私があなたに落ちるなんて絶対にないんだから!
いろいろ複雑な事になって来ました。
有栖川亜梨沙は大富豪である有栖川龍之介の一人娘で、高校二年生です。
亜梨沙はそれなりに美少女ですが、胸が小さいのを気にしています。
小さいどころか、抉れていると思っています。スタイルに関してはかなり悲観的です。
ですが、男子達の多くは亜梨沙と付き合いたいと密かに願っています。
そんな亜梨沙の邸に新しく執事が来ました。
その人の名はトーマス・バトラー。執事の本場である英国の出身です。
金髪で碧眼。その上イケメンで、亜梨沙は完全に一目惚れしてしまいました。
でも誰にも言えずにいます。
ところが、親友の桜小路蘭には見抜かれてしまいました。
でも、亜梨沙はそれに気づいていません。
亜梨沙達の通学する天照学園高等部にある応接室では、生徒指導の富士原美喜雄先生が深刻な表情で保護者と向かい合っています。
「息子の仕出かした事は、確かに退学にされても仕方のない事です。警察に通報しない上、自主退学扱いにしていただいた事は感謝しております」
その保護者は、蘭を襲った三年男子の母親でした。
彼女は洋服箪笥の奥に長くしまわれていて防虫剤の匂いがプンプンして来そうな黒のワンピースを着ています。
富士原先生には母親が何故学園に来たのかおよその見当はついていました。
母親は自分の息子の不始末を嘆きましたが、学園側にそれについての苦情を言いに来たのではないのです。
主犯格である保健担当の里見美玲先生が謹慎処分ですんでいるのを知ったからでした。
「息子に対する処分には不服も不満もございません。ですが、息子を唆した里見先生が謹慎処分のみとは、あまりにも差があるのではないですか?」
母親は嗚咽交じりに富士原先生に言いました。
「それについては、こちらとしましても、息子さんを唆したという確たる証拠がありませんので、それ以上の処分は難しいのです。謹慎処分ですら、里見が拒否すればできなかったのです」
富士原先生は沈痛な面持ちで応じました。
「そんな……。あんまりじゃないですか……。息子は里見先生に言われてしたと言っているのです。それが何よりの証拠じゃないですか!?」
母親の語気が荒くなります。彼女の鼻息は富士原先生にもはっきり聞こえるほどです。
(興奮して来ているな。このままでは収まりがつかなくなる)
富士原先生は母親を宥めようと思いましたが、いい言葉が思いつきません。
「私共と致しましては、里見先生個人に対して損害賠償を請求する訴訟を提起するつもりです」
母親は涙をシワクシャになったハンカチで拭いながら言いました。
「訴訟、ですか?」
富士原先生もそんな事を言われるとは思っていなかったので、目を見開いてしまいました。
元々ギョロ目ですから、飛び出て来てしまいそうです。
「ええ。そうでもしなければ、気がすみません」
母親は充血した目で富士原先生を睨みつけます。
「しかし、そこまでしますと、貴女のお子さんも傷つきますよ」
富士原先生は何とか思い留まってもらうためにそう言いましたが、
「もう十分息子は傷ついています!」
母親は更にヒートアップし、テーブルを両手でバンと叩きました。
「裁判だけは思い留まっていただけませんか? 学園と里見の事はともかく、そうなると被害者の女子の事まで表沙汰になりますので……」
富士原先生のその言葉に母親はビクッとしました。
「お母さんは息子さんから相手の女子生徒の名前は聞いていますよね?」
富士原先生は慎重に言葉を選ぶようにして語りかけました。
「はい……。二年生の桜小路蘭さんだと聞いております」
母親の顔が引きつりました。
「彼女は我々のやり取りを一切知りません。そして、学園側が事件に気づいている事も知りません」
富士原先生はドンドン顔を俯かせて行く母親を優しい眼差しで見ながら、
「今貴女方が訴訟を起こされると、桜小路に全てがわかってしまい、彼女をまた傷つけてしまいます。そして何より、桜小路は事の経緯を両親にも話していないようです。そんな形で娘に何があったのか知る事になる両親の気持ちを慮ってください。一人の母親として。そして、桜小路の気持ちも察してあげてください。一人の女性として」
母親はまた涙を流し始めましたが、その涙は先程のものとは理由が違うようです。
「わかりました。ではせめて、里見先生と話をさせてください」
母親は流れた涙を拭わないままで顔を上げました。
「それは……」
富士原先生は返事に窮しました。
(もし里見先生が妙な態度をとれば事態はこじれるし、断われば振り出しに戻りそうだ。どうすればいい?)
