表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
99/100

第九十九話 天界での序章・凛宸


私は凌雪(りょうせつ)を失った悲しみの深さのあまり、この命も落とすことになってしまった。


衰弱していくこの身は、かつての志も、責任感も、強い意志さえも、すべてを奪っていくようだ。


苦しみのあまり、心も体も朽ちてゆくような感覚に苛まれる。




――――私にとって凌雪は、まさに「命」そのものだった。




愛らしい微笑みも、殿下と呼ぶ声も、そしてこの天黎(てんれい)を思う私に常に寄り添ってくれた心も。


そして誰よりも、私がこの国を治めるに相応しい皇太子であり続けることを願ってくれた。





そんな彼女は、もうどこを探してもいない。――――



触れれば雪のように解けてしまいそうな、その唇も。

温かなその頬にも、もう二度と触れることは叶わぬ。


この胸を抉るような痛みと共に、ただその事実だけが残された。






――――それから三年が経った。



いよいよ、私の身はこの世に最後の別れを告げる時が来たようだ。


ただただ悲しみに暮れる父帝、母上、そして我が弟である寧王李璿(りせん)

御医たちのすすり泣く声の中、皆に見守られ私は静かに目を閉じた。



そして、この目が再び開かれることは、二度となかった。



すすり泣く声が泣き止まぬ前に、私はゆっくりと目を開けた。

ほんのりと温かな感覚に包まれ、何もかもが安らぎに満ちているようなそんな感覚だ。



ふと横を見れば、神医が寝台の側に立っている。



しかしよく見れば髪色が違い、銀色に近い柔らかな白金の髪をさらさらとなびかせている。

そう言えば、蒙成との戦の辺りから神医を見かける事がなくなった。



私はゆっくりを身を起こし、側にいる神医を見上げた。


「神医…私は一体…まさか…生き返らさられたのか!!」


見れば自分の体は、まだ寝台に横たわっているのにそこから抜け出たかのようにして体が軽く動くではないか…


「あれは一体…」


「さぁ…こちらへ」


神医ににっこりと微笑まれ、私は彼の後をついて行った。

背後では、私の抜け殻の前ですすり泣く声が、暗く満ちている。


それを思わず振り返れば、神医は”振り返ってはならない”と声を荒げた。



それに少しびっくりして、私はそそくさと彼の後をついていく。


彼に言われるがままその後を付いていくと、広大な川のほとりにたどり着いた。

穏やかで明るい色のその川辺には色とりどりの花が咲き乱れ、流れるようにして色が変わっていく。


そこから翡翠のような輝きの二本の橋が見え、皆がそこを渡っていくのが見えた。

それをじっと眺めていると、彼が私にそっと白磁の器を手渡す。


「これはなんだ」


「これは、人間界での記憶をなくす忘川(ぼうせん)の水ですよ」


神医は私に、にっこりと微笑んだ。


「人間界での事を、忘れる?」


「苦しみも、悲しみも、喜びも、記憶は全て無くなる…」


苦しみも、悲しみも‥‥喜びも?



歴業(れきごう)でのすべてを忘れるためだ…」


「歴業?」


「いいから早く飲んで…」





全てを忘れる?喜びも忘れてしまったら、私は凌雪の事まで忘れてしまうではないか。


こんな水に、本当にそんな力があるのか?





「これを飲まないと、私はどうなるのだ」


「記憶に苦しむことになる」


「記憶に?」


「忘れたくても忘れられないままですよ」


そう神医に言われて、手に持った器をじっと見つめた。




――――忘れたくても忘れられない…


私は…”忘れたくない記憶”ならあるのだが…



そう思い、彼が背を向けた瞬間、私はそれをその場で流し捨てた。



すぐに私の方を振り返った神医は、器が殻になったことを確かめるようにしてそこにいる孟婆(もうば)という老婆にそれを返す。




その老婆は、私をじっと見ると「後悔するよ」とつぶやいてにやりと笑った。



更に神医についていくと、その忘川と言われる川の流れの中央には、巨大な蓮が浮かんでいる。

見ていると、その花びらが九重の門のように広がった。


「さぁ、ここへ」


神医に手を引かれ一歩一歩花びらを踏めば、その都度今までの記憶が剥がれ落ちるそうだ。


しかし私は”孟婆湯(もうばとう)”と言われる「忘川水」を飲まなかったので、記憶が消える事はなかった。



最後の花びらを踏んだ時に目の前に龍紋の刻まれた古い青銅の門が現れた。




凛宸(りんしん)…さぁこちらへ」


その名に覚えがある…




私が近づくと門は自然と開いて、霧が布のように垂れ下がっている。

天界の門をくぐり、光の粒子が降り注ぐ中私は天界へと戻った。



永き不在を終え、ようやく帰還した私を、神仙や天官たちが温かく迎える。




「よくぞ戻られた、凛宸殿!」

「我らの戦神殿!」


祝福の声が響き渡り、喜びの光が満ちる。

しかし彼らの笑顔が、私の胸に突き刺さった。



天界での、私の記憶が戻った瞬間だ――――



私は天界の上神仙だ。戦律神になるために、歴業の修行をこなしていたのだった。


私は、心ここに在らずといった様子で、皆の歓迎にもただ静かに頷くことしかできなかった。



「凛宸…お帰り…」


そこには神医ではなく、親友の燁煊(ようけん)の姿があった。

彼に思わず抱き寄せられたが、戸惑いが隠せない…


まさか燁煊は、神の身をもってして人間界に?

