第九話 凌玄珣の妹
花冠祭にて、突然私は、黒装束の刺客に襲われた。
その時何も知らぬ様子で、舞の輪から駆け寄ってきた凌媛羅に
“急用ができたのですぐに皇宮に戻らねばならない”と告げ、従者に凌府まで送らせた。
その後、彼女からすぐに文が来て内容はこうだ。
―――この身に過ちはなかったか、幾度も振り返るも答えは見つからず。
ただ、あの折のまなざしの冷たさに、胸の奥がふと疼きました。
もしや、私の事を御心には、わずらわしきものと思われておいでなのでは、と…
あの時の事を誤解された事も、それを取りなすのも面倒だと思いつつ
母后に”婚姻するのだから”と叱られ、仕方なく韓昭を伴い凌府にやってきた。
「兄上、福丸が元気になってきたわ。お芋もたくさん食べた。」
「本当だ。翁の薬草は抜群だな。」
凌府を訪れると、門からすぐ目に着く庭先の池の淵で、
媛羅の兄と妹が、犬とじゃれているのが目に入る。
「兄上が‘翁‘と言っていたけれど、あまりにも若くてびっくりしたわ。」
「翁並みに腕があるっていう意味で、そう呼ばれているらしいぞ。」
「ふうん。」
「おまけに美男子だ。」
「そんなことまで、ご存知だったの?」
「お祖母さまの鍼を打ちに、たまに府に来ているのを見るからな。」
「それも初耳だったわ。」
「全く。お前は本当に食べ物と動物にしか、興味がないのだな。」
兄はそう言って笑うと中指の背で、妹の鼻筋をすっと撫でた。
「そう言えばもうすぐ蕙選だが、準備はしているのか?」
蕙選…そろそろその季節だと、私自身もすっかり忘れていた。
高貴な家の娘たちが、将来の妃・才女の素養を試される試験が今年も始まる。
「今年は、いい。」
「何を言っているのだ。そう言って去年も逃げただろ。」
「……」
「父上も心配しているのだ。媛羅はとっくに通過したのに雪児はまだ…」
「別にいいの。」
「え?」
「だって、私は皇室とか他の偉い人に、嫁ぎたくないし。」
「そういう問題じゃあ…」
「ずっとここにいるわ。嫁がずに。」
「それはある意味困る。」
「兄上の側で、これからもお世話をしてあげる。」
妹がそう言い、兄と笑いあっているのをじっと見ていると
玄洵がふとこちらに気づき、慌てて立ち上がって私の方に向かって一礼した。
すると妹の方も立ち上がり、礼もせず何やらこちらを、じっと見ている。
よく見れば春冠祭の時、糸が絡まったあの娘ではないか。
――あれは凌家の下の妹だったのか…
その妹は、玄洵に何かを話すと驚いた顔をして、慌てて深く頭を下げた。
その後玄洵は、ゆっくりとこちらに近づいてくるが、
妹の方は犬を抱き、屋敷の中に逃げるように入ってしまう。
「殿下、今日は父に御用ですか?」
「いや、凌媛羅に渡したいものがあって。」
「媛羅に?」
「この間の花冠祭の時、一人で帰らせてしまい母上が謝ってこいと。」
そう言って苦笑いをしたら、玄洵は、安堵したような顔をした。
「こちらも雪がご迷惑を…」
「雪?」
「あ、先ほどの下の妹でございます。
あの時は驚いて何もお話しできず、こちらこそ大変失礼をいたしました。」
「彼女に怪我はなかったか?」
「はい。おかげさまで。驚いてはいましたが、こちらは何事もなく。」
「そうか。それは安心した。」
「それと殿下の事を、韓昭と私の友だと思っていたようです…
ですので、ご無礼をお許しください。」
「いや…それは構わぬが。」
「では、殿下こちらへどうぞ。」
それから玄洵に変わり、案内に来た侍従に正殿に通される。
おとなしく椅子に腰かけて待っていると、媛羅が浮かない顔で歩いてきて、私に深く一礼した。
