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ごきげんよう


父が知らせてきたのは、格上の公爵家の次男との縁談。

顔合わせの日程と、父が戻るまでは婚約するまでの交流期間にするという。


名前を見た途端、びくりと肩が揺れたのは仕方のないことだと思う。


ずっと昔、五歳のルナリアは、彼の義姉だった。


トリスタンという名の男の子と過ごしたのは、たった二年。

父と再婚した義母と共にやってきた彼は、太陽のように明るく闊達な子だった。


義母の実家の事情により離縁したが、ルナリアにとって最も幸福な記憶はこの二年に集結されている。

幼い義弟の手を引いて、あれこれと世話を焼いて失敗して、一緒に遊んで眠った。

毎日、朝が待ち遠しかったのをよく覚えている。


義母となった女性は、それはもう目を見張るほどの美女で、ルナリアにも優しかった。

母という存在を知らないルナリアは、今になって思えば鬱陶しいくらいに懐き、義弟と取り合ったものだ。


ふたりと別れた夜、あまりにも泣き止まないルナリアに困り果てた侍女が、戸惑いながら抱きしめてくれた。

いつも判で押したように同じ表情、同じ態度しか取らない模範的な侍女が心を見せたのは、あの時だけだったように思う。


愛くるしく大切に慈しんだ義弟が、成長して目の前にいる。


はらりと額にかかる黄金の髪と、太陽さえ凌ぐほど煌々と強い橙の瞳。

記憶にあるよりずいぶんと逞しくなった背は、見上げるほどに高い。


ルアリナは、なんだか和むような心地で、宣告を待つ。


「初めまして。この縁がよきものになるよう努めます」


声変わりもすっかり終えた、大人の声が告ぐ。

これは、ルナリアにとっては危機的で絶望的な現状。

それなのに、どこかほっとしたような、ほんわりとした気持ちになる。


初めまして、ということは、彼はきっとルナリアを覚えていないのだ。あの大切な二年のことも。

それでいい。うん。それでいい。


義母の再婚した公爵家の名を背負い、優秀な頭脳で国王直下の『監査部』への所属が期待されていると聞く。

未来ある青年は、戻らない過去など知らなくていい。


ルナリアはそっと微笑み、震えないよう細心の注意を払いながら挨拶を返す。


「ごきげんよう。ルナリア・バートンと申します」


初めましてとも、よろしくとも言えない。

きっとトリスタンは、バートン伯爵家を摘発する決定打を暴くために来たのだろう。


王宮所属『監査部』は、王侯貴族を対象とした違法行為の摘発部隊だ。

あらゆる噂や情報、持ち込まれた告発を仕入れて精査し、時には自ら調査に乗り出して証拠を掴む。


確たる証拠があっても、王侯貴族の醜聞は時に国の存続すらも揺るがす場合がある。

情勢を鑑み、国民の生活を保つことを第一に据えながら、法に則った罰を国王陛下に直訴する部署。


当然、王侯貴族を対象とするため所属できるのは高位貴族のみ、そして公平かつ広い視野が求められる精鋭部隊だ。


バートン伯爵家には、黒い噂は山ほどある。

どれも確たる証拠はなく、ただの噂と切って捨てられる程度の信憑性しかない。

屋敷への出入りが自由なルナリアでさえ、目に見える証拠はなかなか手に入らない。


噂はあれど、領地は豊かと言って過ぎない程度には栄えており、税も定められた通り納めている。

孤児院や娼婦街にもそれなりの援助をし、何なら慈悲深い領主とすら思われている。

父は間違いなく有能で、そして狡猾だった。


トリスタンは噂の真相を突き止め、実績を作ることで『監査部』への正式任命を狙っているはずだ。

でなければ、格上の公爵家からの、しかも元義弟との縁談などありえないように思える。

過去、わずかながら関わりがあったことへの疑念払拭も兼ねているというわけだ。


父は、何も気づかなかったのだろうか。

狡猾とはいえ、勘が鋭く聡い父をどう言いくるめたのか。


数週間顔を見ていない父からの手紙には、気に入らなければ婚約しなくてもいい、と書かれていたけれど。

公爵家からの申し出を、たかが伯爵令嬢が拒否できるわけがない。


「よろしければ、庭をご案内いたします」


「ぜひ。ルナリア嬢、とお呼びしても? エスコートさせてください」


にこり、音が立ちそうなほど完璧な笑顔を、ルナリアは初めて見た。


顔いっぱいで笑うあの子は、もういないのか。そうか。

ルナリア嬢、なんて呼ばれたことはなかった。

舌足らずに『ねえたま』と呼ぶ可愛い義弟には、もう会えないのだ。


いや、会えない方が、いいのだ。

彼のためにも、ルナリアのためにも。


そっと触れた腕が、知らない男性のように逞しくて、ほんの少し途方に暮れた。




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