六
桟橋が近づいた。
船頭は手拭で汗を拭っている。小仏川で見た、鋭い目付きは今は欠片も見当たらず、のんびりとした眼差しになっている。
桟橋では、出迎えの町人が、手を振っている。口々に俺たちに向かい「宿はいかがです? 若い飯盛り女がつきますぜ!」と叫んでいるのは、宿の客引きだ。
妙なのは、客引きが手に幟を持ち、打ち振っている。江戸時代にあんな客引きって、いたか? 多分、俺たち【遊客】の入れ知恵だろう。
「御府内に一刻も着きたいなら、わっしらの早駕籠はどうでげす?」と、どんぶり腹掛けをした駕籠舁きらしき二人組が、駕籠を道端に置いて大声で呼び込みを続けている。俺たち【遊客】を当て込んでの、客待ちだ。
駕籠には、白黒の市松模様の帯が縫いつけられている。けっ! イエロー・キャブを気取っているのか?
女忍者が俺の顔を見上げ、尋ねてきた。
「飯盛り女って、何? 飯を盛る女が、どうして、宿の売り物になるの?」
「さあな……」
俺は顎をこりこりと掻きながら、空惚けを決め込んだ。
女忍者は、俺の返答に何かを感じたのか、プイと横を向く。時代劇ファンだというのに、飯盛り女を知らないのか?
とん、と猪牙舟の舳先が桟橋に軽く突き当たり、舟は役割を果たした。
俺は、さっと着流しの裾を翻し、桟橋に飛び移った。俺の後を追いかけるように、女忍者が慌てて立ち上がった。
瞬間、バランスが崩れ、舟が大きく横揺れする。
「きゃあっ!」
「おーっと!」
俺は手を伸ばし、女忍者の腕を掴んで引き寄せる。【遊客】は、江戸では、抜群の反射神経と、底なしの体力を誇るのだが、仮想人格に慣れていないと、思わぬミスをする。
俺が助けていなければ、女忍者は確実に引っくり返り、水面に頭からざんぶと飛び込んでいた。
「あ、ありがと……」
女忍者は、俺の腕に縋ったまま、顔を赤らめた。俺は「こんな無様な動きで、女忍者になれるのかね?」と余計な心配をしてしまう。
俺は女忍者の肩を、ぽんと叩き、街道を指差す。
「もう、江戸は目と鼻の先といって、いい。この先、品川宿から高輪の大木戸を潜れば、そこが江戸府内さ。じゃな! ここでお別れだ。達者でやれよ!」
女忍者は、心細い表情を浮かべる。初めての江戸に、どう行動していいか判らないのだろう。
俺は助け舟を出してやった。
「お前さん、忍者になりたいんだろう? 江戸に来た初心者の、【遊客】専門の口入屋ってのが品川宿にもあるから、相談してみな。お前さんに向いた、奉公先を案内してくれるぜ」
「あ、あんたは、どうすんの?」
俺は眉を上げた。
「俺はこれから、元の棲家に戻る。そうだ! 俺に会いたくなったら大木戸を潜って、成覚寺側の〝のたくり長屋〟って場所を訪ねれば良い。〝伊呂波の旦那〟って言えば、すぐ判る」
女忍者は、目を光らせた。
「あんたの名前を教えてよ。まだ、渾名しか教えてもらっていないもん!」
「そうだったかな?」
俺は頭を掻いた。つい、目の前の女忍者を、昔からの知己のように思ってしまった。
「俺の名前は、鞍家二郎三郎。お前さんは?」
女忍者は、初めてにっこりと笑った。笑うと、笑窪ができる。
「あたし、晶! 苗字はなくて、ただの晶でいいわ! 男の子みたいな、名前だなんて、言わないでね!」
おやおや、先回りされた。多分、最初に自己紹介するたびに「男の子みたいな名前だな」と言われ続けているのだ。
晶と名乗った女忍者のあどけない、といっていい開けっ広げの笑顔に、俺は柄にもなく、親切心を出してしまった。
これが、間違いの元なのだが……。
「口入屋に、俺の名前を告げるが良い。お前さんの希望を叶えるよう、口入屋の親爺は、知恵を絞ってくれるはずだ」
晶が何か言い掛けたが、俺はくるりと背を向け、とっとと歩き出した。
もう、女忍者など、すっかり忘れている。頭の中には、死体となった自分の謎について渦が巻くように疑問が後から後から湧いて出て、女忍者の行く末など、好奇心すら欠片も抱く余裕はなかった。