「地味な献立ばかりで退屈だ」と婚約破棄されたので、殿下の食事管理をやめて騎士団の胃袋を掴みます~殿下が急に剣を持ち上げられなくなったのは、私のスープをやめたからですが?~
王宮の大広間は、シャンデリアの光と香水の匂いで満ちていた。
その真ん中で、第二王子ルシアン殿下は、男爵令嬢ミレーヌを腕に抱いて声を張り上げた。
「セラフィナ・ヴェルナー。お前との婚約を破棄する!」
ざわめきが広がる。私は扇も持たず、ただ背筋を伸ばして立っていた。
「理由は簡単だ。お前の出す食事は、いつも茶色くて地味で、味気ない。毎日毎日、麦粥に骨のスープだ。地味な献立ばかりで退屈だ!」
あちこちで失笑が漏れた。ミレーヌ様が、殿下の腕の中で困ったように微笑む。悪意はないのだろう。ただ、浅い人なのだ。
「私は毎日、砂糖菓子のように甘い時間を過ごしたい。ミレーヌは、そういう食事を出してくれる」
「……承知いたしました」
私は静かに頭を下げた。
「では、明日から殿下の食事管理は終了ですね」
「は? 何の話だ」
殿下は鼻で笑った。本当に、何の話か分かっていないのだ。
三年間、毎朝殿下が飲み干していた「地味なスープ」が、何を支えていたのかを。
◇
翌朝、私は小さな鞄ひとつで王都を出た。
行き先は、北の国境近くにある実家、ヴェルナー領。婚約破棄された娘に、王都で居場所はない。父に手紙を書けば、「おかえり」と一行だけ返ってくるだろう。そういう家だ。
馬車の窓から流れる景色を眺めながら、ふと、三年分の記憶がよみがえった。
殿下は朝が弱い。だから起きぬけに、生姜を効かせた温かい麦粥を出した。夜更かしのあとは胃が荒れるので、塩気は控えめに。
剣の稽古の前には、牛の骨を六時間煮込んだスープ。鉄分と塩気が、汗で失う分を補ってくれる。
夜中に甘い物をつまもうとする殿下の部屋には、砂糖の代わりに蜂蜜を少しだけ落とした焼きりんごを、そっと置いた。
誰にも言わなかった。言えば、殿下の自尊心が傷つくと思ったからだ。
殿下は「自分は健康で強い」と信じている。それでよかった。私の仕事は、その勘違いを守ることだった。
「……もう、いいのよね」
つぶやいた時、馬車ががくんと止まった。
「すまない、嬢さん。前の道が塞がってる」
御者の声に窓を覗くと、街道の真ん中で、鎧姿の男たちが座り込んでいた。二十人ほど。どの顔も土気色で、頬がこけている。
辺境騎士団だった。魔獣討伐の遠征から戻る途中らしい。
隊員のひとりが、立ち上がろうとして膝から崩れた。
「ロイ! しっかりしろ!」
駆け寄った大柄な男が、彼を抱き起こす。黒い髪に傷のある顎、眉間には深い皺。団長のガルド・ハインツ様だ。夜会で一度だけ見たことがある。「近寄ると睨まれる」と噂の人だ。
私は思わず馬車を降りていた。
「あの。食べていらっしゃらないのですか」
「……糧食が尽きた。街まではあと一日かかる」
ガルド様の声は低く、短かった。目が怖い。でも私の目は、彼の後ろに積まれた荷に向いていた。干し肉の残り。乾燥豆。根菜がいくつか。それに、大きな鍋。
「あの鍋、お借りしてもいいですか」
「……何をする」
「ここで、作ります」
団長は私を数秒じっと見た。そして黙って、こくりと頷いた。
◇
火を起こし、干し肉を細かく刻み、乾燥豆を水で戻す間に麦を炒って香りを出す。根菜は皮ごと。皮の近くに栄養があるからだ。
弱火で、ことこと。三十分もすれば、野営地に湯気が立ちこめた。
「……なんだ、この匂いは」
「団長、俺、腹の音止まりません」
「私語を慎め、ロイ。……鳴っているのは俺もだ」
できたのは、麦粥と根菜のスープだけ。派手さは何もない。見た目は、殿下が「地味だ」と言った、あの茶色い料理そのものだ。
木の椀によそって、最初にガルド様に渡した。
団長は無言で受け取り、無言でひと口すすった。