私を助けに来てくれていたのだろうか…


かつて友として恵仁堂(けいじんどう)を盛り立ててくれた神医が、真の親友であったとは…


呆然と周りの様子を見つめ、私を迎える宴席で所在なさげにしていた。

すると神殿の庭の方から、息を切らせてこちらに向かってくる見覚えのある顔が目に入る。



それは…



瑤心(ようしん)!こちらだよ!凛宸が戻ったのだ!」


そう燁煊に、明るく声を掛けられて手を振る彼女は…




「……凌雪…?」



衣や髪型で雰囲気は違えど、その姿は凌雪だ。


それを見て思わず立ち上がり、一歩前に踏み出そうとしたその時だった。

隣にいた燁煊に、咄嗟に腕を掴まれる。




彼は迷うことなく、私を神殿の奥へと力強く引きずって行った。




「なんなのだ、燁煊…」




彼は険しい顔で私と向き合うと、眉間に深い皺を刻んだ。




「まさか……凛宸、人間界での記憶を、そのまま持っているのか?」




私は、何も答えることができなかった。

その沈黙が答えだと悟ったのか、燁煊は顔をさらに曇らせる。


「凛宸!忘川水を飲まなかったのか!」


私はもはや隠すことなく、はっきりと告げた。


「私は……凌雪を忘れるつもりはない!」


「何を言っているのだ。あれはただの修行。

定められた人生ではない!凌雪は天界の神、瑤心だ!

なぜ規律を破った!知られてしまえば、お前は罰せられてしまうぞ!」



「燁煊…お前は、人間界での私の事を見てきたのだろう。その記憶はないのか?」



「私は神として地上に降りた。二人の記憶は、確かにこの胸にある。だが、それはあくまでも司命簿葉で定められた人生での出来事。この天界では何の関係もないことだ!」



「そんなことはない!私は凌雪以外は望まぬ!」



凛宸りんしん!」



「私は凛宸ではない!煊王李煌だ!」


そう言って燁煊の手を振り払うと、私は宴場にいる凌雪の元へ駆け寄った。


「凌雪……よかった。無事だったのだな……」



この目に溢れんばかりの涙を溜め、彼女を両腕で抱きしめる。

忘れていたこの感覚が、一気に蘇ってきた。喜びで心が満たされていく。


すると、いきなり燁煊が私から凌雪を引き離し、彼女を宮殿の外に連れて行った。


「待て!燁煊!!」

私は足早に、二人の後ろを追いかける。


燁煊と凌雪は、正殿の脇にある司命殿に足を踏み入れた。



「燁煊……凛宸、どうしたの?」


「凌雪!私だ!わからないのか!?」


「え…?」


「凛宸、瑤心は忘川水を飲んだ。人間界での記憶は何もないのだ!お前の為にも、その記憶を封印しなければ…」


「燁煊……私の気持ちがわからぬのか!お前は、この一部始終を側で見ていたのであろう!」







「瑤心は、私の許嫁(いいなずけ)なのだ!」





その言葉に、私は思わず息をのんだ。




「……許嫁……?」




「凛宸、もしかして忘川水を飲まなかったのですか…?なぜそんな事を…」




凌雪の…いや瑤心の不安げな声が、私の胸を締め付ける。




「瑤心、大丈夫。凛宸は少し混乱しているだけだ…」




燁煊はそう言いながら、凌雪を庇うように一歩前に出た。






「とにかく、少し落ち着こう」


燁煊は私を諭すかのように、そっと肩に手を置いた。


目の前にいるのは、確かに私が愛し慈しんだ凌雪だ。

あの時のままで、何も変わらない。しかし、私の天界での記憶もまた、確かにある。





私は戦神……上神仙として、歴業の修練を経て戦律神となるために地上へ降りた。



司命簿葉の通りに人生の修業をこなし、天界に戻るはずだった。

それなのになぜ愛の女神である瑤心が、私の定められた人生に関わったのだ……心奪われることなど、司命老師もわかっていたはず。




……そう、瑤心には凌雪としての記憶はない。



今目の前にいるのは、凌雪ではないのだ。

私は一体これからどうすればいい……。


「燁煊の許嫁だと?」


私はまた、他の者に娶られる彼女を、黙って見ていなければならないのか。


私は一人、呆然と天界の氷門ひょうもんの前に歩いて行き、そこの岩に腰を下ろした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