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第1話 空色のクリームソーダ

福井県のとある町。

 

自然豊かな公園の片隅に、小さな喫茶店があります。

 

春には、憩いの広場の桜が舞い

 

夏には、蝉時雨とヒグラシの哀歌

 

秋には、木漏れ日が緋色に染まり

 

冬には、辺り一面の白と静謐の世界が広がる。

 

喫茶店の扉を開けると軽やかなベルの音があなたを誘い、豊かな珈琲の香りと共に、マスターが作る美味しい料理たちが空腹を満たしてくれるでしょう。

 

いらっしゃい。

 

ひとりが辛くなったら、いつでも来てください。


 息が苦しい。


乾ききった荒れた喉に唾液がざらりと引っかかって、腹を抱えてむせ返った。


 無理だ、もう走れない。

 

空気の通り道が狭くなるような感覚。


吸おうが吐こうが、酸素も二酸化炭素も出入りしている実感が無い。

 

運動不足の両足が悲鳴を上げるように、太ももに鋭い痛みが走る。


「ちょっと!」


「す、すみません」

 

肩がぶつかった女性に足を止める事無く、そう口にするだけで精いっぱいだ。

 

とにかく人目につかない場所へ。


その一心で、商店街の人込みを駆け抜け、できるだけ人通りの少なそうな路地を走り、タイミング良く青信号になった横断歩道を渡る。


 この先は確か――

 

畑沿いの見通しの良い通りに出て、一度振り返った。

 

真夏の炎天下。


ぎらつく日差しに汗ひとつ流さない女が、黒い長髪を顔の前で揺らしながら、悠々たる足取りで二百メートル程まで迫っていた。

 

紺のブレザーに赤いネクタイ。


膝丈のボックスプリーツから伸びるひょろりと細い足。


片手を伸ばすその姿は異様で不気味で、髪の隙間から覗く目は全く生気を宿していない黒塗りだ。

 

息急き切って走る俺に対し、表情一つ変えないまま滑り迫る女の姿に、全身が粟立つのを感じた。


「うわっ」

 

公園の入り口を覆う大木の根に躓いて、勢いよく地面に激突した。


手のひらや肘は、地面の上を滑った跡に砂利や小石がめり込んでいた。


 やばい。追いつかれる。


「いい加減に……してくれっ」

 

うつ伏せから体を返し、肘をついて後ずさる。


天使像の台座に後頭部を打ち付け、背中を丸めて身悶えた。


「消えた、か?」

 

肩で息をしながら呼吸を整える。


走ってきた道に目を凝らすが、もうあの女の姿はどこにも見当たらなかった。


「大丈夫かい」


「え――」

 

腰を抜かしたまま振り返ると、スーツ姿の男性がいた。


「立てる?」

 

差し伸べられた手を握るべきか否か。


「だ、大丈夫です」

 

その手は握り返さず、なんとか自分で立ち上がって尻をはたく。


逃げ出しそうになって、我に返った。


「その。ありがとう……ございます」

 

鳶色の瞳のスーツ姿の男性は、俺でも軽く見上げるほど背が高く、黒々とした髪はきちんとビジネス用にセットされていて、背筋も定規を差したように伸びている。


「いえ、僕は何も」

 

隅々まで整えられた身なりから受ける印象をよそに、とても穏やかでゆとりのある口調は、警戒心を一掃するには十分過ぎるものだった。


「大した怪我は無さそうだね、良かった。怖かっただろう」

 

怖かっただろうって?彼にもあの女が見えていたのだろうか。


もしかして、あの女は生きている人間だったのか? 


いや、それはない。そうだとしたら、その方が怖いかもしれない。


「しばらくこの公園にいた方が良い。散歩するでも良いし、昼寝でも良い。この先にある喫茶店でも良いんじゃないかな」


「は、はい。僕もよくそこに行くので……」

 

すると男性は「そうか」と目じりに笑い皺を作る。


「それは良い。珈琲でも飲んでおいで。じゃあね」

 

男性は三又に分かれた道の右側、茂みの傍にある丸太の階段を上り、池へと続く鬱蒼とした坂道へ歩いていく。

 

よかったら一緒に。

 

普通の人ならそう言えただろうか。

 

言いかけた言葉は喉の奥でつかえたまま、行き場を失くしてしまった。



「いらっしゃい」


 カランコロン カラン

 

軽やかなドアベルの音が店内に響き渡り、エアコンの冷気が、熱気に包まれた俺の身体をさらりと冷やす。

 

入口から奥の壁に向かってL字に伸びる重厚なカウンターのなかで、珈琲豆のキャニスターを手にしているのはこの店のマスターだ。


黒いベストにワインレッドの蝶ネクタイ姿のシンさんが、薄く微笑んで出迎えてくれた。

 

落ち着いてからの方が身体中から汗が噴き出した。


店の前で念入りに拭いたはずだが、シャツの脇に色濃いシミを作り始めている。


「翼ちゃんも、ああ見えて色々と思うところがあるのかもね。難しいね」

 

窓辺に並んだ四つのテーブル席のうちの、入り口側の真紅のソファにもたれながら新聞を読んでいた小野明弘さんが苦笑する。

 

シンさんが「そうだね」と相槌を打ちながら、カウンターの下の棚を、何かを探すようにしゃがみこんだ。


「おう、敦士君。久しぶりだね。どうしたの、それ。怪我、大丈夫か」 


ひと口飲んだ珈琲のカップをテーブルに置いた小野さんが、僕の右肘を顎で指す。


「あ、えっと……ちょっと転んじゃって」


「相変わらず生傷の絶えない男だなぁ。気を付けないと、そのうち事故にでも巻き込まれるぞ。自分は大丈夫って思うだろうけど、他人事じゃないんだからな」

 

小野さんは「シンさん、絆創膏出してやってよ」と、新聞を四つ折りに畳んでビジネス鞄に差し込んだ。


「いま用意していた所だよ。あぁ、痛そうだね。酷くなりそうだったら、ちゃんと病院に行くんだよ」


「ありがとうございます。そうします」

 

脇の汗染みを隠すように身を縮めながら、俺の定位置でもあるカウンターの一番奥の椅子に小走りで向かう。


座面がエメラルドグリーンの落ち着いた印象だ。


ベルベット張りの滑らかな座面に腰を下ろし、ふと正面の食器棚のガラスに反射した自分の姿に嘆息した。


三十歳にもなった男の、青いタータンチェック柄の半袖から覗く絆創膏は、生白い、細く頼りない腕と相まって、なんとも間の抜けた姿だった。


この喫茶うたたねは、綾瀬の森公園の片隅に位置する、知る人ぞ知る隠れ家的な小さな店だ。

 

浅黄色の屋根が目印の店の周りには、シンさんが手入れしている花壇や植木が並ぶ。


入口横の階段から上がる二階はシンさんの居住スペースだ。


二階の窓辺に吊り下げられたウインドウボックスは、この時期は青と白のトレニアが涼し気に彩っている。


「はい、お待たせ。敦士君、お昼は食べた?」

 

白磁のカップに注がれた珈琲から、ふくよかな香りが立ち上る。


「いえ、実はまだで……」

 

本当はその為にコンビニに行こうと思っていたのに、店の前であの女に遭遇した。 

 

あの女に追いかけられるのは、これが初めての事では無い。


今の運送会社でのバイトを始めてから数回。


あれは七月の終わり頃。


帰ろうとしたら職場の前にいたのが最初――のはずだ。

 

実際にはわからない。もっと前にも会ったことがあるような気がする。

 

とにかく、今日もまた女に追いかけられた。


もう二時になろうとしている今、俺のお腹は限界値を迎え、空腹を通り越してチクチクと痛みを伴い始めていたところだ。


「ナポリタン食べるかい。具材が余ってて、小野さんにも協力して貰ってたんだ。サービスするから、敦士君もどう?」


「そんな、お金はちゃんと払います」

 

背負っていたリュックを下ろし、財布を出して「持ってます」と見せる。


「気にしないで。ほら、人助けだと思って」

 

シンさんは、切ってあった玉ねぎとピーマンをフライパンで炒め始めた。


挽肉を入れ、油が弾ける音が腹の虫を更に騒がせる。

 

やがて焼けついたケチャップの香りをまとったパスタが、粉チーズと乾燥バジルで化粧をして目の前にやってきた。


「ごゆっくり」


「ありがとうございます。いただきます」


軽くほぐしてフォークに巻き付ける。


口いっぱいに頬張ったナポリタンは、太麺のもっちりとした触感だ。


ケチャップが絡む面積が大きい為、味もしっかりと。


最後に絡めたバターの風味がふわりと口に広がって、思わず頬の筋肉が緩む。

 

