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第八十一話 凌雪の裏切り

私の元に沈嶺(しんれい)が、大層慌てた様子で報告に来た。


「皇太子殿下!ご報告がございます!!」


「なんだ。一体どうしたのだ」


「先ほど、陛下の極秘の暗殺部隊での任務が、無事成功したとの知らせが入りました」


「何?!それは本当か!?」


「はい。…慶淵王殿下をずっと探索していた部隊が、蒙成との国境近くで始末したと」


叔父の暗殺の(しら)せを聞き、張り詰めていた糸が切れるような脱力を感じる。


―――憂いていた対立に、終止符が打たれた瞬間だった。


しかし、同時に身内を失った寂しさが、ひっそりと胸に広がっていくのを感じないわけではない…。


「叔父上…」


ご自身で抱いた愚かな野望の為に…その命尽きる事になろうとは…

私は…


何と言ってよいのか…。


「しかし、ご一緒におられたのは寧王妃でした」


「一体何を言っているのだ。凌雪なら王府に…」


慶淵王李昶(けいぶちおうりちょう)が、寧王妃を人質に王府から連れ去ったそうです。王妃は腕に重症の矢傷を負われ典薬寮(てんやくりょう)にて今治療をされておられ…」


私は、その沈嶺の報告を最後まで聞くことはできなかった。

耳に届いたのは――≪矢傷≫≪重傷≫という言葉だけ…


その声は遠い雷鳴のようにかすれ、頭の中には“凌雪が傷を負った“という事実だけがこだましている。


気づけば私は、典薬寮へ駆け出していた。

背後で沈嶺が何かを叫んでいたが、もう何も耳には届かない。

胸を打つ鼓動に合わせ、私の全身が不安に包まれたように感じる。


―――凌雪が…矢傷を負った?


それが現実となれば、平静など保てるはずもない。

胸の内は乱れ、一刻も早くその安否を確かめたい焦燥が全身を突き動かす。


私は息を切らし、典薬寮の扉を乱暴に開けそこにいたものの目を丸くさせた。



「どこにいるのだ!凌雪!!」


そこには、ただ…彼女の無事だけを祈る私だけがいた――



腹に子もいるのに…一体何が起きたと言うのだ。なぜそのような場所に慶淵王と…

寧王はこの事を、知っているのか?!


「凌雪!」


私は典薬寮に駆け込むと、人目もはばからずその名を呼び彼女を探した。

すると衝立(ついたて)の向こうで、”王妃は衣を脱いで治療している”と侍女たちに止められる。


私は苛立ちながら、そこから侍医に声を掛けた。


すると少しして、ゆっくりとした足取りで侍医が出て来て小さな咳払いを一つする。


「殿下…お静かになさってください…」

「寧王妃は!」


そう叫んだ時だ。

その後から、血だらけの衣を着た凌雪が、青白い顔を見せて小さく私に頭を下げた。



「凌雪…皆下がれ!下がるのだ」


私の声に、そこにいた皆がそそくさと部屋を出て、私は彼女と二人だけになった。


一体何が起きたと言うのか。


その姿にあまりにも動揺し、思わず彼女を抱きしめそうになる。


その白い衣は無残にも彼女の赤い血で染まっていた。私は思わず、その血まみれの衣を凝視する

一体、誰がこのようなことを。―――


怒りが全身を駆け巡り、胸の奥で煮えくり返る。


だが、それよりも何よりも、ただ凌雪が無事でここにいる事に安堵した。狼狽した私は、無意識に、今すぐこの腕で彼女を抱きしめ、守ってやりたいその一心で手を伸ばしてしまう。


