三
関所の大門を潜ると、間口九メートル、奥行き五メートル半の面番所があって、正面に関所の責任者である番頭が正座している。奥には横目付けと呼ばれる役人が、床机を出して、帳面に勿体ぶった顔付きで何やら記入している。
番頭は実直そのものといった顔付きで、糞面白くもない関所の業務を、無表情で勤めている。二十俵二人扶持だから、薄給である。
まあ、近郷の苗字帯刀の大百姓が採用されているわけで、百姓のほうが本業だから、薄給でも構わないわけだが。
身につける着物は、当人も百姓の本分を弁えて、木綿の質素なものばかりだ。
「これ! 女は、あちらじゃ!」
足軽――関所の雑用係が、俺の後ろから面番所に向かおうとする女忍者を呼び止めた。女忍者は、訳が分からず、きょとんとした表情である。俺は耳打ちした。
「男女別々になるんだ。あっちでは人見女ってのが待ってるからな」
「ああ、そう!」
女忍者は、明らかに気分を害した様子だ。
俺はニヤニヤ笑って、黙っていた。男女同権は、江戸では未だ未解決の大問題である。俺たち創設者のメンバーでも、女尊男卑の風潮──男尊女卑の間違いではない。実は江戸時代、江戸は女性のほうが権利が高かった。何しろ江戸の町人の男女比率は、女性が少なく(幕末ではやや同数に近づいたが)女は貴重で、守られていた。男女が結婚する際、離婚する時の保証金を明確にした契約書を交わしたほどである──をどうにかすべきだという意見があるのだが、結論は出ていない。
実質的に、江戸では男女同権であるが、こうした形式的な場面では、古くからの慣習が顔を出す。
女忍者は、ぷりぷりと怒りを押し殺し、女専用の改め所へと案内されて行った。女忍者は、自分が差別されていると誤解しているのだ。
見送った俺は、ゆっくりと、関所の配置を眺める。
面番所の周囲には、高さ二メートルほどの木柵が巡らされ、高札が立っている。高札には、これから江戸へ入る際の注意点が、俺たち【遊客】たちにも分かるよう、楷書体で列挙されていた。もっとも、誰も読む者はいないが。
面番所の屋根の向こうに、富士山の偉容が遥かに聳えている。
もちろん、本物の富士山と、まったく同じ高さで、頂きには僅かに雪が残っていた。この景色が【遊客】に「江戸に来たんだ!」と実感させる。
関所を通過するため、【遊客】が一人一人、番頭の前に進み出ると、番士が書見台のようなものを前にして、時々触筆で操作している。
書見台は、実は走査器だ。【遊客】が前に進み出ると、走査器が【遊客】のデータを瞬時に走査し、書見台そっくりのディスプレイに表示するのだ。御禁制の所持品を探している。問題がなければ、入府が許可され、次回からは江戸での所定の出現定点を利用できる。
「次の者! 出ませい!」
足軽の掛け声に、俺は、のっそりと前へ進み出た。
走査器を覗き込む、番士の顔がたちまち驚きに変わる。さっと番頭に伸び上がり、急いで耳打ちをした。番頭も仰け反るような格好になって、俺の顔をまじまじと見詰める。
「俺の名前は、鞍家二郎三郎。何か問題でも?」
番頭はありありと狼狽の色を顔に浮かべ、背後の定番人に上体を捻じ曲げた。
「これ! 儂はこれより、鞍家殿と面談があるゆえ、そちは代人となって、【遊客】たちの相手を致せ!」
早口で命令すると、あたふたと立ち上がる。定番人は、素直に平伏すると、番頭の代わりに面番所の正面に正座した。
俺は番頭の後に続き、面番所の建物に上がりこんだ。大小は右手に持ち替える。