ほっぺたが落ちそうとは、きっとこの事だ。


もう何度となく食べたこの店のナポリタンは、いつ食べても感動せずにはいられない。


「アイス珈琲お願いします。この前淹れてくださった珈琲を」


「あぁ、ルンゴかな。あれ気に入ってくれたんだね」


アイス珈琲が美味しいこの季節。


いつもと少し違うものを淹れてくれると言って、シンさんが淹れてくれたのがルンゴという、通常のエスプレッソの二倍の水を使ってじっくり時間をかけて抽出する珈琲だ。

 

使う水の量は多いが、時間をかける分、味が力強くなるらしい。


それをアイス珈琲にしたものだが、元が濃い為、氷が解けても濃厚な味を保ち続けることができる。

 

薄まる心配も無いので、のんびりと本を読みながらでも楽しめるところが気に入ったのだ。


「そういえば敦士君、絵、見たよ。凄いなぁ、立派なもんだ」

 

小野さんが指さすのは、入り口の扉の上に掛けられた銀縁の額だ。


あの絵は、何気なく絵が趣味だと話したことが切っ掛けで描いたものだ。 


シンさんに、このお店の外観を描いてくれないかと頼まれたのだ。


梅雨の頃、ちょうどキッチンの壁裏にあたる花壇には、紫色の桔梗や、ピンクと白のナデシコが咲いていた。


「良いよ、人の心を動かすような優しさがある。なんだろうね、こう、そっと寄り添うような雰囲気なんだよなあ。上手く言い表せなくてごめんね」


「そんな。ありがとうございます」


「雨上がりのしっとりした空気感も良く表現されてるよ。独学なんだってね。センスあるじゃないか。こういうのを才能って言うんだろうな」

 

小野さんは「ねぇ」とシンさんに視線を向けた。


「えぇ。敦士君の人柄がよく出ている良い絵だよ。優しくて、穏やかで、繊細な絵だ。凄く気に入ってるんだよ。ありがとうね」


改めて言われると急に恥ずかしくなって、まるで殻にひっこもうとする亀みたいに身を縮ませながら「いえ、そんな」と小さく首を振るしかできなかった。


 

ナポリタンでお腹も満たされ、シンさんが珈琲を淹れてくれている気配を感じながら、読みかけの文庫本を手にした。

 

店の入り口横に掛けられた、不揃いな青いガラス玉に縁どられた枠には、日替わりBGMの曲名と作曲者を書いた紙が嵌められている。

 

今日は、ヨハン・パッヘルベルのカノンだ。


カウンター内の隅に置かれた、時代めいた蓄音機から流れていた。


文庫本のページをめくる音、小野さんが新聞をめくる音。


エスプレッソマシンから珈琲が注がれる音。


灰色の整えられた髪にシックな装いのシンさんが、カウンターの中を静かに行き来する細やかな音。

 

やがて店内を包み込む珈琲の芳香。


店内をほどよく照らす飴色の照明。


カウンターテーブルとソファ席に備え付けられたステンドグラスの卓上ランプの柔らかな光。


店内の落ち着いたシックな色調と、優しいカノンの音色。

 

この店を彩る音や香りや光が、心の力をふっと抜いてくれるような不思議で心地よい空間を作り出している。

 

 やっぱり好きだな。この喫茶店。

 

体中から緊張の糸が一本ずつ解けていくのを感じながら、木製の背もたれに体を深く沈めた。

 

本を片手に珈琲のカップを手にする。


底からするりと滑り落ちてきた一滴に、口の端から驚きの声が漏れた。


「随分集中していたみたいだね。もう一杯淹れようか?」


「じゃあクリームソーダをお願いします。その……一度飲んでみたかったんです」


「良いね。何色が良い? 赤と緑と青があるけど。二色っていうのもできるよ」

 

少し悩んでから「赤でお願いします」と答えた。


昼間は窓を閉めたままエアコンが効いていた室内だが、いつの間にかカウンター内にあるアーチ状の窓――上部が半円の形になっていて、外開きの窓から、夕方の柔らかな風とヒグラシの声が流れ込んでいた。


「小野さんは、少し前に帰ったよ」


俺がきょろきょろしていたからか、シンさんは手元のグラスに視線を向けたまま、涼しい顔で言った。

 

猛々しい日射しが降り注いでいた綾瀬の森公園も、この時間にもなると濃厚なオレンジ色の斜陽に郷愁を漂わせる。

 

この店にはいま、俺とシンさん。


ちょうど真後ろのテーブル席にいる高齢の男性ひとりだ。

 

わざわざ振り返るのも気まずいが、あの人はいつもあの席に座っている。


真っ白の薄い猫毛を綺麗に整え、灰色のシャツにえんじ色のベストを着た彼は、静かに珈琲を飲んでいるだろうか。

 

あの席はいつも指名席の札が立てられている。


シンさんの特別な客なのだろうか。


あまり踏み込んだ事を聞くのも気が引ける。


通い始めて二カ月。まだわからない事だらけだ。


「はい、どうぞ」


「ありがとうございます。綺麗です」

 

濃厚な赤と淡い朱色が混ざり合い、今日の夕焼けをグラスに落とし込んだようなクリームソーダだ。


浮かんだ氷の上に丸いバニラアイスと、さくらんぼがころんと添えてある。


 空色のクリームソーダ

 

メニューにあった名前を思い出しながら、その通りだな、と窓の向こうに目を向けた。


 あれ――

 

シンさんがいつも手入れをしている花壇の縁に女の子がひとり。


店の中を覗こうと、つま先立ちでこれでもかと懸命に背伸びをしている。


目が合うと、嬉しそうに小さな手を胸の前で振ってきた。


白い八重歯を口の端から覗かせ、アーモンド型の大きな目が弧を描く。


「おや、また来たね」

 

少女の無邪気な笑みに苦笑いを返す俺の隣で、シンさんが「こんにちは」と親し気に手を振り返した。


「いつも来てくれるんだよ。特にクリームソーダを作っている時にね。そこの樹に登ったりして見てるんだ」


「そうなんですか」


薄手の赤い長袖シャツに小穴がいくつも空いて、随分と色あせて生地もよれたようなズボンの少女は、人懐こい笑顔を向けてくる。


 あぁ、苦手だ。

 

反応に困るというのもあるが、子供は純粋だ。純粋で残酷。


正直に思いのまま喋る子供の言葉は、俺にとっては無垢な刃でしかない。


いまの俺の顔は引きつっている気がする。


「店が終わったら遊んであげるんだよ」


「へぇ」

 

だからシンさんも慣れているというわけか。


「さすがに、営業中は入れてあげられないからね。かわいそうだけど」


「そうなんですか?」

 

ここは子供は入れないお店だっただろうか。

なんだかちょっと意外だな、と思う。


「猫ちゃん、可愛いんだけどね」

 

シンさんは言いながら、窓の向こうにもう一度手を振る。


少女は――どう見ても少女にしか見えないそれが嬉しそうに飛び跳ねると、耳の下で結んだ二つの髪も楽し気に弾んでいた。



店を出たのは、閉店時間の五時半だった。


「来てくれてありがとうね」


「いえ。ごちそうさまでした。あれ、これは……クローバーですね。すごい、四つ葉だ」

 

店の壁沿いに並んだプランターに、四つ葉のクローバーがひとつ置かれていた。


「おや、まただね。これね、時々誰かが置いていくんだよ」


「誰かが、ですか」

 

クローバーを拾いあげたシンさんは、葉を裏、表と返して目を細めて頷く。


「嬉しいよね。四つ葉は幸運をもたらすって言うからね」

 

シンさんは言うと「またね」と、ドアに掛けた店名の木札を裏返した。

 

ひとり静かな公園を歩いた。


昼間の暑気を残した湿っぽい風が肌に纏わりつく。


 カナカナカナ……

 

空は茜雲が覆い、ヒグラシが哀歌を奏でていた。

 

赤みがかった夕日が樹々に真っ直ぐに差し込む風景は神々しく、芝生に時計塔の長い影を伸ばす。

 

この綾瀬の森公園は、別名「創造の森」とも呼ばれている。

 

敷地内のあちこちに、有名無名関係ないアーティストたちの作品が立っているのだ。

 

公園入口には大空に向かって手を伸ばす天使像。


池の傍には、中古品だろうか、溝のすり減ったタイヤが山のように積み上げられた一風変わった作品や、そこらで掻き集めたようにしか見えない石で縁取った池もある。

 

作品の全てが大学生のサークルや、個人のアーティストが作ったものらしい。 


ちなみに屋外に飾れないものも勿論あって――それは絵画だったり、版画だったり。


それらは森の入り口から三又に分かれた左の道を、五分ほど歩いたところにある美術館に展示されている。


時計塔広場の脇を通り抜け、鉄製の巨大な知恵の輪が中央に鎮座する広場を横切り、背の低い木々がトンネルのように生い茂る小道を抜ける。


樹高二十メートルほどの桂の樹の下で、ベンチに座った女性に出会った。

 

淡いベージュのワンピースに、白いカーディガンを羽織った女性は、肩までのさらりとした黒髪を細い指で耳に掛ける仕草をし、ふと目が合う。


心臓が一拍分スキップした。一気に顔に熱が帯びる。


茹でダコの石像のように固まる俺を気にする様子もなく、女性はすぐに視線を戻した。


その先にあるのはガラス工房だ。

 