すると、この手が触れたその腕を、彼女は大層痛がった。


「…っ…」


「凌雪…大丈夫なのか…一体何があったのだ!」


「私は…大丈夫ですから…」


「寧王は!?このことを知っているのか?!今、どこにいる!?」


「…はい…おそらく先ほど軍営に知らせを…もうすぐ皇宮にお見えになるかと…」


「なぜ、このような事が起きたのだ…」


私は心配のあまり、この震える手を凌雪の頬にそっと添えた。

指先が触れた肌は、いつもの温かさではなく、冷たい陶器のようだ。


怯えに青ざめたその唇。

閉じられた瞼の下には、疲れが色濃く浮かんでいる。艶やかだったはずの髪は乱れ、彼女の痛々しい姿をさらに際立たせていた。


私はその髪を慈しむように、壊れ物を扱うように、指先でそっと梳かし、彼女のこめかみの髪を静かに整えた。



「殿下…東宮にお戻りください…私は…」


か細い声で、凌雪はそう言う。

その言葉は、私を気遣う優しさでありながら、なぜか遠ざけようとする拒絶のようにも聞こえた。


「一体どうすればよいのだ…次から次へとお前に厄災が降りかかり、それをどうしてやることもできない…。己の非力が悔やまれてならぬ…」


私は、その頬に添えた手を力なく落とした。


守ると誓ったはずの彼女が、幾度となく傷つく姿を目の当たりにし、今はもう、ただ見ていることしかできない。この無力感は、剣で斬りつけられるよりも深く、私の心を苛む。


私は一体彼女に何をしてやれるのか…


「私は…大丈夫ですから…早く東宮へ…お願いですから…」


「凌雪…」


それに力なく答えることしかできない。

そしてその姿は、いつしか私の手をそっと離れていた。


「私は、寧王府に戻ります」


彼女は私の方を見ることもなく、ただ一度、力なく頭を下げる。


その姿はまるで、私から遠ざかろうとする陽炎のようだった。


ふらふらと部屋を出て行く凌雪の後ろ姿を、私はただ茫然と見送ることしかできない。

やがて扉が静かに閉まり、一人取り残された私は、側にあった卓に手をついて項垂れた。


一体、彼女に何が起きているのだ。


沈嶺の報告では、凌雪は慶淵王が討たれるところを、その目の前で見ていたという。

慶淵王の人質として、寧王府の者たちが数人拉致されたという報せも、私の心を重く締め付けた。


傷ついたのは、腕の矢傷だけではない。


彼女の心にも、深い爪痕が刻まれているのだ。

けれど私は…その傷に触れることさえ許されないでいる。





しかしそばに居ながら寧王が、このような事に“何一つ気づかぬ”などおかしいではないか!

一体何をしているのだ!


…身重の凌雪をあのような目に遭わせて―――



すると私を追いかけて来た沈嶺から、思わぬ情報が入って来た。


「殿下。寧王妃は慶淵王と手を組んでいたのではないでしょうか…」


「一体何を言っているのだ…凌雪は自らも、あのような矢傷を負っているではないか…」


「あれは…陛下の部隊が放った矢でございます。現場の報告では、慶淵王を庇い矢を受けたと」


「咄嗟に矢が飛んできて、よけきれなかったのであろう。寧王は景都にいるのに、なぜ凌雪があのような場所にいるのだ。連れ去られた意外の何ものでもないではないか?!」


「韓碧心も、二人の侍女もおりません」


「……」


「韓碧心は、韓清之の娘。もしや蒙成国へ逃亡したのでは?その時寧王妃も一緒に…」


「……」


「殿下。寧王、寧王妃、共にお調べになる必要がございます」


沈嶺の言葉に、私は咄嗟に顔を上げる。


彼の、こちらを真っ直ぐに見て答えるその声には、一切の躊躇いがない。

だが、私は即座にその言葉を遮った。


「馬鹿な事を言うな!」


私の怒気をはらんだ声に、沈嶺は怯むことなく再び強く訴えかける。


「殿下!しかし、寧王妃の行動を寧王殿下が把握していないはずがございません!

王妃が(さら)われた事態に幾日も気づかず、軍営で指揮をとられていたのは不自然です!寧王妃を直ちに取り調べください!!」



「そのような事は…決してない。私は二人を信じる」


「……」


信じるに足る理由など、おそらくなかったのかもしれない。

だが、私にとって、理屈などどうでもよかった。何より、あの凌雪がそのようなことをするはずがないと、そう信じていたからだ。


実父である凌孟昊(りょうもうこう)。そして、兄の玄洵(げんじゅん)

