第八十五話 皇太子の心痛
私は戦況が思わしくないため、自ら最前線の軍営に出向むいた。
卓上の地図には、刻一刻と変わる状況を示す木札が置かれていく。
矢羽根の影が地図の上を横切るたび、指揮官たちの手が緊張でわずかに震えた。
もうすでに指揮を執っているだけでは、間に合わぬ状況になってしまっている。
ここまでくれば、寧王の一刻も早い説得が必要だ…
生暖かい風が、血と鉄の匂いを運んでくる。
天幕の外では声が途切れることなく響き、太鼓の低い音が地を震わせていた。
松明の炎が、緊張に固まった兵たちの顔を照らす。
その時だった。
伝令が駆け込んできて、汗と泥にまみれた顔で膝をつき、急を告げる。
「殿下!急ぎ皇宮からです!」
「何事だ…」
「寧王正妃凌雪!地下牢から脱獄したと!!」
「何?!なぜだ?!一人では…」
逃げる事などできないはず。
「蕭烈微です!」
「何…!?」
「妃殿下が、牢を破り正妃の脱獄を手伝ったと!!」
私は、思わず両手を強く握りしめる。
蕭烈微が、凌雪を脱獄させた??
「殿下にこれをと、侍女に渡しておりました!」
そう言って伝令は私に一通の文を手渡し、頭を下げた。
それを引き取るようにして、私は手に取りすぐに封を開ける。
―――皇太子殿下へ
臣・蕭烈微、これまで賜りしご恩に報いんがため、我が景国の軍勢を自ら率いる為に、一時景国へ戻る所存にございます。
東より蒙成を討つ策、必ずや成し遂げてご覧に入れます。
ただ一つ、心残りがございます。
それは、寧王妃・凌雪殿の御身。
寧王が敵国と通じた以上、その命はまさしく風前の灯火。見過ごすこと、臣には叶いませぬ。
この命を賭してでも必ずお守りいたしますゆえ、どうかお任せくださいますよう、切にお願い申し上げます。
不躾なる申し出、伏してお詫び申し上げます。
蕭烈微 謹言
―――「…蕭烈微め…」
私は文を握りつぶすと、卓上に勢いよく放った。
蕭烈微!
凌雪を…まさか本当に、景国へ連れて行ったのか?!
凌雪は身重だ…なのに、この戦乱の最中慶淵王に連れ去られ、今度は蕭烈微に!
地下牢に入れておけば、誰の目にも触れられず安心して過ごせると思っていたのに…
私は急いで密偵に、凌雪の場所を探させた。
それから、寧王にも急いで文を書く。
ずっと、伝えるかどうか迷っていた。
蒙成に寝返り、敵対してしまった弟の“私への文”への返事――
私と凌雪への恨み言はただ一つもなく、ただ凌雪を守って欲しいと…
その文から、李璿は死を覚悟している様子が伺える。
慶淵王李昶を父だと思うが故の暴挙…
寧王は…子供の頃から、情が深くとても優しい弟だった。
誰よりもまじめで勤勉で…
しかしその優しさが弱さでもあった。
―――今回もそうだ。
その情の深さのせいで、慶淵王を突っぱねる事が出来なかったのだ。
こんなことが起きると思っていたから、私はあえて彼に優しく接してこなかった。
例え兄弟であっても、決して心を許してはいけないと教えたかったからだ。
剣の勝負でも、弟だからとわざと負けるなど、決してしなかった。
そのたびに落ち込んで、映月亭で泣いていたのを知っている。
私は声を掛けなかったが、東宮の窓からいつも気にかけていたのだ。
そしてその後必ず、「遠慮せずに負かしてよい」と教えていたけれど…
それがこんな形で…
今ではない…李璿…兄を負かしてよいのは、天黎を守ってからだ。
私は急いで、寧王へ文を書く為筆を執る。
――寧王・李璿へ
此度の暴挙、兄として到底看過できず、また父の御子としての信義に背くこと、まこと許しがたい。
そなたが父帝の御子にあらずと申す妄言には、ただ憤りを覚えるのみ。
寧王・李璿は、まぎれもなく皇帝陛下・李乾徳の第二皇子にして、皇太子煊王・李煌の実弟である。これを裏付ける証は、父帝ただお一人が知るところにあり故に側妃蘇綺瑛は今に至る。
そなたの正妃・凌雪は、蕭烈微の手により景国へ拉致され、もはや私ひとりの力では守り切れぬ恐れがある。
どうかここで一度冷静になり、兄弟の契りにかけて、我らが天黎とその民のため、力を合わせようではないか。
そもそも蕭烈微は、かねてより凌雪を慕っており、この所業もまた計画的なものと見える。
彼女はいま身重であり、これは一刻を争う事態だ。
至急、返答を望む。
それを心より願う。
―――皇太子・煊王 李煌
私は、この手紙に太子爾を押して伝令に持たせた。
頼む寧王…
後は、寧王がこの手紙を読んで、すぐに流れが変わることを祈るのみだ。
私は高台で戦場を見下ろしながら、もうすぐ夏を告げる風に頬を打たれた。
地平線の向こうに翻る、あの旗が寧王の軍旗だ。
兄弟であるはずのその旗が、敵としてこちらに向かってくる現実。胸の奥に刺さるのは怒りか、悲しみか自分でもわからない。
凌大将軍が辺境軍を抑えきれず崩れれば、次の矛先は間違いなく私だ。
そして寧王が突破して景都に進軍すれば、ここでの決着は避けられない。
…いや、決着という言葉は甘い。兄弟の首を刎ねるか、刎ねられるかだ。
寧王を討つ――それは皇太子としての命であり、天黎を守るための義務。
だが私の中には、まだ諦め切れぬ一縷の望みがある。
あの人間らしい笑みを浮かべた寧王を、この手で討たずに済む道はないのか…それを探す時間も、もうほとんど残されていない。
「殿下…」
「なんだ」
その時韓昭が、静かに側に来て耳打ちした。
「殿下…大変です。密偵からの報せで、蕭烈微に連れ去られた寧王正妃の居場所を見つけたそうなのですが」
「そうか。良かった…直ちに連れ戻さねば命が危ない。凌雪は身重なのだ」
「それが…寧王妃も側妃もそちらにはいらっしゃらなかったと」
「何?!一体どういうことだ…」
私は、韓昭のその言葉に耳を疑った。
「そこにいた景国の者によると、見張りの最中に酒を飲み寝込んでしまい、その間に寧王妃たちが逃げたそうです」
「場所は景国なのか?!」
「それが…景都の外れだったようで。もしかしたら王妃は側妃たちも一緒だったので皇宮に戻ろうとしているのかもしれません」
「側妃もという事は、そこには韓碧心もいたのか?」
「はい。韓碧心とその侍女、それから蘇璃もいたそうです」
「もしや…」
「殿下…」
「韓碧心がいるのなら、蒙成国へ向かってないだろうか」
「それはあり得ません。蒙成国へ行くには馬車がないと。景都からだと馬車でも三日はかかります」
しかし…凌雪は兎も角、韓碧心は寧王の側妃だとしてこちらへ戻れば危険だと考えているはず…
蕭烈微!!余計な事をしてくれた。これでは凌雪を救うどころか危険にさらしてしまう!
「何があっても、凌雪を探すのだ!」
凌雪…頼む無事でいてくれ。
なぜ、身重の体でそのような…
恐らく蕭烈微も報せを受け、彼女を探しているだろう。必ずや蕭烈微より先に見つけなければ――――