ガラスはこの町の名産品でもあるので、ガラス工房は町中に点在している。


ここはそのうちのひとつで、以前は盛んに体験会などもして賑わっていたのだと、確か一週間ほど前に何気なくシンさんが教えてくれた。

 

耳の奥に心臓の鼓動が響くのを抑えきれないまま、公園から逃げ出した。


駅の構内にある証明写真機の全身鏡に映った俺の顔は、耳まですっかり赤くのぼせあがっていた。



「おう、敦士。帰ってたのか」

 

風呂から上がった父さんが、居間にいた俺を横目に冷蔵庫から缶ビールを取り出した。


「お弁当買ってきたよ」 


目を合わせないまま、ビニール袋から弁当をふたつ取り出す。


父さんは「ん」と短く返事をするだけだ。


五十歳の時に脳梗塞で倒れ、右半身に麻痺が残る父さんは、器用に左手に持った箸でから揚げを掴んで頬張る。


「開けるよ」


「あぁ」

 

父さんの手元にあった缶ビールを取りプルタブを開けて渡すと、口をもごつかせながら軽い会釈を返してきた。


いつも通り黙々と、テレビのバラエティの音を垂れ流す食事風景は我が家の日常だ。


ふたり暮らしの、変わらない毎日。


「ごちそうさま」


「敦士」


一足早く食べ終わり、弁当箱に蓋をして立ち上がろうとする俺を呼び止める。


ビールをあおり、言葉を選ぶように一呼吸おいた。


「ほら。最近どうだ。バイトは」


「どうって……」


絞り出した言葉は、結局予想を上回ってくることはなかった。


むしろ、予想通り。


父さんはいつもこうだ。


息子である俺に気を使いすぎて、きっと思っていることの半分も言葉にできていない。


昔から口下手で、不器用すぎる。


母さんに浮気をされた挙句、幼い俺を連れて家を出た母さんに文句も言わない。


「変わらないよ。でもちゃんと就職できるように考えるから。迷惑かけてごめ――」


「迷惑ってなんだ」

 

低い声で吐き捨てるように言うと、畳に新聞を広げて背を向けてしまった。


「……ごめん」

 

父さんは鼻を鳴らして一気にビールを飲み干し、ビニール袋に空の弁当箱を突っ込む。


「そういえば、あれはどうなんだ」


流しで空き缶をすすぎながら父が言う。


「あれって?」


ゴミ袋を縛りながら聞き返した。


「いまも見えるのか。幽霊は」

 

その言葉に、背筋にひやりと悪寒が走る。


「何言ってんだよ。あんなの子供の頃の話だろ。からかっただけだよ」

 

父さんは「そうか」と短く答えると、洗った缶を流しの横に逆さまにして、そのまま居間に戻っていった。


「――からかった、だけだよ」

 

自分で言った言葉を繰り返して、ため息が漏れた。


 あんなもの、見えたって何も良い事なんてない。

 

そのせいで母さんや、その相手の男にまで気味悪がられて追い出されたのだから。

 

もうすっかり傷なんて残っていない右頬に、そっと手を当てる。


 くだらねぇ嘘吐くな

 

顔もうろ覚えなのに、その時に殴られた痛みと悔しさは昨日の事のように覚えている。


体に、心に、耳に呪いのように染みついている。


 こんな薄気味悪いガキ、連れてくんじゃねえよ。

 

その言葉がきっかけで、俺は父さんの元に帰って来たのだ。


顔に痣を作った六歳の俺を見ても、父さんは何も言わなかった。


黙ったまま二人向かい合って食べた焦げたチャーハンの苦味は、俺の中に渦巻いていた虚しさを、僅かだけ忘れさせてくれる味だったような気がする。

 

それから間もなくして、父さんは仕事中、脳梗塞で倒れてしまった。


 


「よし」


ロッカーで着替えを済ませ更衣室を出ると、廊下の先に同時期に入った二つ年上の桜木さんがいた。


黒のシャツから俺の倍はある逞しい焼けた腕を上げて、爽やかに白い歯を見せている。


「おっす、鷹取。今日、荷物多いみたいだぞ。気合い入れてこーぜ。じゃ、後でな」


「はい。また」


運送会社の仕分けのバイトを始めて、ちょうど三週間。


お世辞にも愛想が良いとは言えない俺にも、こうして声を掛けてくれる仲間がいるのは、結構居心地が良い。

 

繁忙期の短期バイトという契約だが、俺が続けたいと思えば期間延長も検討してくれると言う上司もいる分、このバイトは自ら辞めるには惜しい。


「鷹取。手空いたら、こっちの冷凍手伝って」


「は、はい」

 

冷凍庫の扉を開くと溢れ出る冷気を汗だくの全身に浴びるのは爽快だ。


この楽しみがあると思えば、冷凍を担当するのも案外悪くない。


冷気の靄の向こうに荷物の壁が現れ、気合いを入れ直すように軍手をはめ直した。



「はーい、みんなお疲れさん。今日もありがとね。さっさと帰ってゆっくり休んで」


最後のトラックが駐車場を出るのを見送ったリーダーの上田さんが、俺たちバイトに向き直り「はい、解散解散」と軍手の手のひらを叩き合わせた。


「お先に失礼します」


「おう、お疲れ。明日は休みだっけ?」


汗臭い更衣室を出ようとする俺に声を掛けたのは桜木さんだ。


会社のロゴが入ったポロシャツを脱いで露わになる割れた腹筋が、汗をまとって鈍く光っていた。

 

桜木さんの奥の二人の視線が俺に注がれる。


まるで「あいつと仲いいんだ」とでも言わんばかりの、好奇心が隠しきれない目だ。


当たり前だが、全員と良い関係が作れている訳じゃないことは承知している。


桜木さんだけが唯一親しくしてくれている同僚だ。


「はい。次は金曜日で」


「そっか。俺も金曜入ってるわ。じゃな、気を付けて帰れよ」

 

更衣室の扉を閉めると、桜木さんを交えた笑い声やしゃべり声が沸きあがった。


ふざけているのか、じゃれあっているのか。


流行り芸人の一発芸を真似する桜木さんの声を後ろに聞きながら、従業員用玄関のガラス扉を押し開けた。

 

事務所の正面にある駐車場に出ると、持ち込みの段ボール箱を抱えた中年男性が事務所へと入るところだった。


そんないつもの風景を横目に門に向かって歩いていると、門に体半分を隠れるようにして立っている人影に、体が凍り付いた。


 嘘だろ。

 

生唾を飲み込み、リュックの肩ベルトを握る。


 落ち着け。大丈夫だ。目を合わせなければ、きっと。

 

精いっぱいの平静を装い、気付いていないといったつもりで横切る車を目で追いながら、女のいる門を大股でくぐって――


「ねえ」


 しまった。


女の低い沈むような声に呼吸をするのも忘れて、足まで止めてしまった。


 駄目だ。気付いていないふりをするのが一番なのに。


「あそぼう」


「うるさい」


軋む歯の隙間から言葉が漏れる。


 うるさい。

 うるさい。

 うるさい。


魂がこの世に残るのは何か思い残すことがあるからだとか、そんなの俺には関係ない。


「俺はお前らなんて見たくもないんだ」

 

見たくも無いのに、勝手に見えてしまう。

関わりたくないのに、勝手に寄って来る。

 

そのせいで、いつも怖がられて。

 

周りからは、気味が悪いと言われて嘘つき呼ばわりだ。


人の気を引きたいだけの痛い奴。

自分は特別だと思いたい奴。

 

挙句に言われるのは……


「鷹取、どうした?」


「さ、桜木さん」

 

振り返ると、桜木さんが怪訝な顔をして立っていた。


その後ろには更衣室にいた二人も一緒だ。


二人は顔を見合わせ、堪えきれない嘲笑に口元が歪んでいた。


「顔色悪いぞ、大丈夫かよ。誰と喋ってたんだ?」

 

心配してくれる桜木さんよりも、その後ろの二人の嬉々とした視線が怖い。


みるみる体が縮こまり、口元、指先、足が小刻みに震えだした。


「やっぱ噂、マジだったんじゃね。時々、何も無いところに喋ったり笑ったりしてたってやつ。つーか、こいつ自身が幽霊みたいだけど。いっつも下向いてぶつぶつ喋るし」


「やっぱ幽霊見えてんの? 今いる感じ? やべぇ、怖すぎ


「おい、やめろって」

 

桜木さんが二人を制しているが、もうそんなのどうでもいい。


きっと桜木さんだって同じように思っているはずだ。


「俺ら呪われんの?」


右側の男が声を張り上げ、事務所前にいた従業員が何事かとこっちを見ていた。

 

呪われる。

俺といたら呪われる。


そんな言葉、今まで何度言われただろう。


今更、傷つくような言葉じゃないんだ。

 

