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ポンコツ魔王に人間とバレてはいけない  作者: 胃袋まんげつ


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01 甘い秘密

 唇が触れ合った瞬間、魔王ノクスは奇妙な予感に襲われた。


 甘い。


 魔族の唾液は、どれも少しだけ苦い。それが”普通”だ。なのに今、舌の上に広がっているのは――蜂蜜みたいな、果実酒みたいな、あり得ない甘さだった。


 目の前にいるのは、幼馴染であり、長年秘書を務めている――ソラリア・シジルだ。彼女の唇を貪りながら、ノクスは心の奥で警鐘が鳴るのを感じていた。何かが違う。何かがおかしい。


 それでも、止められなかった。


 彼女の吐息が唇に触れる。柔らかな舌が絡みつく。その度に、甘さが口腔を満たしていく。


「……ん」


 ソラリアが小さく喘いだ。


 その声に、理性の糸がぷつりと切れそうになる。ノクスは唇を離した。


 荒い呼吸。紅潮した頬。榛色の瞳に浮かぶ涙。腫れた唇。


 その姿に、再び抱き寄せたい衝動が湧き上がる。だが、ノクスの身体を縛ったのは、消えない違和感だった。


「何で」


 掠れた声が、喉から漏れた。


「こんなに甘い味がするんだ?」


 ソラリアの表情が強張る。


「……え?」


「お前の唇が」


 言葉を選ぶように、ゆっくりと。


「甘すぎる」


 ソラリアの顔から、さっと血の気が引いた。


 ノクスは一歩近づき、彼女の首筋に顔を寄せた。


「……ノクス様」


「動くな」


 今まで聞いたことのない強い命令口調に、ソラリアは硬直する。


 ノクスは、目の前の幼馴染の首筋に唇を這わせ、軽く歯を立てた。


「……ッ」


 唇を離し、目の前のソラリアを見れば、びくりと身体を震わせていた。顔を真っ赤にして身を捩る彼女の様子に、ノクスの心臓はドクン、ドクンと大きな音を立てる。


 柔らかい皮膚。当然だ。魔族だって柔肌を持つ。だが、この感触は違う。繊細で、もろくて、壊れやすい。まるで――。


 ノクスは顔を上げ、じっとソラリアを見つめた。


 まるで、存在そのものを憎んできた“人間”が、目の前にいるかのようだった。


 陽光を受ければ金色に輝くソラリアの瞳の奥に、怯えと後悔と、そして隠しきれない何かが揺らめいている。


「お前は」


 低く、静かにノクスは問う。


「一体、何者なんだ?」


 ソラリアは答えられなかった。


 まさか、幼い時から共に過ごした彼女が魔族でないなんてあり得るだろうか。ノクスは信じられなかった。


 しん、とした室内には、ソラリアの涙が落ちる音だけが響いた。


   ***


 そして、時は遡り、数ヶ月前の、ある昼下がり。


 魔王城には陽の光が差し込むことはない。紫がかった闇に、二つの月明かりだけが城を照らす。


 執務室で、ノクス・アスファエルは机に突っ伏していた。


「……もう無理だ」


 書類の山に埋もれたまま、ぴくりとも動かない。はぁ、と大きな溜息を吐いている。


 魔王。荘厳な響きを持つ称号。幼い頃は父のような偉大な王になりたいと願った。


 そんな彼の現実は、思っていたより地味で、書類に押し潰される日々だった。


 一時間前、ノクスは「今日こそ片付ける」と意気込んで書類の山に向き合った。だが、王族魔族の血が災いする。強すぎる魔力は、細かい文字を追う集中力と相性が悪い。一行読むごとに魔力が乱れ、視界が滲む。窓の外に目をやれば、夜鳥が飛んでいる。魔力が落ち着く。また書類に戻る。どこまで読んだか分からなくなる。最初から読み直す。


