03 微笑みの変態拷問官
魔王城の廊下は、今日も薄暗い。
紫がかった闇の中、二つの月明かりだけが石畳を照らしている。昼も夜も変わらないこの城に来て何年経つだろう。最初は息が詰まりそうだったこの暗さも、今ではすっかり慣れてしまった。
ソラリアは書類の束を両手に抱えて、執務室へ向かっていた。ソラリアの扱える庶務的な魔法は書類の浮遊には向いていない。結果いつもこうして人力で運ぶことになる。亜麻色の髪が額にかかるのを払う余裕もなかった。
視界が完全に塞がれていた。
「……見えない」
ぼそりと呟く。次を曲がれば執務室のはずだ。たぶん。おそらく。ノクス様は今頃、書類に溺れているか窓の外を眺めているか、どちらかだろう。どちらにせよ仕事は進んでいない。
その曲がり角で、誰かにぶつかった。
「っ——」
書類が宙を舞う。数十枚が一気にばら撒かれ、石畳の上に白い花びらのように散らばった。
「……これは、失礼いたしました」
穏やかな声が降ってきた。
顔を上げると、紫がかった黒髪の男がそこに立っていた。黄緑の瞳が柔らかく細められている。整った顔立ちに、一点の乱れもない完璧な微笑み。黒と紫を基調とした貴族服はどこをどう見ても皺ひとつなく、細長い黒い角が蝋燭の光を受けて鈍く輝いていた。
アトルム。宵の三柱のひとり。
「アトルム」
「ソラリア」
彼は優雅に膝を折り、何事もなかったように散らばった書類を拾い始めた。その動作に一切の無駄がない。紳士というより、まるで精巧な人形のようだとソラリアはいつも思う。
「自分で拾うから、顔上げてて」
「遠慮なさらず」
アトルムは穏やかに微笑んだまま、書類を丁寧に揃えていく。ソラリアも慌てて隣にしゃがんだ。冷たい石畳に膝をついて、紙の端を揃える。ふたりの指先が、同じ一枚に触れた。
「お急ぎでしたか」
「ううん。ノクス様のとこに向かう途中で」
「奇遇ですね。私も同じく」
視線が合う。アトルムは微笑んでいる。ソラリアは少しだけ目を逸らした。
二人で黙々と書類を拾う。アトルムの手が一枚の書類を拾い上げた時、ふと動きが止まった。
「……国境警備の報告書ですね」
「そう。昨日の分」
「人間の侵入が、また増えているようで」
穏やかな声だった。ただそれだけの、事務的な言葉のはずだった。けれどソラリアは、その言葉の奥に微かな何かを感じた気がした。気のせいかもしれない。
「……そうだね」
「物騒なことです」
アトルムが書類をソラリアに手渡しながら、黄緑の瞳でじっと見つめた。口角がわずかに上がる。何かを言いかけて、やめたような間があった。
「……気をつけてくださいね、ソラリア」
「うん、ありがとう」
それだけだった。それだけなのに、なぜかソラリアの背筋にひやりとしたものが走った。アトルムは何も言っていない。ただ、気をつけてと言っただけだ。
気のせいだ、とソラリアは自分に言い聞かせた。
執務室に着くと、ノクスは書類ではなく窓の外を眺めていた。
黒髪に金の瞳。大きな黒い角が蝋燭の光を受けて鈍く輝いている。窓枠に頬杖をついたその横顔は、うっかり見惚れてしまうほど凛としていた。執務室でひとりでいる時、彼はこういう顔をする。誰にも見せない、静かな魔王の横顔。
——が。
「ノクス様」
「あ、ソラリア。あとアトルムも」
のんきに手を上げる。ソラリアは書類の束を机に置いた。どすん、と重い音がした。
「窓の外を眺めていると、書類が片付くのですか」
「片付かない」
「ではなぜ」
「夜鳥が飛んでてきれいだったから」
ソラリアは深呼吸をした。アトルムが「……微笑ましいですね」と静かに呟いた。
「微笑ましくありません」
ソラリアは書類の山を指した。
「本日中に決裁が必要なものです。まずこちらから」
「えっ、これ全部?」
「全部です」
「ソラリアって時々鬼だよな」
「魔王の秘書ですから」
