表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
電脳遊客  作者: 万卜人
第三回 江戸入府早々の尾行と、意外な珍客に鞍家二郎三郎大慌ての巻
17/87

 俺の棲家すみかは、浄土宗の成覚寺じょうかくじ近くにある通称〝のたくり長屋〟の一画である。同じ名前の寺が、内藤新宿にもあって、こちらは飯盛り女の投げ込み寺として有名だ。現実の世界では、第一京浜から少し西側に寄った場所に、同じ名前の寺が存在している。


 なんで〝のたくり長屋〟なんて通称なのか、理由は定かでない。恐らく、長屋に棲み付くのが独身の男ばかりで、夫婦者がほとんど居つかないからではないか、と思っている。

 何しろ、品川遊郭が、すぐ近くにあるのだ。夫婦者にとっては、いろいろ不都合な場面が多かろう。

 江戸の若い男は──若い男に限らないが──、大半が独身者で、相手を見つけて夫婦になれるのは、本当に稀な例外である。何しろ江戸には、若い女性がひどく払底している。

 江戸は、初期の頃から植民地のような発展を続けてきた。家康入府の際、家臣を引き連れ、江戸の地形を開削し、海を埋め立て、利根川の流路を換え、江戸城を作り上げ、営々と改造を加えてきた結果が、今の江戸だ。

 勢い、集まるのは、職を求めて故郷から出てきた、男たちだ。少ない女を取り合い、相手を見つけられない男たちは、遊郭──むしろ岡場所のような手軽な売春宿に足を向ける結果になる。


 俺の棲家の長屋は、いわゆる裏長屋で、時代劇に登場する、あれだ。ごみごみとした狭い路地を縫うように歩いていくと、まず目に飛び込んでくるのが、長屋の木戸である。

 木戸の上には、長屋に住まう連中の、商売の看板というか、案内板が掲げてある。大工、植木屋、占い、細工師、飴屋──これは木戸番屋の爺いが、細々と商っている。

 俺は「何でも相談承り」が一応の表看板で、知る人ぞ知るで、名前は掲げていない。

 もっとも、【遊客】の俺は、最初からたっぷりと幕府から活動資金を支給されているから、商売などする必要もないのだが。


 木戸をくぐってすぐが、木戸番屋であるが、腰高障子は閉まっている。いつもなら、大きく開け放ち、商売物の飴が並んでいるのだが。


 向かい合った長屋の中央にあるどぶ板を踏みしめながら、自分の棟に近づくと、辺りは、しん、と静まり返っている。

 前に夫婦者はいつかない、と説明したが、それでも木戸を潜ってすぐの棟には、夫婦者が一組、住み着いていて、上に二人の女の子と、下に一人の男の子がいる。今頃の時間なら、手習い(江戸では寺子屋とは言わず、手習いである)から帰って、騒がしく遊んでいるはずだ。


 妙だな、と俺は首を傾げながら長屋の中へと足を踏み入れる。俺の足下で、ごとごとと溝板が騒がしく鳴り響くと、からりと一軒の戸が開いて、細工師の松吉が顔を出す。

 松吉は、居職の細工師で、根付などを作っているが、高価な材料である珊瑚や、象牙、水晶、金細工などはやっていない。主に柘植つげなどを材料にしている。

 細かい作業を長年してきたせいか、目が近い。俺のほうに顔を向け、目を細めた。作業中だったのか、前掛けを無意識に払って、細かい埃をはたき落としている。

 顔は四角く、背は俺の胸ほどしかなく、手足が細い。松吉はぼうっ、と俺の顔をしげしげと見詰めると、顔に驚愕の表情が弾けた。


「あ、あ、あ、あ……!」


 俺は一歩踏み出し、声を掛けた。

「よう! 松吉。とんと長屋が静まり返っているが、何かあったのかえ?」


 松吉は震えながら腕を挙げ、俺を指さした。

「い、い、い、い……!」


「あ、あ、あ」と来て、次は「い、い、い」だ。今度は「う」と来るのかと思ったら、ようやく松吉は纏まった言葉を発した。


伊呂波いろはの旦那!」

「何だ、俺の顔を初めて見るような顔しやがって。俺に、用事でもあるのか?」


 すとん、と松吉は、その場でへたり込んだ。青ざめた顔を持ち上げ、俺の顔をまじまじと見上げている。


「旦那……生きていなすったんで?」

「何いっ?」

「今朝、奉行所から報せがありやしたぜ。旦那が、金杉橋の近くで水死体で上がったと。それで、長屋の連中は、成覚寺に葬式を上げに出払ってますんで。あっしは、急ぎの仕事があって、残ったんだ……」


「あっ!」と俺は思わず、自分の額をぴしゃりと手の平で叩いていた。



 いけねえ!



 俺の仮想人格は、江戸で死体になっていた。だから、今の俺は、長屋の連中には、死んだものと思われている。

 俺は松吉に確かめた。

「成覚寺だな?」

 松吉は、がくがくと震えながら頷いた。

 さっと俺は身をひるがえし、大股で長屋を飛び出した。この始末をうまくつけないと、これから俺は、江戸で気楽な【遊客】として、暮らしてはいけない。



 さあ、どうしたものか?

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