 この繰り返しを一時間続けた結果、書類の山は数枚しか片付いていない。


 心が折れた。


 そのとき、扉がノックされた。


「失礼いたします」


 その声を聞いた瞬間、ノクスはパッと顔を輝かせた。


「ソラリア」


 扉が開く。


 亜麻色の髪。榛色の瞳。透き通る白い肌。背には小さな角と透明な翼――魔族の証。


 ソラリア・シジル。魔女であり、幼い頃から魔王を知る彼女は、秘書として働いていた。


「お茶をお持ちしました」


「助かる」


 ノクスはお茶を受け取ろうと立ち上がり、足元の書類を踏んで滑った。


「わっ」


 がしゃん、と派手な音を立てて転ぶ。


「ノクス様!」


 ソラリアが駆け寄ろうとして、お茶のトレイを傾けるも、慌てて持ち直した。


「大丈夫か!?」


「私は大丈夫です。ノクス様こそ大丈夫ですか?」


「俺も……平気だ」


 ノクスは真っ赤な顔で起き上がる。痛みより恥ずかしさの方が勝っていた。


 ソラリアは溜息をついて、トレイをサイドテーブルに置いた。


「またですね」


「……悪かった」


「いえ」


 彼女は散らばった書類を拾い始める。その手際は迷いがない。


 ノクスも手伝おうとするが、ソラリアが近くにいると不思議と魔力が落ち着く。そのせいで、一枚拾っては内容が気になって読み始め、また別の書類を拾っては読み始める。全く進まない。


