閑話 妊婦協奏曲
どうでもいい日常の一コマ。
妊娠、3か月頃。
「動き回ってはいけないと、言ったでしょう?」
「え、でもお家の中だし…」
目の前には怖い笑顔のアゼルさんがいて、わたしが怒られているのは屋敷の中にある図書室で。
…これって、過度な運動に値したっけ?と本気で首を傾げているんですが、アゼルさんは至極真面目に答えてくれます。
「図書室に来るのは構いません。ですが、なぜそんなところにいるんですか」
「?」
言われて自分が立っている場所を確認する。
20センチ程の踏み板で、高さは4メートルくらいのがっちりした木製の梯子の上。天井と床がつながっていて抜群の安定性の上、更には可動式という、なかなか便利な優れものだ。
「ここにいちゃ、まずいですか?」
「すごくまずいですね」
高いところの本をとろうと思ったら必然的に上ることになるんだけど、いけないのか。
相変わらず少しも笑っているように見えない笑顔のアゼルさんに困惑していると、彼は長い長い溜息をついた。
「…レリレプト。今度からミヤがこのような行動に出ようとしたら阻止するように。欲しい本があるというなら、君がとってあげなさい」
それまで影のように(いや、本気で影っぽいのはどうかと思うんだけど…)棚の陰にいたレリレプトさんが一歩踏み出し、主の言葉に平坦な声で応じる。
「それが彼女の護衛につながるなら」
どうやら返答内容に疑問の色が浮かんでいるところを見ると、彼もわたし同様アゼルさんの注意に納得できていないらしい。
そうだよね、なんでそこまで神経質になるんだか、わかりません。
「つながりますよ、確実にね。全く、この主従ときたら…妊娠中についての注意事項を徹底的に叩き込まないとならないようですね」
ぽそりと呟かれた不穏を含む声。
もちろんそれは有言実行で、夜遅くまで感情を食べられつつ怒られ、副産物として夜食で重いお腹を抱える羽目に陥った、ミヤの苦い妊娠初期の記憶となった。
妊娠7カ月頃。
そろそろお腹の中で動き回る赤ちゃんを感じられるようになると、ここに本当に命が宿っているんだって実感でいっぱいになってくる。
ちょくちょく昼間に帰ってきてわたしの様子を見ていくベリスさんも、わたしからこの手の報告を聞くとご機嫌に…ならないんですよ、これが。
「この子が産まれたら、ミヤはサンフォル達の元に行くのですね」
どこか遠い目をして、苦笑いをされしまうとさすがにどう返したものか悩んでしまうわけで。
「あー…ほら、ずっとお隣に行きっぱなしって訳じゃありませんし、基本的にわたしのお家はここですから、ね?」
似合わないと知りつつ首を傾げてかわいこぶって誤魔化しちゃえ、とか考えるんですがそれでも寂しいですとか言われちゃうと再び困るんです。
「えー…あ、この子はこっちにいるんですから、我が子が可愛いと妻の影は薄くなるって言うじゃないですか!」
そうそう、親戚のお兄ちゃんがお正月にほろ酔い加減で口を滑らせて、お嫁さんにものっすごく冷たい視線をもらってたじゃないっ。きっと、きっとベリスさん達もそんな親バカに…
「その子はレリレプトのものです。ミヤは私達のモノですがね」
………確かに、ありましたねそんな会話が。あれ本気だったんですか。お年頃になったらじゃなく、この世に生まれ出でた瞬間からですか。
どうなってるんです、この星の育児事情はっ!
ちらりと隅に控えているレリレプトさんを見やると、彼も彼で頷いていたりするからもう手の打ちようもない。
どうしょう、このいじけちゃった旦那様…。
宥めたりすかしたり、そうこうしているうちに帰ってきたアゼルにまでうじうじ愚痴を聴かされたミヤは、感情を提供するご機嫌取りで何とかその晩を乗り切ったのだった。
翌朝、生ける屍のようになっていたのは、また別のお話。
臨月。
いよいよ重くなってきたお腹のせいで、身動きするのも辛くなってきた。
立つのも座るのも横になるのも、ともかく何もかもが亀の如くゆっくりで、せり出した腹部の重みで前が見えないから階段を下りるなんて至難の業なのだ。
初妊娠でよくわからないんだけど、こんなにお腹の赤ちゃんて重いの?しんどいの?
溜息混じりに降りなきゃいけない階段を眺めていると、背後からひょいっと抱き上げられた。俗に言う、お姫様だっこで。
「サンフォルさん…」
「無理はするな。わざわざ自分で上り下りしなくても、私かメトロスを呼べばいい」
「そうそう。ミヤ1人に赤ん坊分足したって、さして重くないよ」
間近で見下ろしてくるのはサンフォルさんで、その肩越しには微笑んだメトロスさんも見える。
この際、どうしてお昼にもならないうちに隣家に不法侵入中なのかとか、野暮なことを聞くのはやめておこう。
妊娠してからずっと、アゼルさんもベリスさんもメトロスさん、サンフォルさんも、いつ仕事をしているんだって頻度でここに顔を出すんだから、サボりに決まっているもの。
いい大人がそんなことでいいのかって思いますよ?思いますけど仕方ないんです。もうこの方達、仕事を途中放棄するのが習慣化しちゃってるんで。後に残された同僚さんや部下の皆さんが迷惑被っていないといいなぁとか、祈るに留めることにします。はい。
そんなわけで、ご厚意に素直に甘えたわたしは、抱っこされたまま長い螺旋階段を下まで運んでもらいました。
ええ、恥ずかしかったですよ、始めの頃は。だけど訴えたってやめてくれないんですから、早々に諦めた方が時間の無駄がなくていいんです。
肝心なのは、適当な辺りで割り切ること、これに尽きます。
「ふふふ、楽しみだねぇ。早く出てこないかな」
メトロスさんは近頃、せり出したお腹を撫でてこう言うのが日課になりました。
「ああ。レリレプトも早く会いたいだろう?」
後を継いだサンフォルさんはお腹に触りはしないものの、微笑みを浮かべてひっそりこっそり付き従っている護衛、レリレプトさんを振り返るのがおきまりの動作です。
「……ああ」
ついでに抑揚のない声に僅かな期待を滲ませて答えるのが、レリレプトさんの定番。
すごいんですよ、1年近くお隣にいたせいか、わたしってばレリレプトさんの乏しい感情表現が読めるようになったんです!
実用性に欠けるスキルですが、そこはそれ。あははは…。
「楽しみっていうより、最近はこの状況から解放されるのが待ち遠しいんですよね」
重すぎるお腹をさすって本音を漏らせば、2人は柔らかな笑みでもう少しの我慢だと励ましてくれる。
口うるさかったりいじけて面倒くさかったりする旦那様方とは雲泥の差だよね。いい人…ううん、さすが天使!後光が差すんじゃないかって善人っぷりで、驚きです!
密かに感涙したミヤが、彼等の真意に気付くまであと少し。
全てはあと、ほんの少し。
書き終わったら更にどうでもいいないようなことに愕然。