彼らと共に生きるこの天黎を、凌雪が裏切る理由がどこにあるというのか。




――――それから二日後…早朝に蒙成国が奇襲をかけて来た。


その日、いよいよ決戦の火蓋は幕を開ける。

この戦には、決して負ける事などできない―――


慶淵王亡き今、もはや勝利は目に見えていた。



蒙成に、絶対に負けるわけにはいかない。

必ずや勝ち、そして蕭烈月(しょうれつき)を取り戻し、全てを元に戻すのだ。



そしてこの天黎の平和を、民の為に…

私はそう決意を固め、戦に挑む。

私が信じて来た者すべてを守るために。




―――蒙成の奇襲は、夜明け前の闇を切り裂く轟音と共に始まった。

私は、大将軍・凌孟昊と共に景都の中央に備えられた高台から、前方の戦場を見下ろしていた。


「殿下、ご指示を」


冷静な声が隣から響く。


凌孟昊は、この嵐のような状況の中にあっても、揺るぎない岩のように泰然としている。


その姿は、幾度となく大戦を潜り抜けて来た余裕だろう。


私は彼を信じ、そして自分もまた“天黎の命運を背負う者”として、毅然と指揮を執った。


「第一陣は寧王の軍に凰影門(おうえいもん)から攻めさせよ!その間に、我らはこのまま東から、蒙成の中央突破を景国と図る!!」


私の声が、兵士たちの士気を奮い立たせる。

凌孟昊はそれに無言で頷き、瞬く間に指示を伝令に託した。


伝令兵は馬に乗り、風のように戦場を駆けていく。その一連の動作には、一切の迷いがない。

全て順調だ。作戦の通りに面白いように事が動いていく。


きっと、勝利を手にするのは我々の天黎だろうと確信したその時…


一人の兵士が血相を変え、私と凌孟昊の元へ駆け寄ってきた。

その顔は青ざめ、今にも倒れそうな形相だ。


「殿下!大変でございます…!」


――その切羽詰まった声に、嫌な予感が胸を過る。


勝利を控えたこの状況で、一体何が起きたというのか。


「南の凰影門の寧王軍が…南門を封鎖するどころか、我らの中央軍へ向かい、今、景都を目指して進軍を始めております…」


その言葉を聞いた瞬間、私の全身から血の気が引いていくのがわかった。


「…馬鹿な。寧王殿下が?」


凌孟昊が、静かに…しかし鋭い声で呟く。


私もまた、その言葉を信じることができなかった。


「寧王が、裏切ったと言うのか…!?」


私と凌孟昊は、互いに顔を見合わせた。

信じたくない。信じられるはずがない――


しかし、その兵士の震える声と、絶望に満ちた瞳が、それが紛れもない事実であることを突きつけている。


―――裏切り…?その文字が、私の頭の中を駆け巡った。


先ほどまで私は寧王と、互いの健闘を祈りながら、固い信頼の言葉を交わしていたのだ。


この戦を共に勝利で飾ろうと誓い、彼は南の凰影門の守りを、私は中央の指揮を執るはずだった。


その時の彼の眼差しに、私としたことが一片の曇りも見抜く事ができず…。

信じていたものが、音を立てて崩れ落ちていくのが聞こえる。


それは、ただの裏切りではない。寧王の裏切りは、私の心を支えていた根幹そのものを、深く、えぐり取るような絶望だ。


なぜだ……なぜ、ここにきてそのようなことを。



血の気が引いた顔で、私はただ、その言葉を何度も考える。


目の前に広がる戦場が、一瞬にして敵と味方の区別がつかない混沌へと変わっていくようだ。

絶望に打ちひしがれる私を見て、凌孟昊は思わぬことを口にする。


「殿下…」


「なんだ…」


「雪児を…」


「……」


「娘を人質にして下さい。今なら寧王府にいるはずでございます」


「何?」


「先日の慶淵王殿下の暗殺の際、一緒にいたのは攫われたのではないように思えます。おそらく…寧王殿下は凌雪を蒙成に逃がすおつもりだったのかと…」


「……」


「我が娘の裏切り、決して許せるものではありません。本来なら私も同罪。ですが今はこの戦況をなんとかせねばなりません」


凌雪が…裏切り?


「私も最近、娘とあまり接しておらず、全く気が付きませんでした。

灯台下暗しと言いますが、まさに不徳の致すところでございます」


凌孟公は、目を真っ赤に潤ませて私に深々と頭を下げた。


「それは…」


「必要であれば、雪児の命を…そして寧王を説得してくださいませ。

そうでなければこの戦…」


「負けると申すのか」



「そうでなければ、我らは…この戦で致命的な敗北を喫するでしょう」


「……」



「殿下!ご決断を!!」


「ならぬ!凌雪の命を駒に使うなど!」


「今はそれしかないのです!寧王殿下の軍が凰影門からこちらに向かえば、私は辺境にかまっていられなくなるのです!私の軍を中央に動かせば、蒋玄庭の軍がこちらに!そうなれば景都が攻め落とされてしまいます!」


「……」


「どうかご決断を!娘を捕らえ、すぐに戦場にいる寧王殿下の元へ伝令を!!」


凌孟公は、絞り出すような声で私に頭を下げる。


彼の言葉が、私の耳から離れない。

その悲痛な叫びは私の心を深く抉り、その奥底に潜んでいた現実を突きつけた。


凌雪……。

彼女の命と、この国の命運――

そのあまりに残酷な天秤は、私の心を引き裂いていく。


守ると誓ったはずの彼女を、今この手で人質に取らなければならないというのか。


なぜ、このようなことになってしまったのだ…。



凌雪が天黎を裏切る?そのような事が、現実に起こりうるのか?


仮にも大将軍・凌孟昊の娘であり、誰よりも正義感にあふれたあの娘が…


父や兄を裏切ってまで、寧王と共に慶淵王へ寝返った?


―――いや、違う。



先日のあの怯えた瞳、疲れ切った横顔に、偽りはなかった。


ならば、一体凌雪に何が起きていると言うのか。


この胸に彼女の真意を理解できない無力感と、そして凌雪の裏切りともいえる行動が、どうしようもない悔しさとなって広がっていく。


私は、ただその場で立ち尽くすことしかできなかった。


この戦の行く末も、そして凌雪の運命も、私の手から滑り落ちていくようだ。



「殿下!ご決断を!父である私が申し上げるのです!

ただちに凌雪を捉え、寧王殿下に知らしめねば!」


その凌孟昊の言葉に…



私はもう、頷く他はなかった。


皇太子として、私がこの天黎の民の為にできる事は、それ以外にはなかったからだ…。




「わかった…。凌雪を……即刻捕らえよ!!」


その言葉に、凌孟公は私に顔を上げることなく、ただ深く頭を下げ踵を返したのだった。


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