第九十六話 皇太子・煊王李煌の死
凌雪が自らの命を賭して私を庇い、その身が矢に貫かれた光景は幾度まぶたを閉じても消えなかった。
矢羽の震える音、彼女の血の匂い、力なく崩れ落ちるその身体――
すべてが脳裏に焼きつき、離れない。
「……なぜ、あの時……私では無くそなたが……?」
胸を押さえても、心臓は掴み潰されるように軋んだ。
彼女を守ると誓っていたのは自分であったはずなのに、守られたのは自分だった。
夜の宮殿は、しんと静まり返っている。
だが、静寂こそが私を追い詰めた。
凌雪の笑みも、声も、温もりも、もうこの世にはない。
――その事実だけが、冷たい刃のように突き刺さる。
息を吸うたび胸が裂け、息を吐くたび空虚が広がっていた。
枕に顔を埋めても、涙は止まるところを知らず溢れて行く。
やがて嗚咽も枯れ、ただ虚ろな瞳で天井を見つめ続けた。
「……凌雪……」
その名を呼ぶたび、答える声はもうどこにもなくただ深い闇が心を呑み込んでゆく。
彼女を失った恐怖と喪失感は、皇太子としての威厳すら奪い去り、ただ一人の男として――愛しい女を失った哀れな男として私を淀みに沈めていた。
夜は深く、宮中は静寂の中にある。
ただ正殿の奥、安置された棺の前だけが冷たい灯火に淡く照らされていた。
私は真夜中、人知れずそこへ足を運ぶ。
侍従も護衛も退け、ただ一人だ。
棺の前に膝を折った瞬間、胸をえぐる痛みが押し寄せてくる…
その冷たい頬の表面に触れると、そこに眠る彼女の温もりを思い出してしまい、喉の奥から嗚咽が漏れた。
「……凌雪……」
その名を呼ぶ声は震え、声とも呼べぬ呻きに変わった。
「……ぅぁああっ…………ぁああ…」
嗚咽は抑えきれず、両の手で顔を覆いながら、まるで子どものように泣き崩れた。
――私のために。
ただ私を庇って、命を落としたのだ。
―――――悔やんでも悔やみきれぬ――――
どれほど涙を流しても、この罪は消えはしない。
私は彼女を守ると誓ったはずなのに……その誓いを果たすことなく、彼女を死なせてしまった。
「凌雪……。そなたは、なぜ私をおいて行ってしまったのだ……」
言葉は嗚咽に途切れ、声にならない慟哭が夜を裂いた。
肩を震わせ棺に縋りつき、涙が黒漆にぽとぽとと落ちていく。
天黎の皇太子である前に一人の男として、私はただ、愛しい人を失った愚か者でしかなかった。
そして――この身を焦がすほどの悔恨と自己への憎しみだけが、永遠に残されたのだった。
彼女を失ってからというもの、私は何を見ても何を聞いても、凌雪の面影から逃れることができなかった。
政務の場に座しても、文を広げたまま筆は進まず、臣下の声も遠く霞んで聞こえる。
ふと風が簾を揺らすと、その陰に彼女の姿を見てしまう。
廊下を渡る衣擦れの音に、胸の鼓動が跳ねる。
けれど振り返れば、そこには誰もいない―――
食事にも手を付けられず、杯を口に運んでも味を感じない。
夜、帳に横たわれば、夢に現れるのは必ず彼女であった。
「殿下…」と呼ぶ声に手を伸ばしても、掴む前にその姿は霧のように消える。
そして目覚めるたび胸を裂かれる思いに息が詰まり、涙に濡れた枕を抱きしめるしかなかった。
やがて、身体も心に追いつかれるように崩れていった。
朝起き上がることもままならず、侍従に支えられても足が震える。
熱は下がらず、膳の前に座しても喉が通らない。
御医は”憂いが病を招く”と言うが、癒えぬ心をどうすればよいのか誰にもわからなかった。
父帝は、天黎中の名医を呼び寄せる。
しかし鏡に映る自分はやつれ果て、頬はこけ、目の下は深く暗い影が落ちていた。
皇太子煊王李煌――天黎を背負うべきこの身は、今やただ一人の女を失った男に過ぎなかった。
――日常は崩れ落ち、愛しい人を失った空白が、私を蝕み続けていた。
日ごとに身体は痩せ衰え、ついには寝台から起き上がることさえ叶わなくなった。
熱に浮かされた視界は霞み、呼吸は浅く、胸の奥に絶え間ない痛みが走る。
御医たちは薬を調合し、臣下たちは「どうか御身をお大事になさってください」と涙ながらに頭を下げたが、誰の声ももう遠い。
ある日、寧王李璿が静かに私を訪れた。
かつて共に支え合った弟の姿を、同じ女子を愛した弟を、私は力なく寝床から見上げるしかなかった。
「兄上…」
その一言に、私は唇を震わせながらも答えた。
「李璿…あとは頼む…私は…」
声は掠れ、途切れ、ほとんど囁きに近かったが、寧王はその手を強く握り締め、涙をこらえながら深く頷いた。
「兄上…ご安心ください…私は…私は…しかとこの国を守っていきます」
傍らで見守る臣下たちは皆、目に涙をためていた。
あの誰よりも毅然と戦場を駆け天黎を導いてきた私が、今は衰え果てて横たわり、残された者へ最後の願いを託している――その事実に、彼らは声を殺して泣くしかなかった。
外では風が冷たく吹きすさび、部屋の灯火が揺れていた。
私はその炎の揺らめきの向こうに、凌雪の微笑を見た気がした。
「…私は、そなたのもとへ…」
そう呟いた瞬間胸の奥の痛みがすっと和らぎ、重く閉じた瞼は二度と開くことはなかった。
寧王は嗚咽を抑えきれず、寝台に伏し泣き続けた。
臣下たちは床に額をすりつけ、私の死を悼む声が重なり、宮中は深い悲しみに包まれた。
――天黎を背負った皇太子煊王李煌は、この世を去った。
残されたのは、果たされぬ約束と、癒えることのない喪失の記憶であった。