「わかりました。里見とお会いください」
そこに理事長である天照寺妃弥子が入って来ました。
「理事長」
富士原先生は仰天してまたギョロ目を見開き、立ち上がりました。
「大丈夫ですよ、富士原先生」
理事長は富士原先生に微笑んでから母親に近づき、
「その代わり、私も立ち会わせてください。それでよろしいですね、お母さん?」
「はい、理事長先生」
母親は立ち上がり、深々と頭を下げました。
その頃、当事者の一人である蘭は、教室の自分の席で教科書を鞄から出していました。
「蘭さん」
高司譲児が蘭に近づいて声をかけました。
色めき立つその他大勢の男子と女子です。
「何、譲児君?」
蘭は微笑んで譲児を見上げます。
「映画、楽しかった?」
譲児は含羞んだ笑顔で尋ねます。すると蘭は、
「ええ、楽しかった。譲児君てセンスいいわね。私、最後の方で泣いちゃった」
と笑顔で返しました。
(羨ましいぜ、譲児!)
譲児の親友の早乙女小次郎は涙ぐんでいます。
(俺も有栖川と二人っきりで映画を観に行きたい!)
妄想では亜梨沙と何度もデートをしてキスまですませている小次郎です。
「そうなんだ。全然気づかなかったよ」
譲児は驚いた顔で言いました。
「気づかれないようにしたからよ」
蘭がクスッと笑って言ったので、女子達が殺気立ちました。
(ううう! 桜小路さんは有栖川さんのお邸の執事さんにしてよ!)
全員闘気が出そうな勢いで蘭を睨んでいます。
「次は何を観に行こうか?」
譲児は意を決した顔で尋ねました。次の約束を取り付けられれば、もっと安心できる関係になれると思ったのです。
(いやああ!)
女子達が心の中で血の涙を流して絶叫します。
(やるなあ、譲児)
思わずメモする小次郎です。ところが、
「次? 何言ってるの、譲児君? 映画を観に行ったのはこの間のお礼よ」
蘭はあっさりと言いました。
「へ?」
譲児は今世紀最高の間抜け顔になりました。
(え?)
キョトンとする女子達です。
「は?」
メモの手が止まる小次郎です。
「次なんてないわよ。貴方は私の彼氏ではないのよ。勘違いしないでね」
蘭のあまりの衝撃発言に譲児は固まってしまいました。
小次郎は思わず鉛筆を落としました。
女子達も蘭が譲児に気がないのを知って一安心ですが、
(譲児君が可哀想)
蘭に再び闘気を噴き出して怒りを向ける女子達です。
(ごめんね、譲児君。私、やっぱりトムを諦められない)
蘭は心の中で譲児に詫びました。
「蘭ちゃん、譲児君とは遊びだったのね」
天然爆弾娘の桃之木彩乃が亜梨沙に囁きました。
「う、うん……」
亜梨沙は蘭の言葉に違う意味で衝撃を受けていました。
(蘭はやっぱり私のトムを諦めていないのね)
亜梨沙は胸が高鳴るのを感じます。
何度も繰り返すようですが、トーマスは亜梨沙のものではありません。
もちろん、蘭のものでもないですが。
「はい、席に着いて」
そこへ最近すっかり有栖川邸に姿を見せなくなった坂野上麻莉乃先生が入って来て言いました。
麻莉乃先生は里見先生が謹慎処分になった事を職員会議で知りましたが、理由については説明がなかったので知りません。
(私との事が知られたのかしら? でも何も訊かれなかったし……)
里見先生の謹慎が気になる自分に驚く麻莉乃先生です。
(あんな人、そのまま来なくなった方がいいのよ)
そう思いながらも、そうは思わない別の自分がいるのです。
(私……)
麻莉乃先生はホームルームを進行しながら、里見先生の事を考えていました。
一方、教え子である錦織瑞穂に告白同然の事をされた美津瑠木新之助先生は、瑞穂のクラスに向かいながら思い悩んでいました。
(どうすればいいんだ?)
瑞穂とはあれ以来全く話をしていません。できないのです。
新之助先生に気づくと、瑞穂は逃げてしまうからです。
会えるのは教室だけですが、まさか大勢の生徒のいる前で事情を説明できません。
「はあ……」
新之助先生は溜息を吐きました。
その新之助先生と瑞穂のやり取りの一部始終を見てしまった瑞穂のクラスメートの寺泉学は、瑞穂の事が心配でたまりません。
しかし、あの時の事を見ていたと言えない学です。
(畜生! 美津瑠木の奴、いつか勝負してやる!)
