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第九十話 蒙成への進軍


夜はまだ深く、天幕の外にはまるで前途を暗示するかのような風が吹いている。


遠くでは兵たちの訓練による、槍がぶつかる硬質な音が絶え間なく響いていた。






私は卓の上に広げられた軍図を見つめながら、指先で何度も同じ路をなぞる。







―――明日、蒙成(もうせい)国を討つ。









言葉にすれば簡単な一言だ。


だがその裏には数十万の兵と彼らを待つ家族、そして天黎(てんれい)の存亡が懸かっていた。



「殿下、もうお休みくださいませ」



韓昭(かんしょう)の声が耳に届いたが、私は首を横に振る。



休むべきなのは、理解していた。

だが目を閉じれば浮かぶのは、血に濡れた戦場の幻影かあるいは凌雪(りょうせつ)の顔だ。



彼女は一体、今どこにいるのだ――



赫連(かくれん)(けい)の手に捕らわれ、どのような思いで夜を過ごしているのか。


考えるたびに胸が張り裂けそうになり、私はあえて視線を軍図に落とした。


皇太子として、私は国を背負わねばならぬ。

そして兄として、寧王を信じねばならぬ…




だが、一人の男として凌雪を救いたい…


その三つが胸の内で交錯し、刃のように心を削っていた。




ふと、外から(とき)の声が上がるのを聞く。

夜営の兵が士気を高めるため、声を揃えているのだ。

それは力強くも、同時に私の背を押す声でもあった。



「……天黎を護る。父帝のためでも、民のためでもある。そして――凌雪のためでも。」


自らにそう言い聞かせるように呟き、私は軍図を巻き上げる。


剣の柄に手が触れた時、その冷たさが心を静めるような気がした。



―――もう迷う余地はない。


夜明けと共に、蒙成国へ進軍する。

私自身が先頭に立ち、赫連 景を討つ――そして必ず、凌雪を取り戻すのだ。






次の日の朝―――


東の空がかすかに白み始めた。

この日は鳳関(ほうぜき)の会談予定の一日前。


夜の冷気を残した空気の中、軍営の太鼓が鳴り響いた。


低く重いその響きは、大地を震わせるように広がり、眠っていた兵の血を呼び覚ます。

私は高台に立ち、整列した数万の軍勢を見下ろした。



無数の槍先が朝日に反射して光り、旗印は風を受けてうねる波のように揺れている。

その一つひとつが、天黎のために命を懸ける覚悟の証だ。



「殿下、ご命令を――!!!」


凌孟昊(りょうもうこう)が、馬上からこちらに向かって声の限り叫ぶ。

彼の声には緊張と、しかし決して揺るがぬ忠義が滲んでいた。



私はそれに頷き、すでに認めておいた文を取り出す。

それは寧王へと届けられるはずの軍令だ。


南からの挟撃に備え、彼の兵を清栄門(せいえいもん)より南下させる。



―――今や蒙成の虚、凰影門(おうえいもん)を突くために…




寧王李璿(ねいおうりせん)…兄は信じているぞ!」





そう言い切る声は、己への誓いでもあった。

私は軍図の上で手を広げ、力強く指示を下す。





「第一陣、槍兵前へ! 第二陣、弓兵構え! 鼓手は鳴らせ!」




その瞬間、軍営全体が揺れた。





兵たちが一斉に声を上げ地を蹴り、進軍の波が前へと押し寄せ始める。

鉄の匂いと汗の匂いが混じり、旗は空を裂き馬蹄が轟音を響かせた。



私は愛馬玄風(げんぷう)に跨がり、剣を高く掲げる。


その刃に映る朝日が眩しく光り、兵士たちの歓声がさらに高まった。





「皆の者進軍せよ!赫連 景を討ち、天黎を護るのだ!!」




その叫びは嵐のように響き渡り、軍勢が大地を揺るがしながら前進していく。



だが私の胸の奥には、ただ一つの願いがあった。




――凌雪。どうか、無事でいて欲しい…と。








戦鼓が轟き渡る。





―――――凰影門をめぐる攻防戦が、ついに始まったのだ。






