02 魔王と秘書の1日
今日も、愛する幼馴染を騙す一日が始まる。
ソラリア・シジルは、鏡の前で魔術を展開した。背中に小さな角と透明な翼が浮かび上がる。魔族の証。すべて、偽物だ。
人間である自分を隠すための、嘘。
鏡に映る自分を見つめる。亜麻色の髪。榛色の瞳。白い肌。どこをどう見ても、魔族には見えない。それでも、この角と翼があれば、誰も疑わない。何年こうしてきただろう。数えるのをやめて、もう随分経つ。
「……よし」
小さく呟いて、ソラリアは部屋を出た。
今日も、大好きなノクス様のそばへ。
執務室に向かう途中、廊下でノクスとすれ違った。
「おはよう、ソラリア」
「……ノクス様」
ソラリアは足を止めた。そして、目を疑った。
「マントが、裏返しです」
「え?」
ノクスが慌てて背中を確認する。そこから見えるわけがない。くるくると回転する姿は、まるで自分の尻尾を追いかける子犬のようだ。
「……また侍従に怒られますよ」
ソラリアはくすくすと笑いながら歩み寄った。
「いや、俺が勝手に着替えたから」
「勝手に、ですか」
「うん。早く執務室に行きたくて」
「……なぜ?」
「ソラリアに会いたくて」
心臓が跳ねる。
「お前がいないと……、書類が片付かないからな!」
朗らかに笑うノクスを見て、ソラリアは小さく溜息をついた。期待した自分が馬鹿だったと、脳内で苦笑した。
「では、直しますね。動かないでください」
ソラリアはノクスの背中に回り、マントに手を伸ばした。裏返しになっていた生地を、正しい向きに整える。
肩に指が触れた瞬間、ノクスの身体がびくりと震えた。
(……近い)
ノクスの体温が伝わってくる。魔族の体温は人間より少し低いはずなのに、今の彼はとても温かかった。紅茶と、少しだけ甘い香り。幼い頃から慣れ親しんだこの匂いを嗅ぐだけで、胸がいっぱいになる。
ノクスの穏やかな呼吸に合わせて、広い背中が上下する。それを見つめているだけで顔が赤くなるのが分かった。今、正面に回ったら絶対にバレる。
「……っ」
ソラリアの脳内は大騒ぎだったが、ノクスがゴクリと唾を飲み込む音に、すぐさま冷静さを取り戻した。
「……これで、大丈夫です」
「あ、ああ。ありがとう」
振り返ったノクスは、耳まで真っ赤に染めて照れくさそうに笑った。その顔を一瞬だけ堪能してから、ソラリアはいつもの秘書の顔に戻る。
「では、参りましょう。お仕事が待っています」
執務室に着くと、案の定、机には書類の山があった。
「……昨日片付けたはずでは?」
「また増えた。一体どこから湧いてくるんだ、これ」
ノクスが机に突っ伏す。ソラリアは呆れたように笑いながら、彼の隣に座った。
「国境警備、貴族からの嘆願、予算案、人事異動……すべてノクス様が決裁しなければならないものです」
「俺、書類仕事向いてないかも」
「魔王ですから」
ソラリアは呆れたように笑った。
「先代魔王様は、こういう書類仕事も完璧にこなされていたんですよ」
「父さんは化け物だから」
「ノクス様も魔王です」
「俺は父さんみたいになれない」
ソラリアは、ノクスの隣に座った。
「なれなくていいんです」
「え?」
ソラリアが静かに告げると、ノクスが顔を上げた。
「先代魔王様は強く、民を守ってくださいました。今の平和は、あの方の功績でもあります」
「……」
「でも、ノクス様は違う。民の声に耳を傾け、涙を流してくださる。先代魔王様が築いた平和を、優しさで守っておられる」
ソラリアが微笑む。
「昨日の貴族会議でも、農村の水不足問題を即座に解決されました。あの村長は、涙を流して感謝していましたよ」
「見てたのか」
「はい」
ノクスが、ソラリアを見つめた。
「……お前、そういうこと言うの上手いよな」
「本心です」
「俺、お前に褒められると、なんか頑張れる気がする」
「では、たくさん褒めますね」
「恥ずかしいからやめろ」
ノクスが真っ赤になって顔を背ける。その子供っぽさに、ソラリアの胸の奥がチリりと焼けるような感覚に襲われた。愛おしくて、けれど決して手が届かない場所。
「まあ、頑張りましょう。午前中は貴族会議ですから、それまでに目を通しておいてください」
「無理」
「無理じゃありません」
「絶対無理」
「ノクス様」
書類に顔を埋めるノクスに、ソラリアは微笑みながら、彼の好きな少し甘めのハーブティーを淹れた。
午前中の貴族会議。
大会議室には、魔界の有力貴族たちが集まっていた。長い楕円形のテーブルを囲んで、十数名の貴族が着席している。
ノクスは玉座に座り、その隣にソラリアが控えている。
玉座に座るノクスは、執務室での姿とは別人のように凛としていた。
議題は国境警備の強化について。人間界との境界で、不法侵入が相次いでいた。
「では、まず現状報告から。マクシム卿、よろしいか」
老貴族が立ち上がる。白髪で背の高い、威厳のある男だ。
マクシム卿が報告を始める。国境での人間の侵入事例、警備兵の配置状況、今後の対策案。
