5 それまで~おまけの猫話~
小島結菜は、機嫌が良かった。
『人間の役目は、子供を生むことだ。それ以外に価値はない』
と、贅沢の限り我が儘の限りを許すくせに、非人間的主張を結菜に理解させようと日参してくる老人がいないこの国が、とても気に入ったからだ。
もっと言うならば、この世界には大嫌いな両親と妹もいない。始めのうちこそ身勝手な連中に腹を立てたりもしたが、結局のところ日本で行き詰まっていた彼女にとって、ここは究極の逃げ場なのだ。
わかってしまえば、目新しい生活は刺激的でとても楽しい。
魔法が使えたり、何かしら動物の特徴を持った種族がいたり、初めて見る景色、物語に出てくるような可愛らしい町並み、どれもこれもが結菜の好奇心を刺激する。
「食事を作るなんて真っ平だって言われると思ったんだけど」
「どうして?」
暖炉でシチューを煮るなんて、まるでなにかのアニメみたいだと思いながら鍋をかき回していた結菜は、ぽそりとエイリスが呟いた言葉に首を傾げる。
「だって、ハーレム作って楽して暮らすのが理想だったんじゃないの?」
「ああ。それは夢だから。別に家事ができないわけじゃないし、自活できるならそれでもいいんだ」
その夢さえも実はどうでもいいと思い始めていることは敢えて口にせず、結菜はにこりと笑った。
腹立ちと不快感の中、自堕落に暮らしていたハイジェントでならいざ知らず、選択の自由があって誰とも比較されずにいられる今の生活に、不満はない。働くことだって、高校生の頃からバイトをしていたのだから、寧ろ習慣付いているといってもいいし、親に気に入られたくて家事も率先してやっていたから、料理など得意分野だ。
考えてみれば日本にいた頃とさして変わらない日常だと、結菜はエイリスに言う。
「貴女…ミヤより苦労してたんじゃない?」
「苦労、はしてないでしょ。ただ彼女とは環境が違うだけで」
食べるに困ったわけでなし、普通の大学生だったわけだから、ミヤより大変だったことはない。家族に恵まれてはいなかったけれど、それで誰かを羨んだり妬んだりした結果がミヤに吐いた暴言だったのだとしたら、あれはあまりに自分を貶める。
わかったからこそ結菜は魔女の同情を受け流して、家事に仕事に勉強にと精を出した。己の為の努力は、他人の評価を期待しない分、充実感に溢れていた。
けれど、一つくら問題は出てくるものだ。
「また来てたの?」
ミヤのところでイオと戯れ、鼻歌交じりに自室に帰り着くと、ベッドの上には猫が一匹。
「毎日来るって言っただろう?」
縦に光彩の入ったヘーゼルキャッツアイを細めて、雄猫が笑った。
だらしなくベッドカバーの上に寝そべる姿は、萌えの溢れた街でなら一部マニアに受けそうな色気を振り撒いていたけれど、結菜にとっては迷惑でしかない。
「またミヤのところに行ってたの?」
「そうよ」
「ふーん…面白くないなぁ」
尻尾を左右に振りながら、妖しく瞳を光らせたジャイロは、しなやかな身のこなしで音も立てずに床に降り立つ。
「僕より赤ん坊が好き?」
そうして警戒する結菜に一歩で近づくと、ふんふんと鼻を首筋に近づけた。
「ミルクの匂いがする」
「いっぱい抱いたもん」
基本的に感情を主食にしている天使だが、肉体を育てるために母乳も飲む。イオも当然例外ではなくて、半日一緒に過ごした中で一度ミヤから授乳していた。その子をほとんどの時間抱いて過ごしていれば、当然匂いも移るというもの。
肌に触れそうなほどの距離で、あちこち嗅ぎまわるジャイロを煩そうに追い払って、結菜は彼から距離を取った。
「あんまり近づかないで」
「なんで?」
「他人だから」
逃げた彼女をジャイロが追う。
そんなことを繰り返せば、狭い部屋の中ですぐに行き場を失うのは当然で。
トンと背中を壁にぶつけた結菜は、恨めし気に口角をあげた猫を睨めつけた。
「じゃあ、他人をやめればいいよ」
「…やめてどうすんのよ」
「恋人でも夫でも、ユウナが好きなものに僕をすればいい」
「他人のままで十分…っ」
言いかけの唇が乱暴にふさがれて、ひっかいてやろうと伸ばした指先は大きな手にからめ捕られる。
ミヤならば、このくだりで抵抗できずに懐柔されるんだろうな。
そんなことを考えながら、タイミングよく侵入してきた舌に思いきり噛みつく結菜なのだった。
***************
「懲りないわね、アンタも」
「根気があるんだよ、僕は」
ジャイロは結菜が一人になるタイミングを計って、視界にちらりと忍び込む。
