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雲上のランデブー

作者: クロウ
掲載日:2026/02/13

間接照明だけが灯るほんのりと薄暗い機内は、フライト前特有の慌ただしくも浮き足立つような賑わいを帯びていた。


恋人や家族のもとへ向かう者。慣れ親しんだ土地を離れ、新天地に希望を抱く者。あるいは、大切な人と別れを経て旅立つ者。

いくつもの思いが、座席や通路のあちこちに満ちている。


その雑踏にまぎれるように、ひとりの男の姿があった。


取引先との商談を無事に終え、肩の力が抜けた男性の口から吐息が漏れる。ネクタイをゆるめ、手荷物を頭上の棚にしまう。


――ようやく我が家に戻れる。


その顔には仕事を完遂させた心地よい疲れと安堵があった。


シートにもたれ、ようやくひと息ついたとき、カップルらしい若い二人組が近づいてきた。


「あの、ちょっといいですか」

「……なんでしょうか」

「実は僕たち新婚旅行中なんです」

「へえ、それはおめでとうございます」

いささか唐突に思いつつも、仕事終わりの余裕も相まって、二人のめでたい席に居合わせたことを素直に喜ぶ。

「ありがとうございます。それで、外の景色を眺めながら一緒に時間を過ごしたくて」


その声と表情には、自分たちが今まさに『幸福の絶頂』にいるのだと言わんばかりの、新婚ならではの特権にも似た喜びがあふれていた。


新郎の顔には絵に描いたような温和な笑みが浮かんでいた。そのかたわらに寄り添う新婦もまた、彼と同じだった。

頭の中で天使の鐘が鳴り響いているかのような、晴れがましさに満ち溢れてみえた。


「そんなわけで……よければ席を譲っていただけませんかね?」

表向きは腰の低い口調ではあったが、その実、断られることなど微塵も考えてなさそうな空気が言葉の端ににじんでいた。


壺倉は彼らがやってきた場所に視線を移す。区画隣同士だが、彼らの席はエコノミー、対して壺倉の座席はプレミアムエコノミーである。つまりワンランク上だ。


普段の出張であれば、選ぶのは決まって通常のエコノミーだ。それはそれで不満はないが、どうしても隣席との距離は近く、少し姿勢を変えるのにも気を遣う。悠々と眠りにつくというところまではいけず、仮眠を取るのがやっとだ。浅い眠りの中で、隣の気配を感じながら「目的地まであとどのくらいだろうか」と時計を逆算して耐えるのが、いつもの旅のテンプレートだった。


だが、今回は自分なりに大きな契約を取り付けたという自負がある。

だからこそ、自腹を足してこの「最後の一席」を確保した。


プレミアムエコノミーは通常より数インチ広いだけの座席だが、そのわずかな差が、機内での時間を「辛抱するもの」から「味わうもの」へと変えてくれる。ビジネスほど値が張らず、それでいて存分に羽根を伸ばすことのできるお得なチケットだ。肘掛けを独占し、足を伸ばしても前の座席に触れないというだけで、格別の居心地の良さを生み出す。腰を沈めるだけで、こわばっていた肩の力がふっと抜けていくのがわかった。


周囲に気を使いながら帰りの時間を過ごすことを考えれば、少し暗い値が張ってもお釣りが来るほどだ。仕事で疲れ果てた壺倉には何よりも贅沢で、守りたい静寂だった。かなりの人気チケットなので、出張三日前に予約サイトで最後の一席を勝ち取れたのはもはや奇跡と言ってもよかった。