ノクスは真剣な表情で聞いていた。時々頷いたり、鋭い質問を投げかけたりしている。
「警備兵の増員が必要だと思うが、予算は?」
「現在の予算内で対応可能です」
「配置場所は?」
「東側の森林地帯に重点的に」
「人間が侵入する理由は把握しているか?」
「おそらく、魔界の資源を狙っていると」
「……ならば、資源の管理も強化する必要がある」
ノクスの指摘に、貴族たちが頷く。
ソラリアは、その様子を見ていた。こういう時、ノクス様は本当に魔王らしい。的確な判断、鋭い洞察。書類仕事は苦手だけど、こういう政治的判断は割と得意そうだ。
会議は滞りなく進み、一時間後に終了した。貴族たちが退室していく中、ソラリアはノクスに近づいた。
「お疲れ様です」
「……疲れた」
「でも、素晴らしい判断でしたよ」
「そうか?」
「はい。資源管理の強化、誰も気づいていませんでした」
ノクスが少しだけ嬉しそうに笑った。
「そうだろう、もっと褒めていいぞ!」
調子に乗るノクスに笑い出したい気持ちを堪えて、ソラリアは現実を告げる。
「喜んでいるところ申し訳ございませんが、数分休憩後にまた会議です」
「うわー! 最近会議詰め込みすぎじゃないか!? 休む暇もない……」
ノクスは執務室のソファに転がり、束の間の休憩という事実に頭を抱える。
「なあ、ソラリア」
「はい?」
「俺、お前がいないと何もできないなあ」
「そんなことはないですよ」
「だから、ずっとそばにいてくれ」
ソラリアの胸が締め付けられる。
「……っ、はい。ずっと、ノクス様のそばにいます」
ノクスが安心したように微笑んだ。
午後は、国境警備の報告書を確認した。
執務室に戻り、ノクスは再び書類の山と向き合っている。ソラリアはその隣で、報告書を読み上げた。
「先週に引き続き、人間の侵入が三件確認されています。いずれも国境の東側、森林地帯からの侵入です」
「また人間が侵入してきたのか」
ノクスが眉をひそめた。
「はい。警備兵が発見し、追い返しましたが」
「……あいつら、本当に懲りないな」
ノクスの声から温度が消えた。ペンを握る彼の手に、力がこもる。
「人間は、信用できない」
ぽつりと呟いた。
「父さんも言ってた。人間は嘘つきで、平気で裏切る生き物だって。だから俺、人間が一番嫌いだ」
ソラリアの指先が、持っていた報告書の端をぐしゃりと握りつぶした。
指から血の気が引き、心臓が冷たくなる。自分を否定されたような、鋭いナイフで胸を抉られたような痛み。
(私も、その「人間」なのに)
彼が最も忌み嫌う「嘘」そのもので、彼の隣にいる。
ソラリアは、訓練された人形のように、完璧な微笑みを顔に貼り付けた。
「……そうですね。では、二度と彼らが入れないよう、さらに警備を固めましょう」
「ああ、頼む」
ノクスが書類にサインをする。羽根ペンを走らせ、魔王の印を押す。
「ソラリア?」
「はい?」
「また顔色悪いぞ」
ノクスが心配そうに見ていた。
「大丈夫か? 無理してないか?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
ノクスは納得していない顔だったが、それ以上は追及しなかった。
「……頼りないかもしれないが、何かあったらいつでも言えよ」
「ありがとうございます」
優しい人だ、とソラリアは思った。
その後、ソラリアは書類整理を続けていた。
ノクスは執務机で、予算案に目を通している。時々溜息をつきながら、数字とにらめっこしている。
窓の外は、すっかり暗くなっていた。魔界の夜は、人間界より早く訪れる。紫色の空が、深い藍色に変わっていく。
「ソラリア」
「はい?」
「今日も、ありがとうな」
ノクスが、書類から顔を上げた。
「いえ」
「食事にするか?」
「……ノクス様」
「何?」
「私も、ノクス様がいないと無理です」
思わず口にしていた。
ノクスが目を丸くする。
「え?な、何だ、突然」
「あっ、その、秘書として、です。先ほど言われたことをずっと考えていて。ノクス様がいないと、私は秘書として存在できませんから」
慌てて言い繕う。
ノクスが少しだけ残念そうな顔をした。
「……あ、ああ、そうか」
「はい」
気まずい沈黙。
「き、今日の食堂の日替わりは味噌ラーメンらしいですよ!ノクス様お好きでしょう」
「あ、ああ!」
ノクスと夕食を共にし、夜、自室に戻ったソラリアは、鏡の前に立った。
魔術を解く。
あの偽物の角と翼が、煙のように消えた。
鏡に映るのは、ただの人間。亜麻色の髪、榛色の瞳、白い肌。魔族の特徴は何もない。
「……私は、人間だ」
呟く。もし正体がバレたら、あの優しい瞳は、一瞬で軽蔑に変わるのだろうか。
「明日も、頑張ろう」
ベッドに倒れ込み、ソラリアは目を閉じた。
今日も、愛する幼馴染を騙した。
でも、彼の笑顔を守れた。
今はそれだけで、幸せだと思うことにした。
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