犠牲の国
ナノサイズの宇宙に地球ができて、一日経ったころに人類が誕生した。上手くいけば今日中に、人類の未来が明らかになる。
我々はモニタの向こうにある「もう一つ」の歴史を、油断することなく入念に観察し続けていた。一ヶ所でもこちらの地球と食い違う史実が生まれれば、実験は振り出しに戻る。再び、宇宙の素となる黒い雫の成分を分析し直し、それをどの座標で滴下すればよいかを計算し尽くす、あの忍耐の日々を過ごすことになるのだ。
思い返せば気が遠くなった。それを何度繰り返してここに辿り着いたのやら。
初代の実験発案者は二世紀程前にこの世から去っており、私自身も、この実験に三十数年の時を捧げている。このほとんど狂ったような実験に、人生の全てをなげうったのだ。
私のような研究者を、この実験は果たして何人生んでしまったのだろうか。その人々のためにも、我々はやらなければならぬ。強くそう思った。
犠牲――という言葉は違う。彼らの意志は屍とならず、我々の心にいつまでも生き続けている。彼らと共に、我々は実験を続けてきたのだ。
モニタの設置されている巨大な白い空間には、豆粒大に膨張した「もう一つの宇宙空間」が、球状に浮かんでいる。初めの内はかのインフルエンザ・ウィルスの万分の一にも満たなかった暗黒の塊が、一週間でこれほどの大きさに膨れ上がったのだ。
この宇宙空間の中にも、我々が住むこの世界と同様、無数の銀河があり、星がある。無論その中にも太陽は光り輝き、地球――ただ一つ、生物の生きられる星が存在するのだ。
それは二九〇〇年代、証明されたことだった。孤独を知った人類は絶望したが、それがこの実験を生み出した元だと思えば、その絶望も、決して無駄なことではない。未来に、新たな「地球のような星」が生まれると分かれば、我々は希望を持って生きられる。
超倍速で時が進む「もう一つの宇宙」は、あと少しで我々の住む世界の時間を超えるだろう。そして、超えたその瞬間から、我々は自分たちの住む世界の未来を見ることになる。
人類は全ての危機を乗り越えた今、何もかもやり尽くしてしまった今、自分たちがどこへ進むべきなのか知りたかった。色々な危機があった。ウィルスとの戦い、人類同士の戦い、自然との戦い――。戦いによって、歴史は動いてきたように思う。戦いによって数えきれない人々が死に、それでも尚、人は戦い続けてきた。戦い続けねばならなかった。
そして彼らが戦い続けてきたからこそ、我々はここに生きているのだ。彼らの意志は屍とならず、我々の心にいつまでも生き続けている。
そして我々はその意志を持ちつつ、最後の戦い――神との戦いに、挑むのだ。
いよいよだった。
「もう一つの宇宙」の時間の速さを若干落とし、モニタの映像を「もう一つの地球」の中のラボ内へとズームインする。初代の研究者たちが、この実験計画を本格的に進めだしたようだ。彼らの戦う姿に、我々は思わず敬礼する。床に伏せながら泣く者も大勢おり、先ほどまで、みな無生物であったかのように沈黙しかなかったラボ内の空気に、みなぎるような活力が染み渡っていった。
モニタに、失敗を繰り返す我々の姿が映る。ああ、あの時は最後の一桁の計算に手間取っていたんだ――五度目の失敗のときはもう、どうしようかと思うくらい発狂しそうだった――しそうだったじゃなくてしてただろ。鬼か何かに取り憑かれたのかと思ったぜ――研究者らしくないオカルトな発言に、我々は手を叩いて笑い合った。
やがてモニタに映るのは、ほんの数分前の我々。時間を更に減速し、「もう一つの地球」の時間がこちらの地球の時間を超えるその瞬間を、我々は千秒前からカウントダウンし始めた。数分前の、笑い合う我々を見ながら、こちらの我々はカウントを続ける。
百秒前、女性研究員のカウントの声は、ほぼ涙の底に埋もれ、男たちの声も震え始めた。「もう一つの我々」もカウントダウンを始める。そしてそのカウントは、徐々に我々へと近づいていく。
三の時「十」を数え、二の時「六」を数え、我々のすぐ後ろまで「もう一つ」は迫ってくる。我々が一を数える時、「もう一つ」は「二」を数えた。
そしてゼロの時、我々は未来を見ることに成功した。
「もう一つ」は気が早いようで、もう宴の準備を始めているようだ。すぐさまこちらでも喝采がこだまし、ラボ内は酒盛りの様相となっていった。
おいおいまだあいつら酒飲んでんぜ――誰かがモニタを指差して笑い声をあげた。確かに、「もう一つ」はこちらの何倍も早いスピードの時間が経過しているというのに、彼らは宴をなかなか終えない。まあ、その気持ちは分かるよと、へらへらした口調で誰かが言うが、私は次の瞬間酔いが吹き飛んでしまった。彼らは宴を続けているのではない。宴をした状態のまま、停止しているのだ。これが示すのはどういうことなのか、我わ。
またしても「もう一つ」の時間は停止。実験は失敗に終わった。
しかし我々は戦いを続けなければならない。彼らの意志は屍とならず、我々の心にいつまでも生き続けている。