そんな事で気を引こうとしても無駄なんだから!
有栖川亜梨沙は大富豪である有栖川龍之介の一人娘で、高校二年生です。
亜梨沙はそれなりに美少女ですが、胸が小さいのを気にしています。
小さいどころか、抉れていると思っています。スタイルに関してはかなり悲観的です。
ですが、男子達の多くは亜梨沙と付き合いたいと密かに願っています。
そんな亜梨沙の邸に新しく執事が来ました。
その人の名はトーマス・バトラー。執事の本場である英国の出身です。
金髪で碧眼。その上イケメンで、亜梨沙は完全に一目惚れしてしまいました。
誰にも言えずにいましたが、親友の桜小路蘭には見抜かれてしまいました。
亜梨沙はそれに気づいていません。
更にそんな亜梨沙に追い討ちをかけるように登場したのが、トーマスの妹のキャサリンです。
彼女も金髪碧眼の美女で、亜梨沙を動揺させました。
キャサリンが亜梨沙に「私はトムの義理の妹」と宣戦布告して来ました。
最大のライバルの出現に亜梨沙はどう立ち向かうのでしょうか?
亜梨沙は真っ暗な場所を汗まみれになって走っています。
息が上がり、身体が火照り、今にも力尽きそうですが、何とか前へと足を出しています。
(もう限界……。もう無理! って、私、何から逃げているの?)
理由も不明のまま、亜梨沙は走っていたのに気づきます。
「え?」
すると突然目の前に光が溢れ、亜梨沙は荘厳な尖塔に十字架が建てられている教会の前に出ました。
(どういう事?)
さっきまでの真っ暗闇は振り返ると存在しておらず、そこには太陽の光を受けて小波を輝かせている湖がありました。
亜梨沙は酷く混乱しましたが、後ろから大勢の人々の声が聞こえたので、また教会を見ました。
どうやら誰かの結婚式のようです。
そこに集っている人達は、皆亜梨沙の知っている人です。
父親の龍之介。親友の蘭、桃之木彩乃。
セクハラ魔神の早乙女小次郎。
何故か金髪から黒髪に戻した高司譲児。
クラス担任の坂野上麻莉乃。
邸のメイドや庭師、コック、警備員までが正装しています。
更に驚いた事に十二神将達も嬉しそうに尾を振っています。
(誰の結婚式?)
嫌な予感がする亜梨沙です。
邸にいる人のうち、二人の姿が見えません。
(まさか……)
亜梨沙の予感は的中しました。
教会の中から牧師と共に出て来たのは、アイボリーホワイトのタキシード姿のトーマスと、シルバーホワイトのウェディングドレスを身に纏ったキャサリンでした。
信じられないくらい美しく神々しくさえある新郎新婦です。
龍之介達が口々に祝福の言葉を二人にかけました。
蘭や麻莉乃もトーマスの事を狙っていたはずなのに、嬉しそうに二人を見ています。
「いやああ!」
亜梨沙が絶叫すると、教会が崩壊してそこにいた全員が霧のように消えました。
また闇に取り囲まれる亜梨沙です。
「諦めてください、お嬢様。貴女に勝ち目はありませんよ」
不意にどこかからキャサリンの声が聞こえます。
「ケイト? どこにいるの!?」
亜梨沙は泣き出したい気持ちを堪え、周囲を見渡しますが、そこには闇しかありません。
「私はトムとは血がつながっていない義理の妹です。ですから貴女とはライバルです。絶対に負けませんから」
キャサリンがヌッと背後の闇から現れ、亜梨沙の肩を掴みました。
「いやああ!」
亜梨沙はまた絶叫してその手を振り払います。
その途端、亜梨沙はベッドから転げ落ち、目を覚ましました。
「夢……」
亜梨沙はホッとしましたが、とても夢とは思えないほど、キャサリンの言葉は耳にはっきりと残っています。
(今のは確かに夢だけど、ケイトは紛れもなく私にそう言った)
亜梨沙はヨロヨロと立ち上がり、ベッドに座りました。
うなされたせいか、髪はクシャクシャになっており、ベッドのシーツも乱れています。
「私……」
どうすればいいの? そう言いたかった亜梨沙ですが、涙が溢れて来て、声になりません。
その時、ドアをノックする音が響きました。
「はい」
亜梨沙はピクンとして応じます。
「お嬢様、お食事のお時間です」
キャサリンの声でした。亜梨沙は涙を拭い、ベッドから立ち上がります。
「すぐに行くわ」
「畏まりました」
キャサリンはそう言うと立ち去ったようです。
(負けないんだから!)