心の中で自分に言い聞かせて、こみ上げてくる感情を押し込むように飲み込む。


「失礼、します」

 

何とかその言葉だけを絞り出し、その場から逃げた。


桜木さんが俺を引き留めようと咄嗟に掴んだ腕を、全力で振り払って走った。


女の長い前髪の隙間から見えた乾いた唇が、また何か言いかけたように見えたけれど、全てを無視した。


 終わった。もうここにもいられない。



「ただいま」


誰もいない家の中は、しんと静まり返り、窓を開けると蝉の声がどっとなだれこんだ。 

 

俺が早朝に出勤したあと、父さんが仕事に出る。


男ふたりの家なのもあり、日頃から気を付けているだけあって部屋は片付いている。


急いでいたのだろう。いつもならきちんと水切りラックに立てられている湯呑を手早く洗って片付けた。 


シャワーを浴び、ドライヤーで再び前髪の生え際に滲んだ汗を湿ったタオルで拭い取る。


二階の四畳半の自室にある窓辺のローテーブルに、珈琲とスケッチブックと水彩色鉛筆のセット。


洗い物ついでに水を補充してきた水筆と陶器の梅型パレットを用意し、使い込んですっかり薄くなった座布団に腰を下ろした。


描きたい風景はもう頭に入っている。

 

まずは色鉛筆で描いていく。


桂の樹の下で会った女の人。


彼女の横顔は寂し気で、だけど優しくて。


化粧気の薄い、透き通るようなマットな肌。


淡いベージュのワンピースの裾から覗く、線の細い足。


彼女自身の柔和な雰囲気を、スケッチブックに丁寧に落とし込んでいく。

 

陽光を透かした桂の葉から零れる、柔らかな光の粒子が降り注ぐ風景。


そこまで描き、持っていたレモンイエローの色鉛筆を三六色のケースに戻した。


すっかり氷が溶けた珈琲のグラスに口をつける。


白いテーブルの上に、結露の水の輪ができていた。

 

再び色鉛筆を持ち、ちょうど女性の顔に持っていこうとして、空中で手が止まる。


 駄目だ。描けない。

 

長く細い繊細なまつ毛と、オレンジ色の薄い唇。


覚えていないわけじゃないのに描けないのだ。


画用紙の上の彼女の横顔は、のっぺらぼうのまま。


 話しかけたら迷惑だろうか。


彼女の笑った顔や、話す顔を見てみたい。


淡く抱いた欲は、絵の中の彼女を見ていると、ふつふつと小さな泡から次第に大きくなっていくのを感じる。


手にしていた色鉛筆を置いた。


ふと顔を上げると、窓辺の棚にあるノートパソコンの黒いモニターが、俺の顔を映して現実を突きつけてきた。


いかにももっさりしていて、頼りなげなたれ目と、洒落っ気の欠片も無い毛量の多い髪。


うんざりしてノートパソコンを閉じた。

 

シャワーを浴びた後だというのに、発芽したみたいに跳ねている前髪を手櫛で馴染ませた。


相変わらず外は、太陽がぎらついていた。


白いどっしりとした夏雲が、この世界において誰も気にも留めないであろう脇役――それどころかゲームの世界であれば名もない雑魚キャラな俺を見下ろしていた。




「今日、遅くなるから。晩飯は先に食べとけよ」


「うん。あのさ、父さん」

 

色褪せた作業着に袖を通すのを手伝う俺に、「なんだ」とテレビの天気予報を見たままぶっきらぼうに答えた。


「現場監督だったのに、病気のせいで事務職やってるんだろ。一応、新人の指導とかもしてるって言ってたけどさ。周りの目とか気にならないの?」

 

父さんは、何だ急にと言わんばかりに一瞥し、また天気予報に視線を戻した。


今日も猛暑となるでしょう。水分補給を忘れずに、と女子アナが鼻から抜けるような甘い声で言う。


「別に。俺は仕事をしに行ってるんだ」 


父さんは「それだけだ」と、俺が入れた氷入りの水筒を鞄に詰めた。


「バイト辞めようと思うんだ。今日、これから言いに行こうと思ってる」


「そうか」


「そうかって……」

 

苦笑する俺をいぶかし気にちらりと見ると「自分でやる」と、麻痺した右腕で服の裾を抑えながら、左手でファスナーを引き上げた。


「俺には関係ない」

 

父さんは仕事用鞄を身体に斜めに掛け「いってきます」と、さっさと家を出て行ってしまった。



バイト先に辞めることを伝えるのは簡単なものだった。


希望すれば期間延長もと言ってくれていた上田さんは「本当に辞めるのか?」と聞いてきた。


そもそもが短期契約というのもあるし、アルバイト自体が出入りの激しい職場というのもあって、俺が迷いなく伝えるとそれ以上止めてくることもなかった。


「もしまた戻りたくなったらいつでも来いよ。上には俺から話してやるから」

 

ロッカーに置いていた予備の着替えをリュックに詰め込む俺の背中を、上田さんが軽く叩く。


「ありがとうございます」


「桜木も寂しがるだろうなぁ。あいつと仲良かったもんな。まぁ、俺から話しといてやるから、心配すんな」


「すみません。よろしくお願いします」


桜木さんはどう思っているかわからないが、顔を合わせれば他愛のない話をしたり、仕事中もよく助けてくれた人だ。


先週「近いうちに一緒に飯でも食おうぜ」と言ってくれたが、結局その「近いうち」は永遠に来ることは無くなってしまった。


「お前、よく頑張ってたよ。ありがとう。じゃ、元気でな」

 

上田さんは、俺が門を出るまで事務所の前から見送ってくれていた。


敷地を出る俺に、眩しそうに目を細めながら手を振ってくれた。


 やっぱり辞めたくなかった。

 

桜木さんは、俺が辞めたことを聞いてどう思うだろう。そう思ったが、慌てて頭を振った。


 こんなの今まで何度もあったじゃないか。

 

空には羊の背中みたいな丸い雲が並んでゆったり漂っていた。

 

後ろ髪を引かれるように、大通りに出てからもう一度振り返る。


事務所に戻る上田さんの後姿は、ちょうど駐車場に入って来たトラックで見えなくなった。

 

停車したトラックの影に、あの女が立っていた。


眩しくて表情までは読めないが、体をこちらに向けたまま動かない。

 

女に背を向けて一気に走り出す。


大通りを渡り、商店街を抜け、遠くに山々を望む開けた畑沿いの道に出る。


 どうして自分にはあんなものが見えるんだ。

 幽霊なんて、誰も信じてくれない。

 

 だからいつだって、俺は嘘つきだ。

 幽霊なんて、誰だって不気味で怖い。

 

 だから、俺と関わると「呪われる」


 だから、だから――

 

足を止め、ゆっくり、ゆっくり息を吸って、吐いて。


額に滲んだ大粒の汗を手首で拭って振り返った。


女は追いかけて来ていなかった。

 

空は突き抜けるように青く、どっしりと沸き立つ雲が鎮座し、町中で蝉が大合唱している。


わあわあと喚き叫ぶ蝉が、まるで独り佇む俺を嘲笑うかのように聞こえた。



「しまった……」

 

リュックのファスナーを閉め、ベンチの背に深くもたれながら脱力した。


スケッチブックを持ってくるのを忘れたのだ。


いつもなら必ずリュックに入れているのに。

おまけに暇つぶし用の本まで忘れてしまっている。

 

これではリュックを背負ってきた意味がない。


手のひらサイズの折りたたみ財布を入れているだけの、無駄に大きな荷物だ。

 

この暑苦しい八月の朝。


九時を過ぎた頃から一気に上がり出した気温は、今日は三十五度を超えるらしい。

 

べたついた背中は大きな汗染みが浮かんでいるだろう。


こんなことなら、財布とスマホだけズボンのポケットに入れてきた方がましだったかもしれない。


 チチチッ 

 

入り口からすぐの憩いの広場は、他と違ってモニュメントなどの無い芝生広場だ。


代わりに中央に大きな一本桜が立っていて、春には可憐なピンクに華やぐ。

 

夏のこの時期は光を透かしたグリーンが眩しい。


ぱたぱたと芝生に降り立った一羽のすずめが、すっかり気力を失った男を不思議そうに、純真無垢な瞳で見上げている。


「お前は生きてるよなぁ」

 

なぁ? と確認するように、前のめりにすずめの豊かな羽毛を見つめる。


膨らんで、しぼんで。すずめの胸が上下するのを確認して、思わず吹き出すように笑った。


 あー、何やってんだろう、俺。

 

すずめがつま先までやってきて、地面を啄む。


辺りを見回したかと思うと、あっという間に空へと飛び立った。


「あれ?」

 

すずめが飛び立った空から視線を落とした先、樹々の向こうに微かに見える時計塔広場の隅に、二つ結びの髪が軽快に跳ねる後姿が見えた。

 