あの時仕方のない危険な事情があったこと。
そしてどうしても皇宮に帰らなければならなかったことを、再度説明し、
母上に言われた通りに、翡翠の花飾りがついた簪を彼女に手渡し「花飾りが似合いそうだ」と、そう言った。
媛羅はそれを見て、少しだけ目を輝かせたが、
”兄と妹が、先ほど庭先で犬とじゃれていた”と話したら、途端にまた暗い顔になる。
「妹と会っていたのですね…」と軽く目を伏せ、ため息をついた。
本当に女心はよくわからない。
遠回しに言わずに、思った事をはっきりと言えばよいのに。
一体何がそんなに不満なのだ。
でもそれを母上の言うように、また取りなす気にもなれず…
“次に会う流水の宴で会えることを、楽しみにしている”とだけ告げ、すぐにその場を後にした。
「韓昭。」
「はい。」
「女は、こうも面倒くさく、胸の内も全くわからぬものなのか。
母上が言うように、こうやって毎度機嫌を取らねばならぬなら、この先考え物だ。」
「え…私には何とも。」
困った顔をしている韓昭にため息をつき、正殿から出ようと一歩踏み出したら
左手の方の部屋から、凌兄妹らしき楽しそうな話声が、聞こえてきた。
思わず立ち止まって、その声がする方に耳を澄ませる。
「このお魚は、兄上にあげますね。おいしいですから。」
どうやら、昼餉を二人で取っているようだ。
「好きなら、雪児が先に食べなさい。」
「私はいいの。兄上に海老も殻をむいてあげますね?その方が食べやすいので。」
「水は、私が注ごう。」
二人だけで食べているのか?先ほど会った媛羅は、どうやら一緒ではないようだ。
「姉上は、どうして私を嫌うのでしょう。」
「嫌っていないさ。ただ今回の事は、誤解しているだけだよ。」
「皇太子殿下に会ったのは本当に偶然で、私はさっきお顔を知ったのです。」
もしかして、春冠祭で偶然出会った事を凌媛羅に文句でも言われたのか?
「驚いたな。お前が咄嗟に殿下の事を“兄上の友達か”と聞くから
何か起きやしないかと、ひやりとしたぞ。」
「兄上はいつも、私が何かをしでかすと言う。」
そう言って二人の笑い声が聞こえてくる。
「皇太子殿下は、素敵な方ですね?」
そう凌家の妹が言ったとき、韓昭が私を見てふっと笑った。
それを見ないふりをし、再び耳を澄ませる。
「お前でも、そう思うのか?」
「でもは、余計です。」
「いや、普段はあまりそう言う事を言わないから。」
「新しい我が家のお兄様ですよ?姉上には幸せになってもらいたいし。」
「そうだな…」
「大丈夫です。新しいお兄様より、私は兄上の方が好きですから。」
「別に私は、そんなことを気にして言っていないよ。殿下にも、海老を剥けばよい。」
「なんですか、それは。」
楽しそうに笑いあい、冗談を言い…
玄洵と妹雪の声は、お互いを思いやり、本当に仲が良さそうに聞こえた。
――新しい兄…か。
「殿下?」
ぼんやりとしていたら、隣にいる韓昭が私を再び呼ぶ。
「韓昭、兄と妹とはこうも仲睦まじいものなのか…」
私にも妹と弟がいる。
妹は母后の娘で血のつながりこそあるものの、最近ではほとんど口も聞いていない。
弟は、父の側室の子で寧王李璿。
表向きは穏やかだが、目の奥の静かな敵対心に
なぜか幼き頃から、心を許すことができず。
あのように仲良く一緒に遊んだ記憶もあまりない。
同じ兄弟と言うのに、こうも違うのだろうか。
私は小さく首を横に振ると、ため息をついて一歩を踏み出そうとした。
「兄上、今朝寧王殿下との縁談を、叔父上に勧められました…」
――寧王?