心の片隅にほんの少しだけ残っていた勇気を振り絞り、亜梨沙は自分に気合を入れます。
「まだ終わった訳じゃない」
亜梨沙は髪を梳かし、制服に着替えると部屋を出ました。
朝食の時、亜梨沙は一言も口を利きませんでした。
龍之介は亜梨沙の様子がおかしいのに気づき、ダイニングを出る時に声をかけました。
「亜梨沙、具合が悪いのか?」
龍之介は本当に心配そうに亜梨沙の顔を覗き込みましたが、
「だ、大丈夫よ、パパ。行ってらっしゃい」
亜梨沙は作り笑いをして龍之介の頬にキスしました。
「お、おう……」
まさかそこでキスされると思わなかった龍之介は柄にもなく照れてしまいます。
(心の準備ができないうちにされると、ドキッとするものだな)
龍之介は苦笑いして廊下を歩き出しました。
亜梨沙は龍之介に手を振り、部屋に戻って行きます。
(こんな時、母親が必要だと思ってしまうな)
龍之介は亜梨沙の気持ちを読み切れないのを感じているのです。
出かける準備をすませた亜梨沙は鞄を肩にかけて部屋を出ました。
廊下を歩き出そうとした時、その先からトーマスが歩いて来るのに気づきます。
(トム……)
今日は顔を合わせないように出かけようと思った亜梨沙でしたが、
「お嬢様、お出かけですか?」
トーマスはいつもと変わらない笑顔と歯の輝きで言いました。
「う、うん」
何となくトーマスの顔から目を逸らせてしまう亜梨沙です。
「ケイトの事なのですが」
トーマスの口からその名前が出るとは思わなかった亜梨沙です。
「え?」
ビクンとしてトーマスを見上げます。
「彼女は仕事熱心なあまり、お嬢様に厳しく接していると思いますが、決してお嬢様を憎んでいるからではないという事だけはご理解ください」
トーマスは笑顔を封印して言いました。
(ああ、真剣な表情も素敵、トムゥ!)