この真夏に赤い長袖シャツが際立つ女の子は、この強い日射しの下、ひとりで芝生の上を走り回っているようだ。


不規則に右から左、左から右、途中で急カーブして。


気が済んだのか、今度は茂みの方に歩いて行った。


ここからは太い木が邪魔して見えない。

 

そういえば、シンさんはあの子が猫に見えると言っていた。


それはつまり、あの子が生きている者じゃないという事。


本来幽霊なら姿も見えないと思うのだけど、どうしてシンさんは猫に見えているのか、俺にはわからない。


「いない」

 

時計広場に来てみたが、女の子が見えなくなった辺りを見渡しても姿が見えない。


別に会ったところで特別話すことも無いが、無職になった今の俺には時間も有り余っている。 

 

幽霊なんて見たくもないのは事実だが、何となく少女を放っておくのは気が引ける。


相手が子供だからだろうか。


見た目としては、小学生にも届かないくらいの年齢。


あどけない無邪気な笑顔を見せたあの子が、ひとりぼっちでこの公園に留まっている事を無視できない自分がいる。


「あれ、この前のお兄ちゃんだ。シンさんのお店にいた人だよね」


思っていた茂みと反対側から出てきた女の子のズボンには、ひっつき虫と呼ばれるヌスビトハギの豆型の種子が無数に付いていた。


「あれ、それって――」


「凄いでしょ、今日はふたつも見つけたの」

 

得意顔の小鈴ちゃんは「シンさんとお姉ちゃんにあげるんだ」と四つ葉のクローバーを見せてくれた。


「シンさんが言ってたクローバーって、君が持ってきてたんだ」


「こすず、だよ。小さいに鈴って書いて小鈴。五歳です」

 

クローバーを握った方とは反対の手のひらを顔の前で開いて見せた。


「シンさんの名前も知ってるんだね」


「うん。シンさん優しくて大好きだもん。あとお姉ちゃんもね」


「お姉ちゃん?」

 

小鈴ちゃんは「翼お姉ちゃんだよ」とクローバーの茎を指先でくるくると回して言う。


「ねぇ、今日はお店で何頼むの?」

 

訊かれて、そういえば、と思い出した。


「クリームソーダかな。今日、暑いし」

 

すっきりとアイス珈琲のブラックといきたいところだが、この期待した眼差しを前にしたら気分はあっさりと変わった。


「わぁ、お兄ちゃんも好きなんだ。小鈴はね、青色のクリームソーダが好きなの」


「じゃあ、一緒に入る?」

 

いや、俺は幽霊相手に何を言ってるんだろう。幽霊は嫌いだ。


嫌いなはずなのに、目の前の少女の無邪気な笑顔は、俺の中の毒気をすっと抜いてしまうようだ。


だが小鈴ちゃんは直ぐに頭を振って、人差し指で頬を掻いた。


「小鈴はもう飲めないから。シンさんが作るのを見てるだけで充分なの」


 もう飲めない。

 

その言葉に引っ掛かって訊ねようとしたが、店の前についた小鈴ちゃんは「あっちにいるね」と玄関と反対側に消えた。


キッチンの出窓があるところだろう。


カウンターに座ると、やっぱり小鈴ちゃんは窓の向こうにいた。


木の枝に座って興奮したように手をぶんぶんと振っている。


店には、いつもの指定席の白髪の男性が一人。


俺と目が合うといつものように微笑んで会釈し、また窓の向こうに視線を移す。


「暑かっただろう。珍しい時間に来たね」


「あぁ……はい。実は仕事を辞めたんです。まぁ短期契約だったんですけど」

 

シンさんは「そうなんだ」とお絞りと水を俺の前に並べた。


「お疲れ様。大変そうだったからね、休むのは悪い事じゃないよ。冷たいものでも飲むかい」


「クリームソーダをお願いします。青色の」


ちらりと視線を向けた俺に気付いて、シンさんも窓を振り返る。


あぁ、と薄く笑うと、青いシロップを手に取った。


今日のBGMはロベルト・シューマンのトロイメライという曲らしい。


どこかで聴いたことのある、郷愁を感じる優しい音色だ。


入口横のガラス玉の額に書かれた曲名と作者の下には、小さな字でトロイメライ=ドイツ語で夢想、と書かれている。

 

シロップをグラスに注ぎ、炭酸水を注いでふわりと青に染まるのを、小鈴ちゃんは身を乗り出しながら目を輝かせて見ていた。


氷が青い色を透かし、水面に半月型のバニラアイスとさくらんぼをひとつ乗せ、ストローと銀のスプーンが添えられる。


「はい、どうぞ。これ、サービスだから」


「いや、でも……」


「ほら、僕からの労いだから。仕事、いつも凄く頑張ってたの知ってるからね。君たちみたいに頑張っている人がいるから、世の中が上手く回ってるんだ」


「それは……でもバイトでしたから、そんな大げさな事でも」

 

手に職も無い、アルバイトで繋いでいるような宙ぶらりんな男だ。


その日暮らしの、不安定な生活。


社会にも馴染めないままこの歳まで来てしまった。その自信の無さが、俺の猫背を更に悪化させている。


「バイトかどうかは関係ない。働くことに違いは無いんだから。体力も心も削って仕事をしている人に、上も下も無いと僕は思うよ」


「そう、ですかね」


「契約上、紙の上の違いだけだ。実際この店だってこういう家具のひとつひとつが色んな人たちの手によってここに辿り着いたんだから。僕一人じゃどうにもできない。まぁ、この店を始めたのは僕じゃないんだけど」

 

シンさんは「ね」と口角を上げると、クリームソーダの隣に「おまけだよ」とココア味のフィナンシェをそっと置いた。


「今日は小野さんは来てないんですね」

 

クリームソーダに使ったシロップと炭酸水を片付けながら「そうだね」と答える。

 

小野さんの勤務先は隣町にあるらしく、お昼休憩や仕事の合間に来ているらしい。


早い時はこの時間にも来ているのを見たことがあるが、今日は昼食の時間に来るのだろうか。


壁掛けの振り子時計は十一時になろうとしている。


「近頃は夕方に来てくれる事が増えてね。今日もそれくらいかもしれないね」

 

片づけを終えたシンさんは「よいしょ」と出窓の下に置いた丸椅子に腰かけた。



「敦士君、見て」

 

小説のページを捲りながら一息吐いた時、窓辺に座っていたシンさんが小さな声で外を指さした。


「寝てる。可愛いね」


「本当ですね」

 

さっきまで枝から下ろした足を楽し気に揺らしていた小鈴ちゃんが、木にもたれかかるようにして眠っていた。

 

こうしていると、小鈴ちゃんは生きている少女と何も変わりない。


だが、生きていれば当たり前に上下する胸が止まったままなのが、彼女がそうでないのだと知らしめる。


「いつもああして眠っちゃうんだけど落ちたりしないんだよ。木の上でお昼寝って気持ちよさそうだよね」

 

顔にかかった髪の隙間から覗く穏やかな表情に、思わず俺の表情も緩む。

 

樹々の間をするりと抜けた風が、ざあっと葉擦れの音を立てる。


小鈴ちゃんの履き古したズボンの裾が揺れて、僅かだが足首に青黒い痣のようなものが見えた。


その痛々しい痕に心がざわつく。


 あの子は、もしかして……


「シンさん、あの――」


「やっほー」

 

いつもは転がるように軽やかに鳴るドアベルが、がらんごろんと激しく鈍い音で鳴り響いた。


喋りかけていた俺は舌を噛んでしまい、口の中に鉄っぽい味が広がる。

 

うっかりバランスを崩した小鈴ちゃんは咄嗟に木にしがみつき、驚いたように目を丸くしていた。


「翼、もう少し静かに入って来なさい。お客さんがびっくりしてしまうじゃないか」

 

翼と呼ばれた女性は、小麦色に焼けた首筋に滲ませていた汗を大雑把にタオルハンカチで拭き取った。


栗色のポニーテールを左右に揺らしながら大股で入って来ると、俺の左隣の席にどっかりと腰を下ろす。

 

思わず体を縮ませ、横目で確認する。


筋の通った高い鼻と青いピアスが印象的な、俺とはまるで住む世界が違う雰囲気だ。


一般的に俺が陰な存在なら、彼女は間違いなく陽。


クラスに一人はいる、明るくて気さくで、集合写真ならセンターに陣取っているタイプ。


勿論俺はそんな女子たちから離れた隅で、限界まで前髪を引っ張って顔を隠して薄笑いで映っているタイプ――実際に中高の集合写真はいつもそうだった。

 

弾けそうな張りのある肌の引き締まった太ももが、サックスブルーの短パンからすらりと伸びる。


ぴたりとした黄色い半袖のニットが胸を強調していて――とじろじろ見ている自分にはっとして、気付かれないように、さりげなく手元の小説を開いた。


「こんにちは。新顔だねぇ。あたし、一ノ瀬翼。二浪した大学二年生、O型でーす」

 

