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電脳遊客  作者: 万卜人
第二回 鞍家二郎三郎再びの江戸入りと、衝撃の出会いの巻
11/87

 猪牙ちょき舟は、すらりと細長い船体をした、快速船である。江戸の遊び人が、吉原通いの時、船足の速い舟を求めたため、遊び人の専用と思われているが、もちろん、江戸だけで使用されたわけではない。

 先が尖がり、それが猪の牙に似ているから猪牙と呼称した──一説では長吉という舟大工が工夫して、長吉舟から転訛した──などとされる。

 ともには船頭が俺を待っていた。がっしりとした身体つきで、両目が鋭い。

 番頭と一緒に船着場に足を運ぶと、女忍者が先に舟に乗り込むところだった。女忍者は、俺の気配に顔を上げた。


「あら……あんた!」

「また会ったな」


 俺は苦笑いを浮かべた。女忍者の後ろから舟に乗り込むと、見送りの番頭が桟橋で深々と頭を下げた。


「お気をつけ下さいませ」


 番頭の丁寧な挨拶に、女忍者は首を傾げ、俺の顔を不思議そうに見詰めた。見るからに痩せ浪人姿の俺に、関所の責任者が慇懃な物腰で見送るのが、奇妙なのだろう。

「あんた、誰?」

 俺は肩を竦めた。

「見たとおりの、痩せ浪人だよ。前にも言ったが江戸では〝伊呂波いろはの旦那〟で、通っている」

「舟を出しますので、しっかりと船端にお掴まりくだせえ」


 船頭が嗄れ声を上げる。きい──、とを動かし、舟はゆらりと微かに水面を切り裂きながら離れていく。女忍者は、俺の追及を忘れ、船端にしがみついた。

 ちらりと振り返ると、番頭が桟橋に立ったまま、深々と頭を下げたまま、俺を見送っていた。

 たちまち関所の建物は背後に遠ざかり、俺と女忍者を乗せた猪牙舟は、小仏川を下っていく。

 辺りは初夏の盛りで、岩肌には緑が萌え上がり、眩しい日差しが水面にきらきらと反射している。猪牙舟は、のったりとした船足で、川面を下っていく。

 平穏無事を絵に描いたような景色だ。

 小仏関所は、現実の地理で言うと、高尾山裾野から八王子に位置し、小仏川は淺川に通じて、多摩川に注ぎ込む。俺を運ぶ猪牙舟も同じルートを辿るが、現実の川筋とは、ちょいと違っている。何せ、江戸への最短ルートであるから……。


「おい! しっかりと掴まっていろよ!」


 俺の前に座っていた女忍者は、問い掛けるように、こちらを振り向いた。俺は叱り付けた。

「口を閉じていろ!」


 女忍者は、俺の命令口調にむっとした表情になった。

 だが、俺の真剣な顔付きに、それでも慌てて前に向き直り、船端を掴んだ手に力を込めた。


「そうれ!」


 船頭が声を張り上げ、艪を一杯に動かした。

 途端に、舟は、弾かれたように前に飛び出した。


「きゃああああっ!」


 女忍者の甲高い悲鳴が、辺りに響き渡る。俺は口をぎゅっと引き結び、次にやってくる衝撃に備えていた。



 ざっばあああん!



 舟は空中に一瞬、ふわりと浮かび、次いで物凄い勢いで落下し、再び水面に着水する。

 ずしんと尻の下から衝撃が突き上げ、真っ白い水飛沫(ひまつ)が、両側から水のカーテンのように広がった。

 川は滝となって雪崩落ちていた。そこを猪牙舟は真っ直ぐ突っ切り、落差のある水面を次々に越えていく。

 もちろん、本当の小仏川がこのようであるはずもない。これは小仏関所から江戸へ最短で向かうための、ちょっとした修正なのだ。距離と、時間を短縮するため、位置エントロピーに手を加えている。本来は数十キロはあろうかという距離を、僅か数キロに短縮するため、数百メートルの大瀑布を一気に下るのと同じなのだ。


 川は急流に姿を変えていた!


 どうどうと轟音が響き、真っ白な飛沫が辺りを霧に包んでいる。霧は途中の行程を隠すのに役立ち、たった十分ほどで江戸へ到着するという不自然さを感じさせないための工夫だ。

 だが、初めて江戸へ向かう旅人にとっては、たった十分は、永遠にも思えるだろう!

 揺さぶられ、撥ね上げられる。ざばんざばんと恐ろしい水音が周りを取り囲み、前後左右の区別すら曖昧になる。

 水飛沫の隙間から、俺たちと同じ、江戸へ向かう別の猪牙舟の姿が垣間見える。乗客は、皆、俺と同じ【遊客】で、恐ろしい体験に、目を一杯に見開き、息を詰めて、恐怖に耐えていた。

 艫で艪を漕ぐ船頭は、舟がどんなに上下左右に揺すられても、まるっきり動ぜず、手にした艪を巧みに操っている。

 視線を上げ、周りを見渡すと、辺りの風景はリニア・モーターカーの窓から見たように、猛速度で後ろに飛び去り、緑と灰色と、空の青さが、だんだらに溶け合っている。

 前方からは強烈な風がまともに吹きつけ、目も開けていられない。もっとも、本来の速度なら、音速を超えているから、俺たちは舟にしがみつくなど、とうてい不可能だ。


 きゃあきゃあと、女忍者は息を切らせず、悲鳴を上げ続けている。なんという、肺活量だ!

 そのうち、悲鳴だか、歓声だか俺には区別がつかなくなった。

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