心の中で叫ぶ亜梨沙です。
「それはわかっているわ。でもどうしてそんな事を?」
亜梨沙はトーマスから視線を外して尋ねました。
「ケイトが、お嬢様に嫌われていると申しましたので」
トーマスの言葉は意外なものでした。
「え?」
亜梨沙はドキンとしました。心臓が肋骨を砕いて飛び出しそうです。
「そんな事ないわ。誤解よ。ケイトを嫌っているはずないじゃない。彼女は素晴らしい家庭教師だし、礼儀作法も細かく教えてくれるわ。大好きよ」
亜梨沙は心が張り裂けそうでしたが、そう言いました。
(亜梨沙の大嘘つき)
自分で自分を罵る亜梨沙です。
「そうですか。ではケイトにはお嬢様のお言葉を一言一句間違える事なく伝えます」
トーマスはスウッと優雅にお辞儀をしました。
「ええ、そうして。私もケイトにそんな風に思われるの、嫌だから」
亜梨沙は心とは裏腹の言葉を口から吐く自分が嫌になります。
「じゃあ、行って来るわね」
それ以上トーマスと話をするのが辛くなった亜梨沙は、鞄を肩にかけ直して歩き出しました。
「行ってらっしゃいませ」
トーマスは再び奇麗なお辞儀をしました。
その様子を廊下の角からキャサリンが見ています。
「随分と偽善者ですわね、亜梨沙お嬢様」
キャサリンはフッと笑うと、廊下を歩き去りました。
すっかり先日の雪も溶けた天照学園へと続く舗道を歩く亜梨沙に一番に接近したのはセクハラ魔神でした。
「おっはよう、有栖川!」
小次郎はいつものように亜梨沙の背後から迫り、胸に手を回そうとします。
ところが、その手が亜梨沙に届く前に小次郎は更にその後ろから羽交い絞めにされました。
「早乙女、天誅である」
それは有栖川亜梨沙親衛隊の腕章を着けた貧乳主義者達三人でした。
三人は黒い頭巾を被っており、誰が見ても怪しいです。
背後で騒動が起こっているにもかかわらず、亜梨沙はそのまま歩いて行ってしまいます。
「天誅!」
小次郎は亜梨沙親衛隊のメンバーによって舗道の脇に連行され、口に猿轡を噛まされ手足を縛られた揚げ句、ボコボコにされました。
(な、何で……?)
涙を流しながら痛みに堪える小次郎です。
「これに懲りて、もう二度と有栖川さんに非道を働かぬと誓え。さもなくば、これらの証拠と共に警察に突き出す」
親衛隊の一人が小次郎の悪行を撮影した写真と携帯動画を見せました。
それには確実に逮捕されそうな小次郎の「悪行」の数々が写っています。
「フガフガ」
小次郎は泣きながら頷きました。
(自業自得だな。いい加減正面からぶつかれよ、小次郎)
それを遥か後方から見ていた親友の譲児でした。
亜梨沙は気づかなかったのですが、蘭と彩乃は小次郎が天誅を下されているのを見て驚いて亜梨沙に駆け寄りました。
「亜梨沙、貴女の指示なの、あれ?」
蘭が尋ねます。亜梨沙はキョトンとして、
「何の事?」
「小次郎君が大変な事になっているわよ」
彩乃が小次郎の方を見て言いました。
「え?」
亜梨沙はその時初めて親衛隊の所業に気づきました。
亜梨沙が見たのを知った親衛隊の三人は敬礼をして走り去りました。
「何なの、あいつら?」
亜梨沙が首を傾げて言います。すると蘭が、
「貴女、本当に鈍感よね。クラスに親衛隊がいるの、知らないの?」
「親衛隊? 何それ?」
亜梨沙は目を見開いて尋ねました。
「亜梨沙ちゃん、クラスの男子の半分に恋されてるのよ」
彩乃がきっぱりと言い切りましたが、「半分」の根拠は全くありません。
「まさか。男共は蘭や彩乃の巨乳に釘付けよ」
亜梨沙は渇いた笑みを浮かべ、歩き出しました。
「蘭ちゃんはともかく、私は巨乳じゃないわよ、亜梨沙ちゃん」
彩乃はプウッと剥れて亜梨沙を追いかけます。
その胸は確実にユサユサと揺れています。明らかに彩乃は自分の胸に対する認識がずれています。
彩乃の発言に苦笑いし、二人を追いかける蘭です。
(男は巨乳が好きな連中ばかりじゃないと思うけど)
蘭は三人の中で一番冷静です。
「蘭さん」
譲児が蘭に声をかけました。蘭はピクンとして立ち止まります。