ノクスはがっくりと肩を落とした。黒い翼がしょんぼりと折り畳まれる。その様子があまりにも子犬みたいで、ソラリアは笑いたいのを堪えた。
アトルムは壁際の椅子に腰を下ろし、静かに茶を飲んでいる。紫と黒のシルエットが、炎の揺れる部屋の中でひどく絵になっていた。
「アトルムはなんで来たんだ」
「魔王陛下のご様子を拝見しに参りました」
「拝見して何か言うことは?」
「……何も」
「そうか」
「ただ」
アトルムは穏やかに微笑んだまま、続けた。
「もう少し書類を片付けてから夜鳥を眺めた方が、より素敵な夜になるかと存じます」
ノクスは黙った。ソラリアはアトルムを見た。アトルムはにこにこしていた。黄緑の瞳が、炎を映してゆらゆらと揺れている。
「……アトルムっていつもそういう言い方するよな」
「そうですか?」
「怒ってるのか褒めてるのかわからない」
「褒めております」
清々しい笑顔だった。ソラリアはそっと一歩引いた。
ノクスはあーとか、うーとか、唸りながら書類の一枚目を開く。羽根ペンを走らせようとして、ぺらりと紙の端で指を切った。
「っ、いた」
中指の腹に、細い赤い線が走る。にじむほどの傷だ。ノクスが眉をひそめて指先を眺めていると、するりとアトルムが近づいてきた。
「少々指を拝借」
「え?」
アトルムはノクスの手首をそっと掴み、傷のついた指先を、躊躇なく自分の口に含んだ。
静寂。
「…………」
「…………」
ノクスが完全に固まった。ソラリアも固まった。
アトルムはゆっくりと口を離し、穏やかに微笑んだ。
「……魔王の血は、やはり格別ですね。脳が震えます」
「なんで舐めた!?」
「もったいないので」
「もったいない!?」
ノクスの顔が真っ青になった。ぞわ、と全身に鳥肌が立っているのが遠目にもわかる。大きな黒い角の根元まで、みるみる青ざめていく。
「アトルム……お前、本当に怖いな……」
「光栄です」
微笑みは崩れない。ソラリアは思わず一歩引いた。いつもそう思うが、アトルムは笑顔でいる時が一番怖い。
昼を過ぎた頃、来客があった。
若い貴族の男だ。ソラリアが知らない顔だった。銀の角を高く掲げ、いかにも自分が優秀だと言わんばかりの歩き方をしている。
「魔王陛下、先日の国境警備の件についてご報告が」
「どうぞ」
ノクスが姿勢を正す。瞬時に魔王の顔になる。このスイッチの切り替えが、ソラリアはずっと好きだった。書類の前でへたっている姿と、玉座に座る姿が同一人物とは思えない。それでもこの人が、自分の知っているノクス様なのだ。
報告が続く中、貴族の視線がソラリアに向いた。
「……失礼ですが」
「はい?」
「貴女が、噂の秘書殿ですか」
「ソラリア・シジルと申します」
貴族は品定めをするような目で、ゆっくりとソラリアを眺めた。亜麻色の髪。榛色の瞳。柔らかな白肌。その視線が値踏みするように動くのを、ソラリアは表情を変えずに受け流した。
「随分と魔力が薄い方ですね。角も翼も華奢な……まあ、魔王陛下の秘書とはいえ、貴族ではないわけですから——」
「少々、よろしいですか」
アトルムの声が、静かに割り込んだ。
いつの間に移動したのか、紫黒のシルエットが貴族のすぐそばに立っていた。穏やかな微笑みは変わらない。ただ、黄緑の瞳だけが、温度のない光を宿していた。蝋燭の炎が、細い黒い角の輪郭をくっきりと縁取っている。
「ソラリアは、この城で最も優秀な方です。魔王陛下の信頼も厚い」
「は、はあ」
「貴方が今おっしゃったことは、魔王陛下の人事を批判したことと同義になりますが」
「そ、そういうつもりでは——」
「もちろん、そういうつもりではないと信じております」
アトルムは微笑んだ。穏やかな、完璧な微笑みで。声のトーンは少しも変わっていない。それがかえって、ひどく不気味だった。
「ただ、あまり声を荒らげると……私の『趣味』にお付き合いいただくことになりますよ」