今日も遊び疲れたイオと、話し疲れたミヤが長椅子で昼寝を始めた頃合いで、フラリと悪魔の屋敷に姿を見せた。
「エイリスのところならともかく、人様のうちに勝手に上り込んでんじゃないわよ」
「いつものことだろう?」
「だから怒ってんじゃない」
こうして猫にちょっかいを掛けられ続けて早1年。
3日に一度は撃退しているというに、諦めないジャイロにはいっそ感心してしまう。いつだってキスを盗むのが精いっぱいで、見返りに流血することも多いというのにご苦労なことだ。
「君はつれないねぇ」
「…理由があんのよ」
大きなガラス窓を背にしているせいで表情が読めないジャイロは、多分あの人の悪い笑みを浮かべているんだろう。
癇に障るニヤけた顔を思い出した結菜は、不機嫌に眉を吊り上げるとそっぽを向く。
舐めたり撫でたり口づけたり。
許しも得ないで好き放題セクハラしまくるこの猫は、口が回るくせに言葉が足りない。丸め込もうとするくせに肝心なことは言葉にしないんだから、素直になんてなれるはずもない。
「さっさと僕のものになっちゃいなよ」
相変わらず足音をさせずに、ソファーに沈む結菜の前まで移動したジャイロは背もたれに腕を突いて顔を寄せる。
「断る」
「強情だね」
楽しそうに尻尾が揺れているうちは、キスが精々。
ふわりと触れる唇に応えながら、結菜は心で舌を出す。
まだまだ踏み込ませてなんてやらないんだから。こっちに来るのは早いのよ。
悪戯な手のひらをつねりあげながら、ほくそ笑むのは実は女。
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不思議な感覚だった。
翳した手のひらにはっきりとしたイメージがある。まるで写真のように、おなかの中の様子が見える。
頭と足を互い違いに、まだ余裕がある空間で漂っているのは、小さいながら立派な人間だ。
背中に小さな翼を生やして、金の髪の女の子と、銀の髪の女の子が、羊水の中で心音を刻む。
「…コジマさん、見えました?」
「うん…すっごい感動もんよ、これ」
エイリスの診察に同行した夕菜は、産み月まであと半年のミヤの赤ん坊を診察する許可をもらったのだが、言われたとおりに魔力を操ってびっくりした。エコー写真なんてものじゃない。フルカラーの高画質映像だ。
「どんなふうに見えるの?」
途中で修業をやめざる得なかったというミヤは、おなかの子を見ることができない。魔女に聞いても日本人である彼女にわかりやすく説明する術がないためか、これまで『診察』がどんな仕組みなのかうまく理解できなかったのだが、故郷を同じくする結菜に聞けば分かるかもしれないと、身を乗り出している。
その期待に応えるべく、結菜はできるだけ的確な表現で映像のすごさを伝えてやった。彼女たちにだけわかる言葉の羅列にエイリスは首をかしげていたが(地球独特の物の名は、そのまま翻訳されているらしい)、ミヤにはとてもよく理解ができるものだったらしい。
「すごい!わたしも見たかったです」
「ね、見えたら楽しかったよね。どんな仕組みなのか、父親までわかるんだよ」
「嘘っ!誰の子だったんですか?」
「2卵性でアゼルニクスさんとべリスバドンさん、両方の子だったんだけど…ねえ、もしかしてやるとき二人一緒?」
「…っ!…一緒、です。一緒じゃないとしないんですもん…最近は」
「うわぁ、乱れてんね。さすがのあたしも複数はやったことないや」
「わたしだって好きでしてるわけじゃないですっ2人がどうしてもっていうから…」
「でも楽しんでるんでしょ?」
「それは…」
「どうなの?」
「うー…楽しんでます、けどぉ…」
「やん、エッチ!」
「コジマさん!」
これも女子トークというのだろうか?きゃあきゃと楽しそうな弟子と元弟子を、苦笑交じりに眺めていたエイリスは腰を上げる。
「そろそろお茶にしましょう。ここじゃ落ち着かないから、ミヤの部屋でいい?」
「うん」
「ちょっと、失礼じゃないエイリス」
天使邸の白を基調としたこの部屋は、結菜に与えられた一室である。たいして散らかっているわけでもないここの、どこが気に入らないのかと彼女が眉をつり上げると、魔女はじろりと棚の薬瓶を睨んだ。
「あの棚、全部毒物じゃない。その隣は毒草に関する本、そのまた隣は毒薬の調合書。貴女、どれだけ毒が好きなの。これが赤ちゃんの胎教に良いわけないでしょう」
「すごいですよねぇ」