言って、左手を差し出した。


戸惑って三秒ほど差し出された手を前に固まっていたら、強引に小説を持っていた手を取られ力強く握られた。


「マスターの孫やってます」


「ま、孫?」

 

翼さんは「そうだよ。似てるでしょ」と口の端にあるほくろを細い指先でさした。


シンさんの口元もよく見ると、同じ場所にあった。


そういえば、小野さんが翼ちゃんがどうとか言っていた事があったけど彼女の事だったのか。


全然似てないけど、という言葉は飲み込んで「そうですね」と短く返す。


「君は?」


「鷹取……敦士です」

 

動揺のあまり視線を泳がせる俺の姿に、シンさんが「もうやめなさい。お昼は食べたのか?」と話を切り替えた。


「うん。アイスミルクティーだけでいいや。いつもの猫のやつ」


「ジャンナッツね」 


シンさんは壁際にふたつ並んだ左側の棚――珈琲や紅茶の列の中から、黒猫が寄り添うデザインの缶を取り出した。


「敦士君、さっき何か言いかけてたよね。どうかしたのかい」

 

お湯を火にかけ、グラスを取り出そうと食器棚のガラス戸を開けながら言う。


「あぁ、その。小鈴ちゃんって知ってますか? 五歳の女の子なんです」

 

いつも冷静なシンさんが、少し驚いたように食器棚に伸ばした手を止めた。


だが、シンさんよりも先に口を開いたのは翼さんだ。


「なんで小鈴ちゃんの事知ってんの?もしかして知り合い?           

 あの子いまどこにいるのよ。元気してた?」


前のめりの翼さんに圧され、反射的に身を引いて「あぁ、えっと」と口ごもる。


シンさんは何も言わないまま、鍋で煮出した茶葉を濾して牛乳を注いだ。


「知り合いと言うか、まぁ……」

 

小鈴ちゃんがいたあたりからカサカサと音がした。


シンさんが「おや」と、さっきまでそこにいた小鈴ちゃん――白猫の姿を探すように左右を見渡した。


「落ちたんじゃないね」

 

窓から顔を出して確認すると、安心したように淹れたミルクティーにストローを挿す。


「そんなに問い詰めたら困るだろう。ごめんね、敦士君」

 

はい、とシンさんはグラスを翼さんの前に置いた。


翼さんがストローを回すと、たっぷりのミルクティーの中で氷が涼やかな音を奏でた。


「敦士君も飲んでみる?」と勧められたジャンナッツのミルクティーは、ベルガモットの香りがしっかりと感じられて「美味しいです」と、ついストローを口に運んでしまう。


「小鈴ちゃんは、昔うちに来ていたお客さんなんだよ。まぁ、すぐに引っ越してしまったから、数回程度だけどね。クリームソーダが大好きな子だったよ」


「ぱったり来なくなっちゃったけどねぇ。クズな母親ってのを見ちゃったから、余計もやもやするのよね」

 

翼さんが苦虫を噛み潰したように眉間に皺を寄せながら、咥えていたストローの飲み口を噛んだ。


「クズな母親ですか」

 

グラスの中をストローでゆっくりかき混ぜながら訊ねる。


からん、と涼やかな氷の崩れる音が心地良い。


透明な氷の向こうに、自分を引き取っておきながら父さんの元に追い返した母さんの顔が浮かんで、搔き消すように今度はカラカラと強めにかき回してしまう。

 

母親――恋人に不気味がられた息子を追い出すことに躊躇なかったという事実は、昨日の事のように覚えている。


父さんの元に帰るまでの数日間、居場所のないアパートの一室がどれほど地獄で、息の詰まる牢獄のような場所だったかということも。


「あたしの母親も最低だったけどさ。でも、暴力は無かったし……だから良いって事じゃないけど」


一見明るく、今どきの大学生にしか見えない翼さんから出てくる言葉の重さに何も言えないまま、不甲斐なさを取り繕うようにミルクティーを吸い上げた。


さっきまであんなにも香り豊かだったミルクティーが、暗鬱とした気分の今は舌の上をただ機械的に通り過ぎていく。


「小鈴ちゃんの母親はかなり黒に近いと思ったよね。お祖父ちゃんも頑張ったけど、どうにもならなかったし」

 

シンさんは「そうだね」とテーブル席に寂し気な目を向けた。


昔、小鈴ちゃんが座っていたのだろうか。


悲痛な面持ちで見つめていたが、俺の視線に気づいて「ごめんね」と微笑した。


「どうするのが正解だったのか、あの子が来なくなった今も、まだわからないよ」



結局その日は小野さんが店に来ることは無かった。


小鈴ちゃんを知る俺にやらたと興味を持った翼さんにつきまとわれながら、何とか家に着いた。


小鈴ちゃんを知った経緯について答えられる言い訳も無いまま話してしまったのが悪いのだが。

 

アナウンスが鳴り響く駅に駆け込むことで自転車の彼女を振り切ることは出来たが、次会った時の事を考えると気が重い。


 


「おう、おかえり」


「ただいま」


「あっちに弁当あるから」

 

台所にいた父さんが顎で居間を指す。


「父さんはもう食べたの?」


手を洗いながら訊ねると「今から」と短く答え、グラスにお茶のボトルを傾けた。


相変わらず会話の無い食卓で、黙々と白身魚のフライにかじりつく。


給料日前の夕飯は、弁当屋で一番安い海苔弁当が定番だ。

 

二歳の子供を虐待し死亡させたとして、母親と同居する40代の男を逮捕しました――。

 

淡々とニュースを読み進めるアナウンサーの声に、思わずテレビに視線を向ける。


画面には黒縁の眼鏡をかけた冴えない中年男性と、その後ろにカメラを一瞥してパトカーに押し込まれる若い女が映っていた。

 

女は傷んだ黒髪に派手さもない顔立ちで、一見すると極普通の母親だ。


犯人として無表情でテレビに映っているが、例えば子供を連れて偽りの笑顔でも浮かべていれば、道端ですれ違っても虐待死させる母親には見えないだろう。

 

父さんはニュースに目も向ける事も無く、しなびた海苔が乗ったご飯を頬張る。


「母さんって、どうしてるのかな」


「さあな」

 

一瞬だけ眉が動いたが、言葉に感情を乗せないまま興味無さそうに鼻を啜った。


父さんだって、母さんの不倫で裏切られているのだから良い感情なんて持っていないだろう。   

 

あの時、どうして俺を母さんに引き渡すことに文句も言わなかったのか。


どうして俺の傷や痣を見ても何も言わなかったのか。


今更どうでも良い事かもしれない。


でも小鈴ちゃんの母親の話を聞いたせいか、そんな事を考えてしまう。


心に鈍色のどろりとしたものが流れ込んで息苦しくなるのを誤魔化すようにお茶を飲み干した。


「俺を産んだこと、母さんは後悔とか――」


「そうかもしれないな」

 

あまりにあっさりとしたその返事は、ショックというよりも、寧ろ、清々しいくらい腑に落ちてしまう。

 

否定の言葉を期待していたのだろうか。


それとも「産んで後悔する親なんていない」なんて言葉を期待していた幼い自分が、まだ心の中にいたのだろうか。


それ以上の言葉を許さないかのように、父さんが追い打ちを掛ける。


「終わったことだ」


食べ終わった空の弁当箱をゴミ袋に乱暴に突っ込むとおもむろに立ち上がり、居間のドアをぴしゃりと閉めた。


 

自室の窓を開けると、ふわりと流れ込んだ生ぬるい風が、湿った風呂上がりの髪を撫でた。


隣の家だろうか、仄かなカレーの匂いが鼻孔をくすぐる。


夜の虫の合奏が何となく切なく聞こえるのは、秋を知らせる虫の声が混じっているからだろうか。

 

山の稜線が闇に沈み、明かりが灯る家々の影が月明かりに照らされ、その向こうには黒塗りの海が横たわる。


その海面を、すい、すい、と灯台からの真っ直ぐな光が左右に滑っているのが見えた。

 

小鈴ちゃんは今も綾瀬の森公園にいるのだろうか。


こんな真っ暗な夜に、ひとりで。


吐いた息は、少し欠けたいびつな月が浮かぶ空へと霧散する。


西へと走る電車の連なる光が、山沿いを駆け抜けた。




いつもと変わらない様子の父さんを見送り、逸る気持ちでリュックを背負い、靴のかかとを踏んだまま家を出ると、額にぽつりと冷たい物が落ちてた。


瞬く間に降り出した雨がアスファルトを黒く染め、独特のむっとした匂いがあたりに立ち込める。


日に焼けて筋状に白く褪せた紺色の傘を開き、つま先で地面を小突いてから駅へと急いだ。

 

綾瀬の森公園に着いた頃には、激しい雨に景色が白く煙り出していた。


ぬかるむ土は泥となってスニーカーに纏わりつき、心なしか靴下もじっとりと湿っている気がする。


入口の天使像を通り過ぎ、憩いの広場を覗いたが誰もいない。

 