「ノクス様」


 ソラリアが呆れたような声を出した。


「片手間に読まないでください。自席で決裁をする方がよいのでは?」


「あ、ああ」


 また拾う。また読み始める。


「ノクス様」


「ごめん」


 ソラリアは書類を手から取り上げた。


「もう、座っていてください」


「でも」


「座っていてください」


 有無を言わさぬ口調。ノクスは素直に椅子に座った。


 ソラリアが一人で散らばった書類を片付けていく様子を、ぼんやりと眺める。


「すごいな」


「何がですか?」


「そんなにてきぱき片付けられて」


「普通のことです」


「俺にはできない」


 ソラリアは手を止めて、ノクスを見た。


「……ノクス様は、他のことがおできになります」


「例えば?」


 期待を込めて聞くと、ソラリアは少し考えてから答えた。


「民の話を、ちゃんと聞いていらっしゃいます」


「それ、仕事できるってことと関係ないだろ」


「関係あります」


 ソラリアは真剣な顔で言った。


「先代魔王様は、書類仕事は完璧でした。でも、民の声を聞くことは、ほとんどなさらなかった」


 ノクスは黙った。


 父、テネブリスは確かにそうだ。民には冷酷で、完璧で、心を開かない男だった。


「ノクス様は違います。昨日の貴族会議も、議事進行は確かに……その、何度か間違えられましたが」


「うむ」


「……はい。でも、最後に出た嘆願を、ちゃんと聞いていらっしゃいました。あの老貴族が涙を流した時、ノクス様も泣きそうな顔をされていましたね」


「見てたのか」


「はい」


 ソラリアが花のように微笑む。ノクスは彼女のこの笑顔が好きだった。


「それに」


 ソラリアは続ける。


「戦場では、誰よりも強くて、冷静で、頼もしい。側近の方々も、民も、皆それを知っています。ノクス様は、優しくて強い方です」


 その言葉に、ノクスは胸が温かくなる。


 父のような魔王になると決めたのに、実際は失敗ばかりだ。ソラリアが自身のサポートをしてくれるおかげで、こうして魔王としてなんとか全うできている、と彼は思っていた。


「……ありがとう」


「どういたしまして」


 ソラリアは書類の整理を再開した。ノクスはその横顔をじっと見つめる。


 綺麗だ、と思わず見惚れてしまう。


 いつもそう感じているが、こうして真剣に仕事をしている姿は、特別に見えた。


「なあ、ソラリア」


「はい?」


「ソラリアがいなかったら、本当に魔王なんて務まらなかったと思う」


 ソラリアの手が止まる。


「……そんなことはありません」


「いや、本気で」


 ノクスは真剣な顔で言った。


「お前は、俺にとってかけがえのない存在だ」


 ソラリアはゆっくりと顔を上げた。


「……ノクス様」


「ずっと、俺のそばにいてくれ」


 主従の言葉。


 だが、心の奥底には別の感情が渦巻いていた。


 ソラリアは少しだけ悲しそうに微笑んだ。


「はい」


 短い返事。


 その声に、何か言いたいことを飲み込んだような響きがあった。


 ノクスは、それに気づかなかった。


   ***


 気づけば、ソラリアに怒られたり助けられたりする毎日が”いつものこと”になっていた。


 ノクスは相変わらず書類に追われ、相変わらず転び、相変わらず迷子になった。


 今朝も、自室から執務室に向かう途中で迷子になった。廊下を三つ曲がったところで、また魔力の揺らぎが起きた。この城は先代魔王テネブリスの魔力で構築されている。ノクスの魔力とは相性が悪く、時折、空間認識が狂う。気づけば厨房にいた。


「また迷われましたか」


 料理長が呆れたように言った。


「……ああ」


「今日で五回目ですよ」


「そんなに……」


 落ち込むノクスに、料理長は焼き菓子を持たせてくれた。


「ソラリア様に迎えに来てもらってください」


「すまない」


 しばらくして、ソラリアが厨房に現れた。


「ノクス様」


「悪い、また迷った」


 ソラリアは溜息をついた。


「もう、地図は覚えましたか?」


「覚えた」


「では、執務室への道は?」


「えっと……右に曲がって、それから……」


 言葉に詰まる。ソラリアは呆れたような、でもどこか優しい目でノクスを見た。


「また一緒に歩きましょう」


「ああ」


 並んで歩く二人。ソラリアは少し前を歩き、ノクスは後ろからついていく。


 ノクスは、こうして彼女と一緒にいられる時間が好きだった。


 そんな日々の中で、ノクスは気づき始めていた。


 ソラリアへの想いが、主従を超えていることに。


 もっと知りたい。もっと近づきたい。もっと、触れていたい。


 だが、彼女は一線を決して越えようとしなかった。時折見せる寂しそうな表情。遠くを見つめる瞳。まるで、何かを諦めているような――。


   ***


 そして、運命の夜。


 魔王城の図書館にノクスはいた。


 先代魔王の日誌を探すために、長い間色んな書物を開いては頭を捻っていた。古い契約の記述を探しているのだ。


 国境付近で人間と魔族の小競り合いが増えている。戦争を避けるため、契約文書を確認する必要があった。


「確か、この辺りに……あれ?」


 本棚の間を歩く。


 だが、どの本棚も似たように見える。またも城の魔力構造に翻弄され、ノクスは完全に迷子になった。


「さっきここ通ったよな……」


 そのとき、足元がぐらりと揺れた。


「!?」


 古い本棚が傾く。ノクスは慌てて支えようと手を伸ばした――が、逆に引っ張ってしまった。


「まずい――」


 ばさり。


 雪崩のように本が崩れ落ちてくる。


「うわっ!」


 腕で頭を庇う。終わった、と思った瞬間。


「ノクス様!」


 誰かが身体を押し倒した。


 どさり。


 柔らかい感触が覆いかぶさる。


 本の雨が降り注ぎ、やがて静寂が訪れた。


 ノクスは恐る恐る目を開けた。


 目の前に、ソラリアの顔。


 彼女はノクスの上で、彼を庇っていた。亜麻色の髪が頬に触れる。榛色の瞳がすぐそこに。


「……ソラリア」


「ノクス様、大丈夫ですか?」


 震える声。


「ああ。お前は?」


「私も」


 見つめ合う。


 近い。近すぎる。ノクスはあまりの距離の近さに硬直してしまう。


 彼女の吐息が唇に触れた。甘い香りに、心臓が跳ねる。


 気づけば、手が彼女の頬に触れていた。


「……ノクス様?」


「ソラリア」


 低く掠れた声で名を呼ぶ。


「俺は、お前のことを――」


 言葉はもう要らなかった。


 ノクスは、ソラリアの唇に自分の唇を重ねた。


 柔らかい。温かい。


 そして――


 甘い。


 あまりにも、甘すぎる。


 だが、この瞬間に至るまで、ノクスは知らなかった。


 ソラリアが、どれほど多くのものを隠しながら、彼のそばにいたのかを。



お読みくださり、ありがとうございます。

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