そんなプラチナシートを手にしたゆとりもあってか、壺倉はなおも笑顔で


「お二人の素敵な門出に立ち会えて光栄です」

まずは祝辞をひとつ。

そのうえで、


「でも、こちらも仕事帰りでヘトヘトでね。申し訳ないけどゆっくりしたいんだ。席を交換するのはちょっとできないかな」


多少同情めいた気持ちはあったが、壺倉とて聖人君子ではない。念願のチケットを簡単に譲れるはずもなく、できる限り角が立たないよう、丁寧にお断りした。


すると、新郎の男は急に不機嫌そうな顔になり、


「あんた、人の話を聞いてたのか」

と、強い口調で言い放った。

突然の豹変ぶりに男性が面食らうことしかできずにいると、


「せっかくのハネムーンをあんたは台無しにするのか」

唐突すぎる言い分に、反論する余裕すらなかった。あまりの論理の飛躍に、何が起きたのか把握するのに十秒ほどかかった。


いったい何をどう解釈すれば「席を譲らない」ことが「ハネムーンをぶち壊す」ことになるのか。

あいにく、他人の不幸を喜ぶようなタチの悪い趣味を持った覚えなどない。むしろ、これからのふたりの幸運を祈ってやったくらいだというのに。


「人の幸せを願おうという気持ちがないんだ。なんて薄情なんだ」

などと無茶苦茶なことを言い出した。

彼らの理屈では、世界は彼らを祝福するために回っていなければならないらしい。


カップルの吐き捨てるかのようなセリフを聞いて、男の中にあった彼らに対する祝福の気持ちは消え失せてしまった。


愛する伴侶との初めての旅行に浮かれる気持ちは分かる。けれど、居合わせた誰もが余裕があるわけじゃない。


結婚ほやほやともなれば、誰もが祝福の名のもとに手を差し伸べてくれるという、無邪気なまでの確信があったのだろう。


自分たちの手落ちが原因で起きたことの苛立ちを、他人にぶつけてくるというのは最悪の所業だ。いくら若いといえど幼稚だ。


彼か彼女のどちらかが、最初から隣同士の席を確保しておけば、こんな面倒なことにはならなかったはずである。要するにただのケアレスミスだ。


それなのに、自らの失態を棚に上げたうえに、その怒りの矛先を他人に向けるという真似をするのはなぜなのか。


周りを巻き込み大騒ぎするような人を祝う気にはなれない。


おそらく、隣にいる最愛の人に『いいところ』を見せたかったのだろう。そうして意気揚々と交渉を持ちかけ、あっけなく断られた。

彼女にいいとこを見せたかったのに。そんな感じで潰されたメンツの埋め合わせを、男への攻撃で果たそうとしている。


だがこっちとしたら、そんなくだらないことで逆恨みされる側はたまったものではない。


と、騒ぎを聞きつけた客室乗務員が、柔和ながらも毅然とした態度で割って入る。


「お客様、失礼いたします。機内での話し声が少々大きくなっておられるようですが、何かお困りでしょうか」


詰め寄っていた男性は、ここぞとばかりに「この人がハネムーンの邪魔をするんだ」と訴える。だが、CAは慣れた手つきで手元の端末を確認し、穏やかな笑みを崩さずに男のほうへと視線を向けた。


「左様でございましたか。……壺倉様、もしよろしければ、あちらに静かにお休みいただけるお席の準備が整っております。移動のお手間をかけさせてしまい心苦しいのですが、よろしければご案内させていただいてもよろしいでしょうか?」


「あちら」と示された先は、カーテンの向こう側——ビジネスクラスだ。


唖然とするカップルを背に、壺倉は「お気遣い痛み入ります」とだけ告げ、手荷物をまとめた。


CAに促され、男はビジネスクラスへと足を踏み入れた。

背後で「どうしてあいつだけ!」と詰め寄る男の声が聞こえた。


だが、CAの「あちらはお一人様用の調整席でございまして、ペアでのご案内は致しかねます」という冷ややかで事務的な拒絶が、その声を遮った。


離陸すると、壺倉の心にようやく安寧が訪れる。


贅沢な座席に身を沈め、差し出されたウェルカムドリンクのグラスを傾ける。

最上級のもてなしが、仕事終わりの心身を深く癒やしてくれた。


一流のビストロを思わせる上質な機内食で腹を満たした後は、自分だけのくつろぎの時間。

リクライニングから、さらにフルフラットになるシート、通路を挟んで隣り合うことすら叶わなかったあの二人の怒声は、もうここには届かない。


数時間のフライトを終え、目的地に到着する。

優先降機のアナウンスに従い、若干後ろ髪を引かれつつも、壺倉は晴れやかな気持ちで手荷物をまとめて通路へ出た。

出口へと向かう途中、カーテンの向こう側、かつて自分がいたプレミアムエコノミーの列を横切る。


新郎の男は腕組みをして苦虫を噛み潰したような顔で窓外を睨み、新婦はといえば、腫れ物でも触るかのような余所余所しさで、うつむいたままスマートフォンの画面をなぞっている。ハネムーンの幸福感は微塵も残っていない。


二人の間からは、出発前のあの天使の鐘は聞こえてこない。飛行機のエンジン音よりも重苦しい沈黙だけが横たわっていた。


そんな彼らを尻目に、壺倉は一足先に搭乗橋(ボーディングブリッジ)へと向かう。


「長時間のフライト、お疲れ様でした。またのご搭乗を心よりお待ちしております」


降機口で見送るCAに軽く会釈を返す。


背後の二人がこの後、どれほどドラマティックな「新婚旅行」を続けることになるのか。


そんなことを想像しながら、男は一歩、愛しきホームグラウンドの空気の中へと踏み出した。

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