。だから、今の俺は、長屋の連中には、死んだものと思われている。
俺は松吉に確かめた。
「成覚寺だな?」
松吉は、がくがくと震えながら頷いた。
さっと俺は身を翻し、大股で長屋を飛び出した。この始末をうまくつけないと、これから俺は、江戸で気楽な【遊客】として、暮らしてはいけない。
さあ、どうしたものか?