矢の雨が空を覆い、黒雲のごとき勢いで降り注ぐ。



兵たちの盾に突き刺さり、土煙があがり血が飛び散る。



剣と槍がぶつかり合うたび火花が散り、地鳴りのような怒号が戦場を震わせた。



私は高台に立ち、剣を掲げて声を張る。



「退くな! 天黎の旗を見よ! 我らが立つは父帝の城下、退けば民が泣く!」




その時、東の地平に赤い旗が翻った。

烈火を思わせる紋章…景国軍だ。



蕭烈微(しょうれつび)…!」


馬を駆る蕭烈微は、景国の精鋭を率いて嵐のごとく敵陣へ雪崩れ込んでいく。


鋭い突撃で蒙成に亀裂を入れると、まるで嵐が一気に広がるかのように敵の布陣が乱れ始めた。



その衝撃を好機と見た私は、凌孟昊へ目を向ける。



「凌孟昊!!今だ!」



「御意!」


凛然とした声を響かせた凌孟昊は、先頭に立ち大槍を振るい中央突破を図る。


血潮を浴びながらも突進するその姿は、まさに戦神の様だ。


彼に続いた天黎の兵たちが、咆哮を上げて蒙成軍を押し返し始めた。








そこへ清栄門の方角から、兵たちの鬨の声が響き始める。





「皇太子殿下! 寧王軍です!」


私の側にいる韓昭が、咄嗟に声を上げた。







天黎の緑龍旗を掲げ、寧王李璿の軍が側面から突撃してくる。


蒙成軍は三方から挟撃され、さすがに赫連 景の軍も動揺を隠せないようだ。

敵の本陣がざわつき、赫連 景の怒号が戦場に響いている。


「愚か者ども、怯むな! 寧王を討ち取れ!討ち取るのだ―――!!」


だが、その声にも兵の動きは鈍り始めていた。



その時だ。


伝令が血に塗れた姿で、駆け寄ってきた。


「皇太子殿下! 寧王殿下より急報でございます!」


私は巻物を受け取り、急いでそれを広げ見る。

そこに記されていたのは、急ぎ震えるような文字だ。



―――正妃凌雪の居所、我が細作・魅影が突き止めたり。すぐに救出に向かう。必ずや無事に。李璿。



思わず息を呑み、握りしめた拳が震えた。




凌雪…



彼女が生きている―――



しかも今、寧王によって救い出されようとしているのだ――。



――――私の胸の奥で、覚悟が決まった。



「よし…!!」


この剣を握り締め、私は全軍へ声を張り上げる。


「寧王が我が天黎にしかと応じた!! この戦、必ず勝ち抜き、蒙成を討つのだ!!」


兵たちの鬨の声が、雷鳴のように空を震わせた。


ここから見える赫連 景の顔が城門壁の上に見える。


憤怒に歪んだその表情は、まるで追い詰められた獣のようだ。

戦の趨勢(すうせい)は、いま大きく傾き始めていた。




三方からの猛攻に、蒙成軍は確実に崩れ始めている。



東では景国の赤旗が炎のごとく揺れ、寧王の緑龍天黎旗が北から突き刺さった。


中央では凌大将軍が血路を拓き、天黎の兵が勝鬨を上げて突進してゆく。



「絶対に、勝てる…!!」



それを見た私のこの胸には、確かな手応えが芽生えていた。



戦の流れは、我天黎にある。

父帝の城下を護るためのこの戦を、私は必ず勝利に導けるだろう――。






だが、握った剣に力がこもった次の瞬間、ふと心の奥底に黒い影が広がった。



凌雪…。



寧王の文には、彼女が救われようとしていると記されていた。


しかし、それは未だ“救出の途上”でしかない。


赫連 景の手中にある以上、彼は最後の手段として、凌雪を人質に突き出してくるかもしれぬ。



―――もしも…凌雪を…盾に取られたら……。




咄嗟にその考えが、脳裏をよぎった。


勝利が目前にあるというのに、心は安堵ではなく凌雪を失う恐怖で締めつけられる。

兵何十万を得て国の行く末を背負ってもなお、私の心の中で彼女の存在が迷いを生ませた。




――天黎の勝利か、それとも凌雪の命を取るか…



その選択を迫られる未来を、私は恐れていた――――







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