奥に進むと、番頭勝手と呼ばれる小部屋に入る。さらに奥が台所で、床敷きの狭苦しい部屋に、俺と番頭は向かい合って座った。
番頭はゆっくりと胡坐の形になった。板敷きでは、胡坐が正式である。俺は両足をだらしなく投げ出した。両手を背後に突いて、尻餅をついた格好である。
腰を降ろすと同時に、がらりと音を立て、大小を部屋の隅に投げ出した。
この大小というやつ、恐ろしく重い! そりゃあ、当時の武士階級は、身分の象徴として腰にぶら下げるのも平気だったろうが、俺は【遊客】だ。生まれながらの侍じゃない。
大小の代わりに、もっと手軽な武器はないだろうかと、この時も思ったが、妙案は浮かばない。当分、こいつに我慢するしかないのだろう。
向かい合った番頭は「へへーっ!」と全身に畏れを顕わにして平伏した。俺は手を振って、相手の畏まりを止めた。
「よせよ! 堅苦しい真似は、苦手だ」
「しかれど、鞍家様は江戸の開闢お歴々のお一人で御座りますれば……。身供など、同席も憚る高貴なお方……。何しろ将軍様御目見という尊い御身分で御座りますぞ!」
「馬鹿馬鹿しい……」
俺は苦り切った。
確かに俺は江戸で、征夷大将軍――将軍に拝謁できる特権を持つ。将軍は、仮想現実の江戸を創設する中心プランナーで、俺たちは計画の細部を手伝ったに過ぎない。が、俺は江戸が完成した後も、一度も拝謁の特権を行使してはいない。
何しろ将軍は、俺たちにとっても伝説の人物で、口さがない連中の中には、実在すら疑う奴もいる。
俺は番頭の気分をほぐすため、笑いかけた。
「俺は江戸では、ただの浪人。この着物のおかげで〝伊呂波の旦那〟って呼ばれている。そう、しゃち強張らなくてもいいぜ!」
「恐れ入り奉りまする……」
降参だ!
俺は番頭の目を見据え、強引に話題を変えた。
「俺の身に何が起きたか、承知しているな?」
番頭はゆっくりと点頭した。
「関所には、江戸で起きた重大な事件は、すぐさま通報される決まりで御座りまする。鞍家様が、死体で発見されたという変事は、まったく驚き入り申す他は御座りませぬ」
「まったくだ」
俺は同意した。そりゃ、江戸で死体が発見されるのは珍しくはない。その死体が、俺のような【遊客】だったのが、珍しい……驚天動地の変事だ! ……のだ。
「溺死だったそうだな。本当にそうなのか?」
番頭は、不審そうに、俺を見つめ返した。
「検使与力による検分で御座りますれば……。報告によりますれば、肺のすべてに水が溜まっておったそうな。明らかに、溺死で御座ろう」
「なるほどな……」
俺は自分の考えを呟いていた。
「俺たち【遊客】が、江戸で死ぬのは、不思議じゃない。突然の事故で、旗本の馬に蹴られる、大八車に轢かれる、防火用水の天水桶が崩れて下敷きになるとか、厭な話だが、辻斬りに後ろからばっさりと斬られたとかなら、頷ける。しかし溺死だぜ! 溺れ死ぬ前に、たっぷりと時間の余裕があったはずだ! その間に、非常脱出の、現実転移すらできないとは、信じられねえ。いったい、俺の身に何が起きたんだ?」
番頭は気弱げな、沈黙を保った。百姓にして関所の役人に取り立てられるほどだから、仕事に対する熱意や、義務感は人並み以上だろう。
だが、生憎、想像力は蝿の脳味噌ほども持ち合わせていないようだ。もとより、俺は番頭の返事など当てにはしていないが。
俺は大小を掴み、立ち上がった。
「埒もない考えはやめだ! 俺はすぐ、江戸入りをする! おい、猪牙舟を頼むぜ!」
「畏まって候!」
明確な俺の指示に、番頭の顔に初めて笑顔が浮かんだ。