「俺、諦めてないから。いつか蘭さんに振り向いてもらえる男になるから」
譲児はそれだけ言うと、蘭の言葉を待つ事なく、歩き去りました。
「譲児君……」
蘭の心に譲児の男気が染みました。
亜梨沙親衛隊の「活躍」で小次郎はすっかり大人しくなり、その日一日亜梨沙に近づきませんでした。
「寂しそうね、亜梨沙ちゃん」
帰り道で彩乃がニコニコしながら言います。
「寂しい訳ないでしょ!」
ムッとして口を尖らせる亜梨沙を見て、木の陰で悶絶する親衛隊総勢七名です。
「有栖川さーん」
皆、亜梨沙のためなら真冬の滝行も厭わないようです。
(やっぱり桃之木に乗り換えようかな……)
散々な日だった小次郎は思いました。
亜梨沙と彩乃のやり取りを微笑んで見ている蘭は、譲児の事が気になっていました。
辺りを見渡しますが、小次郎の脱力した姿は見えても、譲児の姿は見えませんでした。
(譲児君……)
蘭はますます譲児の事が気になってしまいました。
亜梨沙が邸の門をくぐり玄関へと歩き出した時です。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
キャサリンが現れました。思わずギクッとしてしまう亜梨沙です。
「た、只今、ケイト」
亜梨沙は引きつった顔で応じました。キャサリンは周囲に人がいないのを確認し、
「お嬢様、昨日の私の話、冗談だと思っていますね?」
息がかかるくらい顔を近づけて囁きます。
「え?」
改めてそう言われ、亜梨沙はまたビクッとしてしまいます。
「本気ですよ。絶対にお嬢様には負けませんから」
キャサリンはニヤリとして言うと、サッと身を翻して庭園の方に歩いて行きます。
遠くから様子を窺っていた十二神将達がキャサリンを見て慌てて逃げ出しました。
亜梨沙はしばらくそちらを見ていましたが、
(負けないんだから!)
玄関へと歩き出そうとした時、ほんの少しだけ残っていた雪に足を取られ、転びかけました。
「キャッ!」
そのまま尻餅を突くかと思った瞬間、
「お嬢様!」
トーマスの声がして亜梨沙は転倒を免れ、トーマスの腕の中にドスンと倒れ込みました。
「お怪我はありませんか、お嬢様?」
そう言って亜梨沙を見つめるトーマスですが、彼は亜梨沙を受け止めるために亜梨沙と地面の間にいたので、身体を強く打ったようです。
(トム……)
亜梨沙はトーマスの腕の中にいるのとトーマスが身体を打ったのとで全身が火照り、パニック寸前です。
(どかなくちゃ、早くどかないとトムが……)
慌てて立ち上がろうとする亜梨沙ですが、トムの腕から離れられません。
腰が抜けてしまったようです。
「お嬢様……」
トムは激痛に堪えながらも亜梨沙を抱えて立ち上がりました。
「トム……」
それをキャサリンが見ていました。怒りで目が吊り上がり、握りしめた両手が震えています。
「お嬢様、お怪我はございませんか……」
トーマスはゆっくりと亜梨沙を地面に立たせてもう一度尋ねました。
「大丈夫……」
亜梨沙は溢れそうな涙を堪えながら言いました。
「良かったです」
トーマスは弱々しく微笑みます。いつもの会心の笑顔ではありません。
「トム!」
亜梨沙を支えていたはずのトーマスの身体がガクッと崩れます。
「トム!」
亜梨沙はトーマスが自分に倒れかかって来たのに気づき、仰天しました。
ドキドキしている余裕もないほど衝撃的な展開です。
(トム、立ってられないの?)
亜梨沙は必死にトーマスを支えます。トーマスは激痛のあまり意識を失ったようです。
「そんな事で気を引こうとしても無駄なんだから!」
意味不明な事を叫んでもトーマスが反応しないので、亜梨沙は、
「誰か来て! トムが、トムが……!」
キャサリンはトーマスの様子がおかしいのに気づき、びっくりして駆け出しました。
亜梨沙の絶叫に庭師やメイド達が驚いてやって来ました。
「トム! トム!」
自分より遥かに大きくて重いトーマスを必死になって支えながら、亜梨沙は叫び続けました。
お読みいただきありがとうございました。