そう思う学ですが、何で勝負するのかは考えていません。
(美津瑠木先生……)
瑞穂自身も、新之助先生を見かけると逃げてしまう自分を情けなく思っていました。
(自分に自信がない……。麻莉乃先生みたいな巨乳じゃないし)
瑞穂は胸をジッと見ているうちに悲しくなりました。
そこへドアをガラッと開けて新之助先生が入って来ました。
「起立」
瑞穂は反射的に号令をかけます。生徒達が一斉に立ち上がりました。
「礼」
瑞穂は新之助先生を見ないようにして言います。
「着席」
新之助先生も瑞穂を見られません。
そしてまずい事に、瑞穂が新之助先生に告白紛いの事をしたのを女子達が知っているようです。
あちこちでヒソヒソ声が聞こえます。
「授業始まったんだぞ、私語は慎め」
新之助先生が注意しますが、ヒソヒソ声の内容が自分と瑞穂の事らしいのは雰囲気でわかりました。
(言い訳するのもおかしいから、放置するしかないか)
新之助先生は授業を進めました。
里見先生は、一人暮らしをしているアパートの一室で上下グレーのジャージ姿でベッドに寝転んでいました。
栗色の髪はボサボサで、梳かした形跡がありません。
玄関の脇にあるキッチンのシンクには洗わないままの皿や茶碗やスプーンやフォークが山積みです。
(辞めちゃおうかなあ。気まずいし……)
でも彼女は麻莉乃先生の事が諦められません。
その時、テーブルの上に放り出してある携帯が鳴り出しました。
「誰?」
里見先生はベッドから起き上がり、脇にある机に置いたチェリーピンクの楕円形の眼鏡をかけます。
「おっと」
あちこちに散乱したカップ麺の容器やコンビニ弁当の空箱を避けながら、里見先生は携帯に出ました。
「理事長先生?」
里見先生意外な電話の相手に緊張しました。
蘭が譲児をあっさり振ったので、また第一級警戒体制に入った亜梨沙ですが、更に追い討ちをかけるように、
「今日亜梨沙ちゃんのお邸にお邪魔してもいい?」
彩乃が言ったのです。
数日前までは全然そんな様子もなかった彩乃ですが、出先で偶然トーマスと会ってしまってから、ジョニデ命が揺らいでいるようなのです。
(蘭と彩乃には胸でハンデがあるからなあ)
亜梨沙は彩乃の申し出を断われず、只今一緒に下校中です。
「ねえ、彩乃、どうして急にウチに来たいって言ったの?」
舗道を歩きながら、亜梨沙が尋ねました。
「もちろん、執事さんとお話がしたいからよ」
彩乃のストレートな答えにギョッとする亜梨沙です。もう少しでさかな君になりそうです。
「そ、そうなんだ。つまらないよ、トムって」
亜梨沙は何とか彩乃の気を削ごうと思って言います。
(嘘よォ、トムゥ! 貴方は最高よォ!)
亜梨沙は心の中で叫びました。
いつもなら一刻も早く家に帰り着きたい亜梨沙ですが、
(もう着いちゃった……)
今日は早く着きたくなかったのでした。
「そんな事ないと思うよ」
彩乃は嬉しそうに答えます。
(蘭より危険かも知れない)
亜梨沙は彩乃の天然がトーマスをドキッとさせるかも知れないと心配します。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
トーマスは庭に出ていて、二人が門をくぐるとすぐに気づき、お辞儀をしました。
「た、只今、トム」
亜梨沙はごく普通に振る舞っているつもりのようですが、トーマスが現れた途端、動きがぎこちなくなりました。
手と足に金属の棒が入っているように関節が固くなっています。
「こんにちは、トーマスさん」
彩乃は笑顔で挨拶しました。
「いらっしゃいませ、桃之木様」
トーマスが白い歯をキラッとさせて挨拶すると、彩乃は何ともないのですが、亜梨沙がクラクラしてしまいます。
「ご案内致します」
トーマスは二人を先導して玄関へと歩き出します。すると彩乃が、
「あのお訊きしたい事があるんですけど?」
「はい」
トーマスは立ち止まって振り返ります。
(何を訊く気なの、彩乃?)
亜梨沙は緊急発進指令をしそうな顔で彩乃を見ます。
「トーマスさんは胸の大きな女の子は好きですか?」
いきなりの核心の質問に亜梨沙はすでに緊急発進体制です。
(トムゥ……)
泣きそうな顔でトーマスを見上げる亜梨沙です。
彩乃は目をキラキラさせてトーマスの答えを待っています。
「いえ、私はそういう事にはこだわりはありません」
トーマスはニコッとして応じました。
「そ、そうですか」
少しがっかりした様子の彩乃です。
(やった!)
思わずガッツポーズをしてしまう亜梨沙ですが、トーマスと彩乃が見ている事に気づき、慌ててやめます。
「私があなたに落ちるなんて絶対にないんだから!」
亜梨沙は苦し紛れにそう叫ぶと、
「亜梨沙ちゃん!」
呼び止める彩乃を振り切って、そのまま玄関へとパンチラさせながら走って行ってしまいました。
「亜梨沙ちゃん、今日はヒツジさん……」
思わず呟いてしまう彩乃です。
「精進致します、お嬢様」
トーマスは深々と頭を下げました。
そんな二人の様子を邸の二階の窓からトーマスの妹にして亜梨沙専属のメイドのキャサリンが見ていました。
お読みいただき、ありがとうございます。