04 怒れるヤンキーゴスロリ女装吸血鬼
昨日のアトルムの言葉が、まだ頭の中をぐるぐるしていた。
伝わっていないことが、山ほどある。
執務室に向かいながら、ソラリアは小さく首を振った。考えすぎだ。アトルムはああいう性格なのだ。意味深なことをさらっと言って、にこにこしながら去っていく。深読みする方が負けだ。そう決めた。
——そう決めた、はずだった。
ノクス様の顔を思い浮かべた瞬間、胸の奥がじわりと疼いた。
「……考えすぎ」
ソラリアは廊下に呟いて、書類を抱え直す。今日も仕事をするだけだ。
執務室の扉に手をかけようとした、その瞬間。
――ドォン!!
廊下の突き当たりの扉が、蝶番ごと吹き飛んだ。石造りの壁に亀裂が走り、砕けた木片が廊下に散らばる。
「——っ!?」
土煙の中から現れたのは、ひらひらとした黒いドレスの裾をはためかせた人影だった。パステルピンクの髪が廊下の空気を切り裂くように揺れ、深紅の瞳がぎらりと光る。黒いヘッドドレスから覗く白い肌に、吸血鬼特有の冷たい気配。顔だけ見れば、どこに出しても恥ずかしくない美少女だ。
口が開くまでは。
「ソラリア!!!」
よく通る声が、石造りの廊下に反響した。
「……ヴェスペラ」
ソラリアは吹き飛んだ扉を一瞥してから、目の前の人物を見上げた。
「また扉壊したの」
「うるせえ、修理すりゃいいんだろ」
「毎回そう言って毎回ノクス様に手伝ってもらってるじゃない」
「……今回は俺一人でしっかり直す」
ヴェスペラはぶすっとした顔のまま、ソラリアの手から書類の束をひったくった。無言だ。乱暴な動作なのに、書類が一枚もくしゃっとならないのが妙だった。
「……自分で持てるんだけど」
「重そうだったから」
「別に重くない」
「うるさい」
この男はいつもこうだ。火事場を連れて歩いているような男で、現れるたびに何かが壊れる。それでも不思議と、嫌いになれない。
ヴェスペラはそのまま執務室の扉を開けて、ずかずかと中に入っていく。ソラリアはその背中を見て、小さく息を吐いた。
執務室の中では、ノクスが書類の海で溺れかけていた。
「ノクスぅ」
「うわ、ヴェスペラ来たのか!」
ノクスが顔を上げる。アトルムが来た時のような緊張感はない。先代魔王の時代から、この城はずっとこうだ。テネブリスが隠居してノクスに代替わりしてから、城の空気はさらに柔らかくなった。誰もが顔見知りで、誰もが家族のように笑う。ソラリアはそんなこの城が、ずっと好きだった。
「書類片付いてねえじゃねえか。相変わらずポンコツだな」
「うるさいな、ヴェスペラだって書類仕事できないだろ」
「俺は戦闘担当だから関係ねえ」
「いいなあ」
ノクスが心底羨ましそうに言った。ソラリアはヴェスペラから書類を受け取りながら、「ノクス様、羨ましがっても書類は減りません」と告げた。
「……そうだな」
肩を落とすノクスを横目に、ヴェスペラは壁に背を預けた。腕を組んで、ドレスのフリルがそれで台無しになっているのを本人は気にしていない。深紅の瞳が、ノクスとソラリアの間をゆっくりと行き来した。
「で、今日は何の用?」
ノクスが聞く。
「国境の視察に行く。人間の侵入が増えてる件だ」
ソラリアの手が、一瞬だけ止まった。
「東側の森林地帯か」
「ああ」
ヴェスペラの視線が、ソラリアに向いた。
「ソラリアも来い。お前の、あの便利なやつで現地の記録を取ってほしい」
それは正論だった。ソラリアの契約魔法は、見聞きしたことをそのまま誓約文書として記録できる。視察の記録には確かに向いている。それに——ソラリアはよく知っていた。ヴェスペラが本当に記録だけを目的にしているなら、もっと手際のいい方法がある。これは口実だ。
でも、そう言うつもりはなかった。
「じゃあ俺も——」
「ノクスはいい」
ヴェスペラがぴしゃりと言った。
「え、なんで」
「お前が来たら迷子になる」
「……否定できない」
ノクスが沈んだ。ソラリアは申し訳なさそうにノクスを見た。