その名前が出て また足が止まる。
「それはダメだ。父上が許すはずがない。」
「私もそう思うのですが、寧王殿下からの申し出で叔父上が断れないと。
朝早く父上に相談に来られたのです…」
妹の口から意外な名前が出て動けなくなる。
「煊王殿下?」
韓昭が心配してもう一度私の顔を横から覗き込んだ。
「皇后さまにお茶会へと招かれ、母上と共に伺いました。
最初は淑女ばかりで、和やかでしたが…急に側室の蘇綺様がいらっしゃって…」
「何を言われたのだ?」
「お慕いしている方は、いるのかとか。
姉上が嫁いでくるから、皇室は遠慮することのない場所だとか…父上と一度お会いしたいとも。」
それを聞いて、頭の中に疑問がわいた。
なぜ李璿が、凌家と繋がりを持とうとするのか。
それを蘇綺貴人が、画策するはずはない。
なぜ凌孟昊と会おうとする。
娘雪は嫡子だ。
そうなれば李璿に、孟昊と共に後に謀反の疑いが、かけられなくはないとも言えない。
貴人も寧王も、そこまで馬鹿ではないはずだ…
義弟の考えていることが、やはり全く理解できない。
――私がもし彼の立場ならどうするだろうか…。
二人の会話に、踵を返したい気持ちをぐっと抑え
隣にいた韓昭に”行くぞ”と伝えると、私はそのまま凌府を後にした。
その後、足早に凌府を出ると、韓昭と帰りの馬車に乗り込む。
先ほど聞こえて来た凌家の兄妹の話が 頭の中をぐるぐると駆け巡った。
「韓昭。」
「はい。」
韓昭は、私に小さく頭を下げ返事をする。
「李璿は、なぜ凌府と姻戚になろうとするのだろうか。」
「私も驚きました。
寧王殿下の婚姻話は、この所、熱心に進められては、いるようでしたが。」
「そうなのか?」
「はい。蘇綺貴人が良家の女子を抜粋し、丁寧に選んでいるとは聞いておりました。」
「…」
「しかし、貴人は確か武人が苦手で、凌大将軍の事は、あまり好んではいないと、耳にしております。」
「それは私も同じだ。ましてや兵符の事など母后より詳しいはず。なら、どうして…」
「寧王殿下が玄洵の妹を娶りたい理由ですか…」
寧王が動くなら、その背後に蘇綺貴人や慶淵王の意図が必ずあるはずだ。
それが何かはまだわからない。
側の韓昭は、拳を顎に当てながら真剣に考えているが…
妹雪は叔父が相談に来ていたと言っていた。
凌孟昊の弟は、あの凌孟巍で中書令(宰相格・中書省の長。政策の草案作成を担う)だ。
凌孟巍が慌てて相談に来た…
凌孟巍は頭が切れるし、寧王側には自分が反目している大臣韓清之が付いているとわかっている。
それなのに寧王と凌家を結ぶなど、絶対にありえない。
韓清之も凌孟巍と同じく、事の重大さはわかっているはず。
これは、一度凌孟昊と話をせねば…
その時、ずっと考え込んでいた韓昭が、突然私に思いもよらぬことを言った。
「玄洵の妹、殿下の事“素敵だ”って言っていましたね。」
その言葉に思わず動揺する。
今の話の流れで、全く関係のない事だ。
「何を言っているのだ。」
「いえ、あまり人に興味を持たれない殿下が
珍しく春冠祭の時、あの娘にはお優しかったなと。」
「優しい?別に、ほとんど話してもいないが??」
「え?遠くからでもわかりましたよ?こうやって花とか取ってあげたりして。」
そう言って韓昭は私のこめかみ当たりの髪を指先で触ろうとした。
「無礼な!花がついていたら、取るだろう。自然なことだ。」
思わずその手を払う。
「ご自身も、取ってもらっておられましたよね。」
「こちらが取ってやったから、向こうにも取らせたのだ。」
「でも自然な事だとおっしゃるなら媛羅さんにも、そのように接してあげればよいのでは?」
「あれはもうよい!これ以上母上の言いなりになっていたら、今後私は、従者のようにならねばならぬ。」
そう言って腕を組み、思わず韓昭から背を向ける。
馬車の窓の掛布が、風にはらりと揺れ、その時小さな桜の花びらが何枚か舞い込んできた。
その一枚が袍の膝の上に落ち、それを指先でつまんでみる。
それを見て、玄洵の妹の頭に着いた花びらに、思わず手を伸ばした事をぼんやりと思い出していた。
気が付くと韓昭がにやにやと笑いながら、こちらをじっと見ている。
「おまえにやる。」
そう言って私はその花びらを、慌てて彼の方に指先で放った。
ふざけて怒ったように見せたが、胸の奥では、あの一瞬が何度もよみがえっている。
香り、柔らかな声、瞳――そのすべてが、今も確かに残っていた。
それは…凌媛羅と向き合う時には、決して感じることのない、心のざわめきだった。