嫌そうなエイリスとは対照的にミヤは興味津々で目を輝かせていたが、同じことを思っていた結菜は、妊婦が近づくんじゃないと早々に彼女達を部屋の外に押し出した。
元々ここで検診などするつもりはなかったのだけれど、エイリスが欲しい薬草があるかもしれないから捜させろ、と無理矢理押しかけてきたのだ。当然、結菜の私室に興味のあったミヤもそれに便乗して居座ったというのに、随分な言われようだと溜息が零れる。
自分以外が勝手に持ち出すことができないよう、毒草が並ぶ扉には堅く鍵がかかっていて、更には魔法で触れられないよう封印までしてあるのだからほとんど危険はない。
元はと言えば、もののわからない赤ん坊が危険にさらされないようにとの配慮だが、蓋を開けてみればイオは大抵結菜の背中にへばりついているか、ミヤの胸にしがみついているようないたずらとは無縁の子供で、もう1人のリーリアに至っては好奇心より恋心で、身内とレリレプト、それにまつわる仕事以外に興味も抱かない。
もっぱら厳重な用心は、暇を持て余しているミヤ対策となっているのだから、面白いものだ。
「なんで本当のことを言わないのさ」
やれやれと、もう一度鍵と封印を確かめていた結菜は、突然室内に現れたジャイロに驚くこともせず、淡々と作業を続けている。
けれど答えてやるのが嫌だと思うほど彼を嫌いでなくなっている彼女は、背を向けたまま肩を竦めた。
「せめて1つ薬ができたら、言うわよ」
そう、この毒草たちが薬を生んだらと、口の端を上げる。
日本で結菜が両親に認められたくて始めた勉強は、大学で4年近く学ぶ間に1つの目標を持たせてくれていた。
新薬を開発したい。研究がしたい。
もともと理系だった彼女は、客員教授で薬学博士の教授にすっかり傾倒して、薬科大学に編入したいと本気で思っていたのだが、経済的理由から断念している。
おかげで悲惨な就職戦争に身を投じ、ほぼ敗戦確実となっていたが、機会があって薬草を学ぶことができたのだ。できるのであれば、毒を極めたかった。何しろ毒と薬は表裏一体、毒が量を変えて薬として用いられることは、知る者が多い。
「だから君は誤解されるんだ」
不機嫌な猫の尻尾は驚くほど太くなり、持ち主の感情を如実に写していた。
「誰に?どんな風に?」
「さっき母さん」
「あれのどこが」
「ひどいこと言われてたろう」
「…あの程度でっ?」
ジャイロの考える”ひどいこと”があまりに自分の基準とかけ離れすぎていて、結菜は目を見開く。
エイリスが発した言葉は彼女を傷つけようとしたものではなく、毒好きの風変わりな弟子にもっと女性らしい研究をすればいいのにとの思いを込めた苦言だ。
その証拠にエイリスはこの部屋に入ることを厭わないし、家にいるときも折りにつけ、魔女が毒に囲まれていてはあまりに他人から忌避されすぎるから止めろと言っているくらいだ。こんな思いやりから出た言葉達に、どうやって悪意を感じろというのか。
「自分のことを頭っから否定されたら、傷つくだろう」
「あんなの否定の内にはいんないわ」
「母さんはミヤばかりを可愛がるじゃないか」
「あたしだって大事にして貰ってる」
「いいや、足らないね。僕は君を真綿でくるんで抱き込んで、毛ほどの傷もつけたくないんだ」
食えない猫が真剣に、それはそれは溢れんばかりの誠意を滲ませてそう言うから。
「あたしってば、ガラにもなく絆されちゃったのよねぇ」
目立ち始めたお腹をさすって、結菜が語ったこれが真実。
性悪猫と捻くれ娘の、恋の道行きなのである。
「はぁ…なんか、羨ましいです。わたしの恋よりよっぽど時間をかけて、気持ちが通じてて」
双子に纏わり付かれながらドラマチックなそれを聞いていたミヤは、零した溜息に実はロマンが少ない己の恋愛に対する不満を覗かせていたのだけれど、結菜に一笑に付されてしまった。
「隣の芝生は青く見えるってだけの話でしょ。ミヤだって充分波乱に満ちてるから安心しなって」
「別に波乱が欲しいわけじゃないです。ロマンチックが欲しいんです」
「あるある。ロマンだってあるよ」
「もう、そんな適当に言わないで下さいよ~」
こうしてコイバナで過ぎていく午後は、きっとどの世界でもどの星でも一緒なんじゃないかと、随分ハッピーになった人生に笑いを零す結菜なのだった。
すみません、これで本当に終わりです。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。
また、別の作品でお目にかかれることを願って。