「ノクス様、留守をお願いします」
「……わかった。気をつけて」
金の瞳が、ソラリアをまっすぐ見た。たまに見せる、真剣な魔王の顔。
「絶対、帰ってこいよ」
ソラリアの胸が、きゅっとなった。
魔王城を出ると、空気が変わった。
魔界の外縁部は、城の中とは別の顔を持っている。紫の霧が低く立ち込め、枯れた大樹が空に向かって黒い枝を伸ばしている。国境に近づくほど、魔力の密度が薄くなっていく。人間界の匂いがする、とソラリアはいつも思う。土と草と、少しだけ懐かしい何か。それを懐かしいと感じてしまうことを、ソラリアは誰にも言えなかった。
ヴェスペラは先を歩いていた。
城の中では気づかなかったが、外に出るとヴェスペラの存在感が変わる。漆黒のドレスのまま、でも背筋が伸びて、歩き方が戦闘員のそれになる。華奢に見えた肩幅が、実は広い。フリルの隙間から覗く腕が、細いようで筋張っている。
「……見んな」
「見てないよ」
「見てた」
「見てなかった」
「うるさい」
ヴェスペラが前を向いたまま言った。ソラリアは笑いをかみ殺した。
しばらく歩くと、森林地帯の入り口に出た。国境の警備兵たちが敬礼する。ヴェスペラが短く頷いて、そのまま森の中へ入っていく。
「先週、ここで三件あった」
「侵入が?」
「ああ。いずれも単独。武装はしてたが、戦闘にはならなかった」
ヴェスペラが立ち止まり、大樹の根元を指差した。地面に、何かが引っかいたような跡がある。
「ここで一人、追い返した」
ソラリアは契約魔法を展開した。指先に淡い光が灯り、見聞きしたことが文字として記録されていく。
四つ目の侵入跡を確認していた時だった。
茂みが、揺れた。
「——っ」
ヴェスペラが瞬時にソラリアの前に出た。茂みを割って飛び出してきたのは、馬の耳と尻尾を持つ魔族の青年だった。息が上がっている。服が裂け、素足は血で汚れていた。そして——手首だ。両手首に、鎖が食い込んだ跡が赤黒く腫れ上がっていた。皮膚が裂けて、乾いた血が筋になって流れた痕がある。長い間、あれをつけられていたのだとわかった。
「た、助けて……」
掠れた声だった。馬の耳がぺたりと伏せられ、全身が細かく震えていた。
その後ろで、茂みがまた揺れた。
今度は、一人ではなかった。
武装した人間が、五人。青年を追ってきた人間界の民兵だろう。先頭の男がヴェスペラを見て、鼻で笑った。
「なんだ、女の魔族か。逃げた奴隷を取り返しに来ただけだ。邪魔すんな」
奴隷。
その言葉が、空気を変えた。
ヴェスペラの深紅の瞳が、すうっと細くなった。
「……奴隷だと?」
低い声だった。ソラリアは一歩引いた。その声を知っている。本気で怒った時のヴェスペラの声だ。
「魔族を奴隷と呼んだか、今」
「そうだろうが。こいつは俺たちの——」
「あ゛ぁ!?」
次の瞬間、ヴェスペラが動いた。
フリルがひらめく。重たそうなドレスのまま、信じられないほど速く動いた。先頭の民兵の足を払い、二人目の剣を素手で受け止め、三人目を蹴り飛ばす。華麗で、無駄がなく、そしてどこか楽しそうだった。
ドレスの裾が翻るたび、その動きはますます大きく、速くなる。残りの民兵たちが、顔を見合わせた。そして、逃げた。
森に、静寂が戻った。
ソラリアはその場に立ち尽くしていた。
ヴェスペラが大きく息を吐いて、乱れたドレスの裾を踏まないよう一歩引いた。深紅の瞳が、逃げていった民兵たちの方向を一度だけ見て、それから青年に向いた。
その横顔を見ながら、ソラリアはふと思った。
この人は、その気になれば、私の首なんて指一本で折れる。
それは恐怖ではなかった。ただ、静かな事実として、腑に落ちた。魔族と人間の間にある、埋めようのない生物的な格差。ヴェスペラが優しくしてくれていても、守ってくれていても、その差は消えない。もし正体がバレたら——。
「——っ」
ソラリアは思考を断ち切った。
地面に座り込んでいる青年が、呆然とヴェスペラを見上げている。
「……助けてくれたのですね」