貴族の顔が青を通り越して白くなった。
「ですから、以後お気をつけいただければと」
貴族は青い顔で頷いた。報告を早々に切り上げ、そそくさと退室していった。
扉が閉まる。室内に、静寂が戻った。
「……アトルム」
ノクスが言った。
「はい」
「ありがとう」
「いいえ」
アトルムはソラリアに向き直り、穏やかに微笑んだ。
「不快な思いをさせてしまいましたね、ソラリア」
「ううん、助けてくれてありがとう」
「当然のことをしたまでです」
当然、という言葉が温かかった。ソラリアは少し俯いた。胸の奥が、じわりと震えた。当然と言ってくれる人がいる。それがこんなに温かいなんて、知らなかった。
するとノクスが椅子から立ち上がり、ずかずかとソラリアの前に来た。
「ソラリア、大丈夫か」
「大丈夫です」
「顔色が」
「大丈夫ですよ」
ノクスは納得しない顔で、ソラリアの顔をじっと覗き込んだ。距離が近い。近すぎる。金の瞳が真剣な光を宿している。亜麻色の髪がノクスの吐息でわずかに揺れた。
「……本当に?」
「……はい」
黙って見つめ合う。
——数秒後、アトルムが静かに口を開いた。
「……実に興味深い」
懐から、いつの間にか手帳を取り出している。
「今の心拍数の上昇、および瞳孔の開き具合——記録に残しておきましょう。できれば標本にしたいくらいです」
「標本!?」
ノクスが即座に飛び退いた。ソラリアも我に返って一歩下がる。頬が熱い。
「貴重なデータです」
「データって何の!?」
「いいえ、何も」
アトルムは手帳をゆっくりと懐に戻した。にこにこしていた。その顔が心底楽しそうで、ソラリアは何とも言えない気持ちになった。
夕方、ノクスが三度目の「もう無理」を宣言した頃、アトルムが腰を上げた。
帰り際、彼はソラリアを廊下に呼び止めた。
「少しよろしいですか」
「うん」
ノクスには聞こえない距離。二人並んで、薄暗い廊下に立つ。蝋燭の光が、アトルムの紫がかった黒髪を照らしていた。
「ソラリアは、ノクス様のことをどう思っていますか」
予想外の問いに、ソラリアは少し固まった。
「……秘書として、大切な主だよ」
「そうですか」
アトルムは答えを聞いても、表情を変えなかった。黄緑の瞳が、炎の光の中でゆっくりと細くなる。
「あの方は、不器用ですから」
「……うん」
「伝わっていないことが、山ほどあると思います」
ソラリアは黙った。廊下の奥で、蝋燭がひとつ、ゆらりと揺れた。
「私が言えることは以上です」
アトルムは優雅に一礼した。そして、思い出したように付け加えた。
「ああ、そうだ。明日はヴェスペラが参りますよ」
にっこりと微笑んで、廊下を去っていった。その足音は、驚くほど静かだった。
残されたソラリアは、しばらくその場に立ち尽くした。
伝わっていないことが、山ほどある。
それはきっと、自分も同じだった。
胸の奥で、何かが静かに疼いた。
——そして、ヴェスペラという名前を聞いた途端に疼きが別の予感に変わった気がしたのは、気のせいだろうか。
夜。
自室の鏡の前で、ソラリアは幻影を解いた。
淡金の光を帯びた偽物の角と翼が、煙のように消える。
鏡に映るのは、ただの人間。亜麻色の髪、榛色の瞳、白い肌。魔族の特徴は何一つない。どこをどう見ても、ただの、人間だ。
今日、アトルムの黄緑の瞳が怖かった。
あの目は、何かを見透かしているような気がしてならない。
「……気のせいだ」
ソラリアは自分に言い聞かせた。
アトルムは何も知らない。知るはずがない。
ただ——
当然のことをしたまでです、と言ってくれた声が、まだ耳に残っていた。
「明日も、頑張ろう」
ベッドに倒れ込んで、目を閉じる。
今日も、愛する幼馴染を騙した。
でも今日は、少しだけ罪悪感の種類が増えた気がした。
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