雨の音だけが響く公園は、本当はすぐ近くにいる生き物たちもひっそりと息を潜めているのだろう。


静謐ななかにも確かに命の気配は感じる。


足元にも、頭上にも、草陰にも。

 

分かれ道の左にあるガラス工房は休みらしく、敷地の端から端までをロープが渡っていた。


桂の樹の下のベンチも、あの女性――真弓さんは勿論いない。

 

いつもなら木漏れ日が気持ち良い木のトンネルは、時折ぼたぼたと大粒の雨の塊を傘に叩きつけていく。

 

煙る景色のなかにぼんやりと知恵の輪のオブジェのシルエットが浮かぶ広場を横切り、その先の時計塔広場に出る。


俺がいる場所のちょうど反対側――時計塔を挟んだ桜並木の木陰で、つまらなさそうに座ってぼうっとしている小鈴ちゃんを見つけ、思わず声を上げて手を振った。


「小鈴ちゃん」


「お兄ちゃん!」

 

この雨の中、誰も来ないと思っていたのだろう。


曇っていた表情が一気に晴れ、満面の笑顔で駆け寄って来た。


「わぁ、どうしたの? シンさんのお店に行くの?」


「あぁ、えっとね。小鈴ちゃんに会いに来たんだよ」


「小鈴に?」


不思議そうに小首を傾げながらも、やっぱり嬉しいのだろう。


口元がほころび、わくわくしているのが見て取れる。


「夜もずっとここにいるの? シンさんなら、家に入れてくれそうだけど」

 

さっきまで小鈴ちゃんがいた木陰に移動し、傘を閉じる。


大きな木々の葉が幾重にもかさなっているお陰か、ここなら傘が無くても大丈夫そうだ。


「駄目だよ。家に入れてもらったらお別れするのが辛くなるし、シンさんも悲しむかもしれないでしょ。他に行くところも無いから、この辺りでうろうろしてるんだ」


「そっか……」


「行くところが無いっていうか、ここから出られないんだよね」


「どういうこと?」


「小鈴はこの世界に残る力が無いみたいなんだけど、この場所は特別なんだって。小鈴みたいなのでも、暫くいられるくらい力があるみたい」


「みたい、って誰かが言ってたの?」


小鈴ちゃんは、いけないとでも言うように口元を小さな手のひらで抑えると、視線を不安げに泳がせて首を横に振った。


「いや、えっとね。ごめんなさい。その人が、自分の事は誰にも話さないでって言ってたから……ってこれも言っちゃ駄目なのかな。あぁ、どうしよう」

 

今にも泣きだしそうに顔を歪めたので、慌てて「俺は誰にも言わないから大丈夫だよ」と約束すると、少しほっとしたような顔を見せた。


でもここから出られないとすれば、ここでできる事しかない。


「小鈴ちゃんは、何かやりたい事とかある?」


「やりたいこと?」

 

小首を傾げ、うーんと手を顎に当てながら考えるポーズをとった。だが、そう待たないうちに少し言いにくそうに


「シンさんのクリームソーダが飲みたいかなぁ」


と口にした。


「でもこの体じゃ食べたりできないんだよね」

 

今度は苦笑しながら肩を落とした。その願いは叶えてあげたくても、できないのならどうしようもない。


「あとは……海が見たいかな。これは生きてるときにずっと思ってた」


「海?」


「ずっと家から出してもらえなかったから。シンさんのお店で、翼お姉ちゃんが海の写真を見せてくれたんだ」


「翼さんが?」

 

小鈴ちゃんは力強く頷いてみせた。


「すごく綺麗で、一緒に行こうよって誘ってくれたんだ。でも、その後すぐにお母さんが迎えに来て……」


それ以上思い出すのが辛いのだろう。俯いたまま、口ごもってしまった。


「でも、ここから出ると小鈴ちゃんは消えちゃうかもしれないんだよね」

 

小鈴ちゃんは困ったように「そうだね」と苦笑すると「でも……」と言葉を続ける。


「翼お姉ちゃんやシンさんと一緒に行けたら、それでも良いかなぁって思う。勿論、お兄ちゃんも一緒に来てくれたら嬉しいな」




四日も降り続いた雨がようやく晴れた朝。


前日から天気が止むのを確認していた俺は、目覚ましを六時にセットし、父さんの仕事の準備を済ませて家を出た。


「よし、お待たせ。ごめんね、時間かかっちゃって」

 

シンさんがシルバーの保冷バッグを手に、店の入り口の鍵を閉め、ドアプレートを裏返しながら言う。


「お祖父ちゃん、それ貸して。自転車の籠にちょうど入りそうだし」

 

貸してと言いながら、シンさんの肩に掛けていたベルト部分を勝手に掴んで前籠に入れた。


確かにぴったりのサイズだ。何が入っているのだろう。


「急に海に行きたいだなんて言うんだもん。びっくりしちゃった」

 

自転車を押しながら眩しそうに陽光を手で遮りながら空を見上げると「天気良好。さすが晴れ女のあたし」と誇らしげに口角を上げて見せた。


翼さんの目の覚めるような黄色いノースリーブシャツの裾から、ちらりと見える小麦肌のウエストのせいで、目のやり場に困ってしまう。


じろじろ見ていると思われても困るので、つい視線を足元へと剥がした。

 

そんな翼さんの足元は、涼し気な水色の短パンに白いビーチサンダルがぺたぺたと音を鳴らしている。


いかにも海仕様な装いの翼さんに対して、俺は首元の弛みきった黒いシャツに、くたびれたジーンズのいつもの格好だ。


一応、砂浜を歩くのでサンダルは履いてきたが。

 

まさか海に入るつもりはなかったが、翼さんのこの格好は入る気なのだろうか。


「最近は秋が近付いても暑いね。昔はこのくらいになると、もう少し過ごしやすかったと思うんだけど。シロちゃん、暑くないかい?」

 

俺とシンさんの間を歩くシロちゃんこと小鈴ちゃんに訊ねると、小鈴ちゃんも「うん」と嬉しそうに頷く。


二人には「にゃあ」とでも鳴いているように見えているのだろうか。

 

大通りではあるものの、車通りの少ない田舎の一本道をひたすら歩いていく。


日陰も無く、山は青々と輝く。


右手に広がる田んぼもまた照り付ける太陽を浴び、青い稲が絨毯のように風に揺らぎながら光を反射する。


綾瀬の森公園を出てから三十分ほど歩いた頃、俺たち四人はなだらかな坂道のてっぺんに立っていた。


下り坂の先には、扇状に広がる青一色の海が横たわる。


「わあっ」


駆け上って来る海の匂いを抱いた風を胸に吸い込みながら、小鈴ちゃんが目を輝かせて一気に走り出した。


「あっ、シロちゃん待って」


翼さんは俺に自転車を押し付けると、ぺたぺたとサンダルを鳴らしながら後を追いかける。


あっという間にふたりの後姿は遠く、点になって、浜へと降りて行ってしまった。


「あはは、全く仕方ないね。自転車、僕が持っていくよ」


「いえ、大丈夫です」

 

それでも「孫の迷惑を掛けるわけにはいかないよ」と言うシンさんを更に断り、ゆっくりと歩きながら海へと向かった。


「わあっ……海だ」


視界一杯に広がる海はターコイズブルーそのものだ。


彼方で淡く空との境目を示す、緩やかな弧を描いた水平線。


抜けるような青空。


曲線を描きながら浜に寄せては引いていく波は、しゅわしゅわとサイダーを思わせる泡と音を立てている。

 

砂浜の果ての、海に突き出すように続く堤防の先には白亜の灯台が佇み、その周りをトンビが悠然と旋回している。


 ぴゅー ひょろろろ

 

そんな長閑で平和な風景を、小鈴ちゃんは唇を噛みしめ、瞳を潤ませながら見つめていた。


「せっかくだし」

 

波打ち際でサンダルを脱いだ翼さんの素足が海水に浸ると「つめたーい」と黄色い声を上げて身を縮める。


「シロちゃんも来てみる――って、おぉ、大胆! 猫ってお水苦手かと思ったけど」


ざぶざぶと躊躇いなく海へ入った小鈴ちゃんが、足踏みしながらくるくると回って見せる。


「海って気持ち良いんだねっ」

 

あっというまに頭からびしょぬれになった小鈴ちゃんを見て、翼さんのはしゃぐ気持ちが溢れてしまったらしい。


足元どころか頭のてっぺんのお団子まで濡れるには、そう時間が掛からなかったのは言うまでも無い。


「ごめん、敦士君。そっち持っててくれる? 荷物で押さえてくれたら良いから」

 