「別に」
ヴェスペラは乱れたドレスの裾を無造作に直しながら、舌打ちした。
「ソラリア、記録したか」
「……してた」
「よし。こいつの話を聞く」
青年がおずおずと頷いた。
ソラリアはヴェスペラの横顔を盗み見た。さっきまでの戦闘が嘘のように、今は淡々としている。腕を組んで青年を見下ろしている。
かっこいい、とソラリアは思った。思わず見惚れてしまうほどの、剥き出しの強さと美しさがあった。
「……何見てんだ」
「見てない」
「見てた」
「見てなかった」
「うるさい」
ヴェスペラが言った。頬が、心なしか赤い気がした。お決まりの2人のやりとりが何だかソラリアはくすぐったくて、少しだけクスリと笑う。
帰り道、二人は並んで歩いた。
裾の裂けたドレスが、夕暮れ色の魔界の風にひらめいている。ヴェスペラはそれを気にするふうもなく、黙って前を向いていた。
奴隷、という言葉がまだ頭に残っていた。
ソラリアはふと、自分の手首を見た。鎖の跡なんてない。当然だ。でも——あの青年の腫れ上がった手首が、頭から離れなかった。人間がやったことだ。私と同じ、人間が。
「……あの子、どうなるかな」
「ノクスが決める。俺じゃない」
「うん」
「でも」
ヴェスペラが、前を向いたまま言った。
「あのポンコツは、話をちゃんと聞く魔王だから」
ソラリアは少し驚いて、ヴェスペラを見た。普段ノクスをポンコツと呼ぶ彼が、今は静かに信頼を口にしていた。
「……そうだね」
「お前が支えてるからだろうけどな」
「そんなことない」
「事実だろ」
沈黙が、夕闇とともに二人の間に降りてきた。
城が見えてきた頃、ヴェスペラがぽつりと言った。
「ノクスのこと、どう思ってんだ」
ソラリアは少し固まった。
「……秘書として、幼馴染として、大切な主だよ」
「そうか」
ヴェスペラは鼻で笑った。
「嘘くさ」
「……っ」
「顔に出てんだよ、お前は」
ソラリアは真っ赤になって黙った。
「あのポンコツはな」
ヴェスペラが足を止めた。ソラリアも止まる。
「お前が思ってる以上に、お前のことしか見てねえよ」
夕闇の中で、ヴェスペラの大きな手がソラリアの肩に触れた。掴むというより、確かめるように。一瞬だけ、力が込もった。
そして、離れた。
何も言わなかった。言葉にする気はないらしかった。ただ、その手の温度だけが、肩に残る。
「俺が言えんのはそんだけだ」
ヴェスペラはぶっきらぼうにそれだけ言って、城の門をくぐった。その背中は大きくて、どこか兄貴分のそれだった。
「ヴェスペラ」
「なんだ」
「……ありがとう」
一瞬だけ、ヴェスペラの足が止まった。
「ん」
小さく返事をして、手をひらひらと振って、去っていった。
夜。
鏡の前で幻影を解きながら、ソラリアは今日のことを思い返した。
奴隷、と呼ばれていた青年の手首の鎖の跡。あれをつけたのは人間だ。私と同じ、人間だ。
ヴェスペラが怒ったのは当然だ。誰だって怒る。あれは怒られて当然のことだった。
でも——もし。
もしヴェスペラが、ソラリアの正体を知ったら。
今日、肩に触れてくれたあの手は、同じ温度のまま、自分に向けられるだろうか。
守ってくれた背中は、同じ大きさのまま、自分の前に立ってくれるだろうか。
愛されている実感が、そのまま自分への刃になる。それがわかっているのに、ソラリアはノクス様のそばを離れられない。ヴェスペラの「うるさい」を、温かいと感じてしまう。アトルムの「当然です」を、胸に仕舞ってしまう。
この城が好きだ。この人たちが好きだ。
だから、嘘をつき続けている自分が嫌いになる。
「明日も、頑張ろう」
ベッドに倒れ込んで、目を閉じる。
今日も、愛する幼馴染を騙した。
背中を押してもらった温もりと、人間である自分への嫌悪が、胸の中で静かに混ざり合って、どちらがどちらかわからなくなっていた。
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