そのまま、固まった。
スプーンを持つ手が止まる。眉間の皺がふっと消え、目が大きく開き、口が半開きになって、それから、ゆっくりと絞り出すように言った。
「……うまい」
次の瞬間、団長は椀を空にしていた。速かった。
「おかわり」
「はい」
「……おかわり」
「はい」
三杯目を飲み干したあたりで、隊員たちが一斉に椀を突き出してきた。私は鍋の前で配膳係になった。最後のひとりまで行き渡った時には、鍋の底が見えていた。
夜が明ける頃には、土気色だった顔に血の色が戻っていた。ロイ様は「生き返りました!」と叫んで走り回り、隊員たちに取り押さえられていた。
ちなみに団長は、その間に椀を五杯空けていた。副官のロイ様が小声で教えてくれる。
「団長、普段は一杯で『十分だ』って言うんです。表情も変わらないし。今朝、初めて眉が動きました」
「眉、ですか」
「嬉しい時は右が三ミリ下がります。俺たち、全員それで読み取ってます」
聞かなければよかった。団長の右眉が、今まさに三ミリ下がっている。
ガルド様は、私の前に立った。背が高い。見上げると首が痛い。
「セラフィナ嬢」
「はい」
「専属で、来てくれ」
「あ、ええと。ありがたいお話ですが、私は実家に……」
「それから、結婚してくれ」
「……はい?」
周囲が静まり返った。ロイ様が両手で口を押さえている。
「えっ、雇用のお話では?」
「雇用も、結婚もだ」
「順番が逆ではありませんか」
「求婚は撤回しない」と団長は真顔で言い、隊員が背後で全員頷いていた。
結局、私は騎士団に同行することになった。実家には、「少し寄り道をします」と手紙を出した。
道中、団長は日に三度、食事のたびに求婚した。朝は麦粥の前で。昼は干し肉の前で。夜はスープの前で。
「結婚してくれ」
「お断りします」
「……うまい」
そのやり取りが毎回続くので、ロイ様は野営地の隅に帳面を作り、「団長の求婚」の数を数え始めた。隊員たちは、私が何回断るかで賭けをしているらしい。全員、私が受けるほうに賭けているのが気に入らない。
◇
一方その頃、王宮では。
殿下は、階段の途中で立ち止まっていた。
「はあ、はあ……。おかしい。まだ二十段だぞ」
ミレーヌ様の食卓に変わって二週間。朝は蜂蜜がけのパンケーキ。昼はクリームタルト。夜は砂糖菓子とパイ。「甘いもの以外は口に合わないんです」と彼女が笑うので、殿下もそれに付き合っていた。
政務の書類を読めば、三行で瞼が落ちる。剣の稽古では木剣を持ち上げられず、肩から先が言うことを聞かない。来週の剣術大会に向けて、周囲は「殿下、お加減が」とざわついていた。
「気のせいだ。少し疲れているだけだ」
そう言って、殿下は木剣を構え直した。振り上げた剣が、頭の高さで止まった。腕がぷるぷると震えている。
見守っていた近衛のひとりが、そっと目を逸らした。去年の大会で、殿下が三本の木剣を続けざまに折ったことを、全員が覚えているからだ。
その時、侍医が険しい顔で進み出た。
「殿下、失礼ながら。血の色が薄うございます。鉄分が枯れ、塩気も足りず、朝の胃が空になっておいでです。これは食事の崩れです」
「食事? 俺は毎日、好きなものを好きなだけ食べているが」
「それが問題でございます。以前は、何が違ったのですか」
殿下は言葉に詰まった。以前の食事。地味な麦粥。骨のスープ。何が入っていたか、何ひとつ覚えていない。
そこへ、王宮の料理長が、分厚い帳面を三冊抱えて現れた。
「殿下。こちらは、セラフィナ様が三年間、厨房に残された献立帳でございます」
殿下が一冊を開く。几帳面な文字が、ぎっしり並んでいた。
『殿下、今朝は寝不足。麦粥に生姜を多めに、塩は控えめ』
『大会前十日。骨のスープを一日二杯に。鉄分不足の顔色』
『夜食を求める癖あり。焼きりんごを枕元に。蜂蜜は小さじ半分まで』