シンさんが背負っていたカーキのリュックから取り出したレジャーシートは、四人で座っても余裕があるくらいの大きい物だ。


波打ち際から離れた木陰に敷いて、シンさんと二人で腰を下ろす。


海に入ってから既に三十分近く経つが、翼さんと小鈴ちゃんは疲れを示すどころか、二人そろって座り込み、腰まで海水に浸かった状態で楽し気に足をばたつかせている。


「木は良いね。程よく陽を遮って、でも木漏れ日が気持ち良い。可愛い孫と大切な人たちと一緒にこうしていられるなんて幸せだ」


「大切な人……」


「敦士君の事だよ。もちろん、シロちゃんもね」


眩しそうに目を細めながら、海に浸かって並ぶ二人の背中を見つめる。


暖かい風が頬をくすぐり、枝葉が揺れるたびに、大小さまざまな光の欠片が砂浜に散らばる。


「喫茶うたたねは、僕の好きが全部詰まってるんだ」

 

シンさんが目の前の風景を愛しむように、しっとりとした口調で言う。


「場所もそうだし、僕にとって大切な人が集まる場所だからね。お客さんが安心してうたたね出来るくらい、落ち着ける場所でありたい」

 

ひとつ呼吸を置いて、今度は翼さんや小鈴ちゃんの背中ではない、もっと遠くを見つめて口を開いた。


「あの店の名前は、そう願って付けられたそうだから」


「付けられたそう、って――」


「お祖父ちゃん、敦士君!」


駆け寄って来た小鈴ちゃんと翼さんの髪や体から滴り落ちる水滴が、シートの端に落ちて弾けた。


「へえ、綺麗だね」

 

シンさんが覗き込んだ翼さんの手のひらには、青、水色、乳白色、黄色、エメラルドグリーンなど、大小さまざまなガラス玉が握られていた。


「最初にシロちゃんが見つけたのが、このエメラルドグリーンの。ね、綺麗でしょ。探したら結構あったんだぁ」


「シーグラスだね」

 

シンさんが、エメラルドグリーンのガラス玉を摘まみ上げて太陽に透かした。


シーグラスは海の中で波に揉まれ、海底などを擦りながら角が取れて丸くなったガラス片の事らしい。


自然にとってはゴミでしかない人工物が、こんなにも綺麗なものになるのだから不思議だ。


「うたたねの玄関脇にある額縁にも似てますね。丸いガラス玉が嵌められた、曲名を入れてるやつです。あれはもっと透明でしたけど」


「この町はガラス工芸が名産品だからね」


聞くと、コモレビの館長さんが作ってくれたものらしい。


ステンドグラスのテーブルランプなんかも、あの工房で作られた物で、館長さんもうたたねの常連だったのだ言う。

 

そう話すシンさんの含みを持たせたような口ぶりと、心なしか暗くなった表情にそれ以上の事は聞けなかった。


と言うよりも、それ以上シンさんの口からは話す気が無いのだと言わんばかりに「シーグラスなんて久しぶりに見たね」と話題を戻されてしまった。

 

差し出された翼さんの手のひらから、青色のシーグラスを手に取った。


滑らかな手触りで、曇りガラスのような質感のそれは、ぎらつく夏の日差しを優しい丸みのある光に変える。

 

空を透かした青いシーグラスを一緒に見上げる小鈴ちゃんの表情もまた、今まで見た中で一番穏やかで、なんだかとても儚い存在に見えた。


その後も二人は、シーグラスを砂浜に隠して宝探しをしたり、砂の城を作っては押し寄せた波にまるごと攫われて悲鳴を上げたり、また海に飛び込んだりしていた。


俺からは少女と大学生の女の子が無邪気に遊んでいるように見えるが、二人にはどう見えているのだろう。


宝探しは、小鈴ちゃんが匂いで嗅ぎ分けながら探しているようにでも見えているのだろうか。 


同じ景色を目にしている筈なのに実際はまるで違う。


どちらも真実なはずなのに、俺が見ている景色は、見えない人たちからすれば奇妙で不気味でしかないのだと思うと、むやみに言葉にするのを躊躇ってしまう。


 こいつといたら呪われる。気味が悪い。

 

毒を持った様々な言葉が蘇って、心をざらつかせる。


この人たちには気付かれるわけにはいかない。

俺の唯一の居場所なのだから。


「シンさん、何してるんですか?」

 

太陽が頭のてっぺん近くまで来た頃、シンさんはおもむろに保冷バッグを開けると、かき氷シロップやグラス、氷を取り出す。


それに気づいた小鈴ちゃんは「あっ!」と声を上げると、砂に足を取られながら走って来た。


「ふふっ、流石シロちゃんは早いね。喜んでくれるんじゃないかと思って準備してきたんだよ」

 

そう言うと、注ぎ口の付いた大きめのグラスに青色のシロップとソーダを注ぎ、くるくるとマドラーでかき混ぜる。


グラスを四つ並べ、袋に入ったかち割り氷をがらがらと入れると、そこにさっきのシロップ入りのソーダを流し込んでいく。


「わあ」

 

小鈴ちゃんが歓喜の声を上げて目を輝かせた。


「お祖父ちゃん、やるぅ」


翼さんが小鈴ちゃんのツインテールの頭を撫でながら、左手で親指を立てた。


「仕上げに……ほら、どうかな」


「うわあ、凄い凄い!お店と一緒だ。綺麗」

再び開けた保冷バッグから出てきたアイスクリームを半月状に掬って乗せ、さくらんぼを飾る。


「凄いです。良かったね、こ――シロちゃん」

 

危ない。うっかり名前を呼び掛けて慌てて言い直したが、幸い二人とも気付いていないようだ。


「お兄ちゃん、ありがとう。小鈴、飲めなくても凄く嬉しい」

 

気分だけでもね、とシンさんが小鈴ちゃんの為に用意したメロンソーダを見つめたり、覗き込んだり。


シロちゃんって本当に好きだよね、と笑う翼さんは、バニラアイスを掬って「うぅ、冷たい」と悶えながらこめかみを押さえた。


「あっ、シロちゃんどこ行くの?」

 

それまで嬉しそうにメロンソーダを見ていた小鈴ちゃんが突然立ち上がり、灯台の方へと駆け出した。

 

慌てて追いかけようとした翼さんの手を引いて止めたのはシンさんだった。


「大丈夫だよ」とだけ言うと、小鈴ちゃんの小さな背中を見送った。


「海に落ちたら危ないじゃん」

 

語気を強める翼さんを、シンさんは黙ったまま首を振って引き留める。


遠く小さくなっていく背中は、堤防へと曲がり、真っ直ぐ走っていく。


一度足を止め、こちらを振り向くと大きく手を振った。


「おーい、シロちゃん。戻っておいで」

 

叫ぶ翼さんの声は届いているだろうか。


小鈴ちゃんは少し躊躇うように立ち止まり、すぐに灯台の裏へと隠れてしまった。


「迎えに行こう」


「あ――」


立ち上がった翼さんの向こう。


そびえる白亜の灯台の陰から空へと、小さな光の粒子が昇っていくのが見えた気がした。


「あの子……小鈴ちゃんも、この青色のクリームソーダが大好きだったよね」

 

氷もアイスも溶けてしまった、たっぷり残ったクリームソーダのグラスを手に、シンさんがぽつりと空を見上げて呟く。


『海が見たいかな。これは生きてるときにずっと思ってた』

 

小鈴ちゃんが言っていた。あの森を出ると、消えてしまうかもしれないとわかっていても。


『翼お姉ちゃんやシンさんと一緒に行けたら、それでも良いかなぁって思う。勿論、お兄ちゃんも一緒に来てくれたら嬉しいな』

 

少女の願いが叶えられたのだろうか。もう、夜も独りぼっちではない所へ行けただろうか。


 小鈴ちゃん、またね。

 

青いクリームソーダのような澄み渡る空の上から、シンさんのお店は見えるだろうか。

 

空っぽのグラスの中で溶けた氷が、カラン、と軽やかな音を立てた。



「じゃあね。お祖父ちゃん、片付け手伝えなくてごめんね」


「良いよ、翼は早く帰って風呂に入りなさい」

 

自転車にまたがり、半乾きで固まったポニーテールの毛先を揺らしながら帰って行く翼さんを見送り、シンさんと二人で西日が差し込む綾瀬の森へと入った。


「悪いね。僕ひとりでも片付けられるのに」


「いえ、どうせ暇ですから」


人気のない森の木々がざわめき、一直線に差し込む赤み掛かった陽光が、落ち葉に覆われた地面に丸い光を落とす。


「そういえば、コモレビってこの森にあるガラス工房ですよね」


「あぁ、そうだよ。もう少しで……ほら、あそこ。右手に木の看板があるだろう」

 

シンさんが指さす先には、遠くて文字は確認できないが手作り感のある看板が立っている。


入り口にはロープが掛けられ、そしてその向かいにはあの桂の樹と――


「どうしたの?」


「あ、いえ」


「以前はイベントも頻繁にやってて、お客さんで賑わってたよ。最近はお休みしてるから誰も来ないし、館長さんも来ているのかどうかすらわからなくてね」

 

シンさんは「さぁ、行こうか」と店の方へと再び歩き出してしまった。

 

ベンチに座る真弓さんは、こちらに気付くと薄く微笑んで会釈した。






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