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第九十一話 助けに来た魅影



夜気は重く、隠し部屋を満たす湿り気は胸の奥まで満ちていた。


松明(たいまつ)の炎が揺れるたびに、まるで私の心を追い詰めるようだ。





「正妃…私達は一体どうなるのでしょうか…」


韓碧心(かんへきしん)が小さな心細い声で、私に問いかける。



ここに閉じ込められて数日…外の様子は全く分からない。



寧王(ねいおう)殿下や、皇太子殿下はどうされているのだろうか…


そして父上や兄上は…



その時――

耳慣れぬ羽音のような気配が、背後の闇を裂いた。



「寧王妃――」



低く抑えた静かな声…


闇の中から現れたのは、黒装束に身を包んだ一人の女子の影だ。




「あなたは…一体誰なのですか…」




私は思わず、韓碧心(かんへきしん)緑瑛(りょくえい)蘇璃(そり)の前に、両手を広げて立ちはだかる。


彼女の手には血に濡れた短剣が握られていて、それを見た韓碧心らが小さな悲鳴を上げた。



すでに隠し部屋を守る兵たちは、息を潜めるように倒れている。



魅影(みえい)と申します。正妃、お迎えに参りました。寧王(ねいおう)殿下の元へ急ぎましょう」



囁きは鋭く、しかし確かな救いを含んでいる声だ。


私は縛められた手を解かれ、久しく味わえなかった自由の感覚に膝が震えた。



「本当に……寧王殿下のご指示なのですか?」


思わず問いかける。

皇太子殿下の指示だと私を連れ去った、蕭烈微(しょうれつび)の事が頭を過ったからだ。


彼女はただ深く頷き、懐から布包みを取り出した。


そこには、私が寧王殿下へ贈った繍帕(しゅうば)が忍ばせてある。




―――それは、最後にお別れの時殿下に手渡した、蕭烈微から貰った栗鼠(りす)の繍帕だ…




「殿下からの証。これを見れば、正妃も信じてくださると」



私は思わず、胸が熱くなった。

…寧王殿下は、今尚私と…子を…案じてくださっているからだ。



「急ぎます、蒙成(もうせい)の兵が気づけば、ここは地獄となる」


魅影に手を引かれ、私達四人は狭い抜け道へと駆け出した。


暗闇の先には、同時にさらなる危険が待ち構えているだろう――




それでも私は、腹の子の命を守るため、寧王殿下のお言葉を信じ、韓碧心らと歩みを前へと進めた。



―――その瞬間


階段の上から怒声が響く。



松明の赤い炎が揺れ、数人の兵が駆け下りてくる気配がした。





「こっちだ!」


天黎(てんれい)の女たちを逃がすな!」


足音が石壁に反響し、迫る音がこだまする。





魅影は私達を庇い、刃を抜き放った。





一人の兵が飛びかかるや否や、闇を切り裂くような鋼の音が響き渡る。


鮮血が飛沫となって松明の光に散った。



「きゃあ―――!!」


韓碧心らが一斉に叫び声をあげている。




「正妃!!逃げてください!!」


魅影の声に押され、私は震える足で狭い通路を駆けようとした。




後ろでは鋼が打ち合う音や叫声が聞こえ、ここまで血の匂いがしてくる。


だが魅影は、まるで影そのもののように背後を制し、私を決して振り返らせなかった。




「殿下のもとへ必ず――。だから、止まってはなりませぬ!」


「きゃああ!!」


その時だった。


「蘇璃!!」


蒙成の追っ手に捕まった蘇璃が悲鳴を上げて、思わず立ち止まってしまう。



「お嬢様!!」



――――蘇璃が…





「なりませぬ!!正妃!!早く!!」


その奥で魅影が必死で剣を振りながら、私達の方に向かって限りの声で叫んでいた。





「おい!!お前たちが逃げれば、この女は殺す!!」


蘇璃を羽交い絞めにして、首に剣を突き立てている男がこちらに向かって叫んだ。






「正妃…」


韓碧心の今にも泣き出しそうな、頼りない声が消え入るようにして押し出される…



「蘇璃を離しなさい!!」






「正妃!!逃げるのです!!お逃げください!!早く!!」


魅影…





寧王殿下の命で、命がけでここまで来てくださったけれど…

私は、蘇璃を見捨てる事など到底できない!



「私が残ります!!だからこの三人は逃がして!!」



「正妃!」



韓碧心たちは、ぽろぽろと泣きながら私の側で縋り付いた。


しくしくと、すすり泣く声が地下道の石壁に響きながら、それでも魅影の剣の音は止まない…




「やめるのだ!!」


その時だ…威厳のある低い声が太く地下道に響き渡る。






赫連(かくれん)(けい)だ――――



「寧王妃!逃亡を企てるなど、無事で済むと思っているのか!!」



「人質なら私一人で良いはず!韓碧心ら他の者を、開放してくださいませ!!」



「ほぉ…。寧王妃は誠慈悲深い。こやつらは、そなたのただの侍女であろう?」


そう言って蘇璃の側に行き、彼女の頬を指先でなぞった。


不敵な笑みを浮かべた赫連 景は、すんと鼻を鳴らすと大きく声を張り上げる。



「まあいいだろう。よし!他の三人は城門の外へ!!」




「殿下!よろしいのですか!?」


「かまわぬ。その代わり裏切り者の寧王に正妃の首を見せつけてやろう!!」



「裏切り…もの?」


「おおう、そうだ。お前はまだ知らぬのだったな。

冥土の土産に教えてやろうではないか。


お前の夫天黎第二皇子寧王李璿(りせん)は、お前の命を見限って天黎に寝返ったのだ」


「……」


殿下が…天黎に寝返った?


煊王李煌(けんおうりこう)の首を討ちさえすれば、お前を助けてやると言ったのに…そなたより兄の命を選んだ!」


寧王殿下が―――


「それは…(まこと)なのですか?」


「私が嘘をつく理由があるまい。今天黎軍は、景国と共にこの凰影門(おうえいもん)に侵攻している。お前の命など省みずにだ」


「…それは…」



良かった…寧王殿下が正しい道を選ばれたのだ…

私のせいで、皇太子殿下への信頼を失われ、苦しい想いを(かかえ)られていたのに。


決して私を責めることなく、常に愛情で包んでくださった寧王李璿殿下…





―――どうか…ご無事でいらして下さい。





「絶望したか!!だがお前には煊王李煌の首を討つ為に、もっと絶望してもらおう!この者を連れてまいれ!!」


「はっ!」







「正妃!!」

「お嬢様――――!!」





静かに…だが決して覆ることのない決意を胸に、私は韓碧心と蘇璃らに背を向けた。



彼女たちの瞳に宿る深い悲しみが、振り返ることを決して許さない。



ただ一度だけ無事を祈るかのように、私は無言で頷いた。





きっとこれが、私達が共に過ごした日々の最後の光景となるだろう。



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