どのページにも、殿下の体調が記録されていた。日付、顔色、睡眠時間、体重。そしてその横に、対策が書かれている。三年間、一日も欠けずに。
「……これを、セラフィナが」
「はい。『殿下には内緒に』と、いつも念を押されておりました。殿下が連覇なさった剣術大会も、この献立の賜物かと」
「なぜ、言わなかった」
「殿下が『地味だ』と仰るので、きっと不要なものだと思われたのでしょう」
料理長は静かに答えた。責める声ではなかったが、それが余計にこたえたらしい。
殿下の顔から、血の気が引いていった。自分の実力だと信じていたものが、他人の鍋の中にあったのだ。
隣でミレーヌ様が「わたし、砂糖菓子しか作れませんけど……」と小さく言った。それは、誰も責めようのない事実だった。
「……連れ戻せ。今すぐだ」
その命令が届く先は、もう、騎士団の鍋の前だった。
◇
五日後、殿下は馬で騎士団の野営地に乗り込んできた。息を切らして、馬から降りるのもふらついている。
「セラフィナ! 戻ってこい。特別に、もう一度婚約してやる!」
私は鍋をかき混ぜる手を止めなかった。今日は鶏がらのスープだ。
「お断りいたします」
「なっ……。俺は王子だぞ。地味な料理を作る女が、ほかにどこで必要とされる!」
「ここで、です」
私は椀を持ち上げて見せた。隊員たちが列を作っている。全員、頬に肉がつき、目がきらきらしていた。
「私の鍋は、騎士団の皆さんのものです」
殿下が何か言い返そうとした時、私の前に大きな背中が立ちはだかった。ガルド様だった。
「彼女の食事は、俺が守る」
たった一言。それだけで十分だった。団長の後ろには、隊員たちが無言で並んでいる。二十人が、腕を組んで。
ロイ様だけは、例の帳面を後ろ手に隠して、真剣な顔で成り行きを見守っていた。ここで殿下に連れて行かれたら、賭けが台無しになるのだ。
殿下は口を開けて、閉じて、また開けて、それから肩を落とした。
「……献立を、教えてくれ。せめて」
「帳面は料理長にお預けしてあります。あれは私の献立帳ではなく、殿下の体の記録です。読めば分かりますよ」
「……読んだ。三冊とも。だが、あれでは、お前の味は」
「味は、毎日作る人のものです。殿下には、毎日作ってくれる方が、もういらっしゃいますでしょう」
殿下は、ちらりと後ろを振り返った。馬車の陰で、ミレーヌ様が料理長の献立帳を抱え、真剣な顔で読みふけっていた。どうやら、骨のスープを勉強し始めたらしい。
殿下は俯いたまま、馬に乗った。乗るのにも三回かかった。
去り際に、ミレーヌ様が「あの、お鍋の火加減だけ教えてください!」と私に駆け寄ってきたので、弱火で三十分だと教えておいた。素直な人だ。殿下の胃袋は、彼女に任せることにしよう。
夕暮れ。片付けの終わった野営地で、ガルド様が黙って近づいてきた。手に、何か握っている。
「……これを」
差し出されたのは、木のスプーンだった。柄が太く、頭は大きい。削りたてなのか、木の香りがする。
「指輪は、持っていなかった」
「それで、スプーンを」
「一晩で彫った」
私は受け取って、握ってみた。手には少し大きすぎた。
「団長。柄が太すぎます」
「……削り直す」
「でも、口の大きな方には、ちょうどいいですね」
私は今日の残りのスープをよそい、そのスプーンを添えて、団長に返した。
ガルド様は困ったように受け取り、ひと口食べた。そして、いつもの「……うまい」の前に、小さな声で言った。
「返事を、聞かせてくれ」
「順番が逆だと、申し上げましたよ」
「聞かせてくれ」
「……まずは、毎日のスープからです」
団長の眉が、ゆっくり下がった。それが笑顔だと気づくまで、少しかかった。
「……おかわり」
私が椀を受け取ると、後ろで隊員たちの帳面に、ロイ様が何かを書き込んだ。
『団長の求婚、五十八回目。本日、返事あり』




