第九十五話 凌雪の遺書
皇宮の正殿。
その奥にひっそりと設えられた堂には、沈痛な空気が満ちていた。
白布が張られ、壁際には無数の灯火が揺れている。
香炉からは白い煙が立ち昇り、甘やかで重たい香りが堂内を覆っていた。
中央には、黒漆に金で文様を施された棺が置かれている。
棺の蓋には白い布が掛けられ、その上には凌雪が生前愛した白梅の枝が供えられていた。
人々は静かに涙を拭い、ただ彼女の安らかな眠りを祈るしかなかった。
私は、棺の前に進み出る。
この頬は溢れる涙で濡れ、目元には一睡もできぬ夜を思わせる深い陰が刻まれていた。
韓碧心が静かに近づいてきて、懐から一通の文を取り出す。
「……殿下。これは、正妃より預かったものでございます。もしもの時には、必ず殿下にお渡しするようにと…」
私の指が、震えながらその文を受け取る。
そこには「寧王殿下へ」とだけ、彼女の筆跡で書かれていた。
その瞬間、胸の奥に張り裂けるような痛みが走る。
「凌雪……」
絞り出すように名を呼ぶと、私は膝をつき棺の前にひれ伏した。
そして私は、凌雪が最後まで守ろうとした命――わずかに膨らみ始めた腹へと手を伸ばし、震える掌でそっと撫でた。
「ああぁ……我が子よ…お前と母を守れなかった父を…どうか…どうか許さないでくれ…」
涙が頬を次々と伝い、大きな滴となって彼女に掛けられた白布の上に落ちた。
傍らでは、凌孟昊が堪え切れずに嗚咽を漏らしていた。
豪胆で知られる男の目から大粒の涙が溢れ落ち、拳を握り締めている。
やはり、子を思う親の気持ちを隠し切れぬようだ。
「雪児……わが娘よ……なぜこのような……」
「雪児!!兄を残して…このような事に!!」
「雪児ーーー!!私のかわいい娘雪…」
堂内には、親子の慟哭が静かに木霊する。
凌孟昊・その妻・兄凌玄珣は想像しがたい深い悲しみに包まれていた。
凌家の末娘は、まるで白梅の精がこの世に降り立ったかのように、愛らしくも清らかな心を持っていた。
その正義感は凛とした剣の如く、弱き者を守るべく揺らぐことはない。
彼女の輝きに触れた者は皆、その人柄に魅了され、慈しみと尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
そのうちの一人が、私である…
ここでは、かかわりのあった全ての人が、深い悲しみに暮れていた。
しかしその場に在るべきはずの兄・皇太子煊王李煌の姿はどこにも見当たらない。
その不在が、場の空気をいっそう重くしている。
代わりに、堂の片隅には蕭烈微の姿があった。
彼は深衣に喪帯を結び、ただ一人の男として、凌雪の死を悼むように目を閉じていた。
その背中には、武人としてではなく、一人の人間としての深い哀惜が滲んでいる。
蕭烈微は此度父帝に、”男である事、景国の皇子である事”を打ち明けたが、景国の援軍の功績のおかげで極刑は免れた。
でも…あの時もし蕭烈微が、地下牢から凌雪を連れ出さなければ―――
それが私の心には今もなお、拭い去ることのできぬ恨みが澱のように沈んでいる。
たとえあの景国が、我らが天黎に救いの手を差し伸べたという事実があろうとも、この胸の奥底に燃える憎しみは、決して消えることはなかった。
香煙が更に揺れる…
人々のすすり泣きが、この場を満たしていく。
こうして凌雪の魂は、静かに冥界へと送り出されようとしていた――。
葬儀の後私は一人、宮中の映月亭に佇んでいた。
ここは、私が凌雪と出会った場所だ……
月が池面に揺らめき、夜風が欄干をすり抜ける。
懐から、昼間韓碧心より受け取った文をそっと取り出した。
「寧王殿下へ」と細やかな筆致で記された文字が、側で揺れる灯火に浮かんだ。
指先が震え、何度もためらった。
開けば、二度と戻らぬ凌雪の最期の言葉がそこにある。
だが、読まねばならぬ。夫として、父として―――
私は深く息を吸い、静かに封を破った。
それを広げ見る紙の擦れる音が、夜の静寂に響く。
その一文字一文字を目で追うたびに、胸の奥に鋭い刃が突き立てられるようだった――。
寧王李璿殿下へ
我が命根たる子を伴い、先に旅立つ不孝をお許しください。
寧王殿下の厚き御慈悲と寵愛に包まれ、この雪は真の至福を知りました。
心残りはただ、殿下をこの世に残し逝くことでございます。
皇太子殿下の御事では、貴方様の御心を深く傷つけてしまい、心よりお詫び申し上げます。
されど、最期の時までこの心に寄り添ってくださった殿下のこと、今、雪は心から感謝しお慕い申し上げております。
「雪」と呼んでくださる優しい声、そして常にこの身に向けられる温かな眼差し。
殿下のその御慈悲は、この雪の心を深く満たし、身に余るほどに尊きものでございました。
貴方様こそがこの雪にとっての、生涯の希望でございました。
願わくば、殿下の御心が安らかであることを、ただひたすらに願っております…
その想いを、ここに遺す。
雪
「…凌雪…あぁ…雪……雪………」
その遺書を読み終えた瞬間私の胸から慟哭が溢れ出し、嗚咽の中でただその名を叫び続けた。
もはやこの手に戻らぬ、愛しき我が正妃凌雪よ……
もしあの時、私が叔父に惑わされていなければ…… もし、私が兄上に背を向けることがなければ……
―――そして、これほどまでにそなたを愛しすぎることがなければ……
凌雪。そなたは今も、ここで笑っていてくれただろうか……
私は…取り返しのつかない事をしてしまった。
彼女は私にとって、まるで温かな春風のような人だった。
愛らしいその笑み…
穢れなきその心根…
すべてを包み込むような、慈愛に満ちた深き思いやり…
兄上を慕いつつも、この私に尽くし、寄り添い、深き愛を注いでくれた我が正妃、凌雪よ…
この身は生涯、お前を忘れることはなかろう。 いや、忘れられるはずなどないのだ……
「凌雪…」
そなたは、私の中でいつまでも生き続ける――――




