第八十話 慶淵王李昶の最期
朝靄のまだ残る寧王府の庭は、いつもより張り詰めていた。
兵たちが静かに荷を運び、鎧の擦れる音だけが響く。
―――戦の前――そんな空気が、張り詰めていた。
早朝寧王殿下が、鎧姿のまま翡翠居の私の部屋を訪れ、静かに入り口の木枠の扉を閉めた。
私は楽しく蘇璃と鏡の前で身支度をしていたが、彼に気づいてすぐに立ち上がると一礼する。
「そのままで良い」
その声に、蘇璃と目を合わせ静かに腰を下ろした。
「凌雪…既に蒙成国の宣戦布告が行われ、天黎はいつ奇襲を受けてもおかしくない状況にある」
「……」
「天黎も迎え撃つ全ての準備を終え、後は時を待つばかりとなった」
「殿下は…蒙成が攻め入る日をご存知なのですか?」
殿下は恐らく知っていておっしゃられないのだ。
慶淵王殿下側に付かれる以上、この計画が父上に知られてはいけない。
殿下からすれば、私はいつ裏切るとも知れぬ正妃なのだろう。
黙ったまま口を結び、じっとこちらを見つめている。
その目が、微かに揺れていた。
「凌雪……よく聞け」
彼は、すぐそばの卓の上に一枚の地図を広げ、指先で国境沿いの細い道を示した。
「この道をよく覚えておくのだ。今夜、私の密命を受けた者がそなたを迎えに来る。蒙成国まで、馬を替えながら馬車で進めば、三日で着くはずだ。」
「……蒙成、へ?」
「韓碧心と、蒙成へ行くのだ。今日の夜、蘇璃もつれて出立せよ」
「殿下、私はここにおります。私達だけが蒙成国に行ってどうせよと?王府の者達はどうなるのですか?」
「この戦……私は陛下と兄上を裏切ることになる」
「……」
「心決めたものの、そなたの事だけは心残りでどうしても己の決断が鈍ってしまうのだ」
「私は天黎に残ります!」
「ならぬ!!これはそなたと子の命を守るため」
「殿下…」
「もしも…もしもだが、この戦に負ければ私と叔父上の命はない。けれど蒙成の元に身を寄せ亡命すれば、そなたと子の命だけは守れよう」
「そんな…殿下を置いて、私一人で蒙成国になど行けません!」
「私は…何があってもそなたに生きて欲しいのだ…」
「殿下…では…では…どうか陛下のお味方に…」
「凌雪…」
「蒙成がもしも天黎を破ったとして、私には、慶淵王殿下の元に権力が渡るとは思えないのです。そうなれば蒙成側に就いたとしても、殿下のお命もないではありませんか」
「……」
「お願いです…あれから沢山考えました。やはり、陛下をお選びください。なぜ死を覚悟するのですか!!」
「凌雪…」
「この子の顔が見たくないのですか?!」
「……」
「この子は間違いなく殿下のお子です。例え誰がなんと言おうと…皇太子殿下の事で苦しい想いをさせてしまった事…心から何度詫びようとも、消せる過ちではない事はわかっております。でも…慶淵王殿下を思われるお心と同じように、この子にも父を思う心があるのですよ…」
そう言って泣き崩れる私を、寧王殿下は黙って見ていた。
その目に、苦しいほどの憂いを湛えながら…
何がそうさせてしまったのだろうか。
私達は幸せになるはずだった。やっとそのお気持ちに添えるような気がした。
子もでき、この天黎で、その穏やかな道はずっと続いていくのだと…
寧王殿下の目は、死を覚悟されている目だ。
いま、慶淵王殿下は蒙成に盲目になっている。
しかし恐らく政権を奪還した後は、どうなるかわからないだろう…。蒙成国にしてみれば、この戦で壊滅的になった天黎を侵略するのはたやすい事だ。
それに殿下は、既に気づいていらっしゃる。
子供の頃から、父にもよく聞かされていた。
弱った国は、攻め落とされて終わりだと――――
すると、やはりどちらにしても殿下のお命は…
「私は…そなたと子が助かってくれれば、他には何も望まないのだ」
殿下のその言葉に私は絶望し、そして胸から取り出した繍帕でそっと涙を拭った。
その繍帕は、蕭烈微が施した見事な牡丹の花の繍帕だ。
ふと思い出す蕭烈微…あの者も、戦の後どうなってしまうのだろうか。
きっとただではすまされまい…
それからその日の夜遅く―――
私は、韓碧心とその侍女と蘇璃とで、殿下が用意した護衛の者を連れ寧王府を後にする。
しんと静まり返った王府を見渡せば、そこには、様々な人々の笑顔があちこちに散らばっていた。
ここに嫁ぎ、右も左もわからないままで、いつの間にかここが”私の場所“になっていた。
私の人生は一体どうなってしまうのだろうか…
そんな事を何度も考えながら、私達を乗せた馬車は、蒙成へ続く道をひたすら走り続けた。
夜が明けてから二日目の昼―――
ここらで少し休もうという事になり、川辺の水場で馬車を停めたその時だ。
数人の黒装束に取り囲まれ、あっという間に韓碧心や蘇璃たちと引き離されてしまう。
私は、そのうちの三人の男に目隠しをされ、別の馬車に載せられた。
あまりの恐怖に、声も出ない。
目を覆われている以上、外の様子は全く分からなかった。
誰かに助けを求めようも、届くはずのない声…
私はそっと、お腹を庇うようにして両手で身を包む。
そして、もうここで終わるかもしれない命に、覚悟を決めるしかなかった。
それからしばらくして馬車が停車すると、山の中で突き飛ばされ目隠しを外される。
――――そこでは思わぬ人が、私を待っていた。
「慶淵王殿下…」
「凌雪…久しぶりだな…」
私は咄嗟に立ち上がり一礼しようとする。すると黒装束の男に、両脇から掴まれ、殿下の足元に跪かされた。
「私は…お前には本当に手をやいた」
「……」
「私の計画が、お前のせいで全て水の泡になるところだったのだ」
「……」
「私も心苦しい。お前の命を奪えば、寧王がさぞ悲しむだろうからな?」
「寧王殿下は、ご存知なのですか?」
「知るはずもない。言えば認めるはずがないではないか!
しかし今なら、理由などいくらでも付けられる。蒙成に向かう途中、山賊にでも襲われたとでも何とでも!!」
慶淵王殿下は、声高らかに笑いながら、私の顎を手で持ち上げた。
「こうして見れば、その目実に凌孟昊に似ている」
「……」
「私も心苦しいのだ。我が子寧王の子を宿していると言われる女子を、こうして殺さねばならぬのは…些か迷いもある」
「……」
「しかし、その腹の子は皇太子の子であろう?」
「違います!この子は、寧王殿下のお子です!」
「…蘇綺瑛も、そういっておったな。“陛下のお子でございます”と…」
「……」
「お前には死んでもらう。本当ならもう少し早く始末するはずだったのに寧王が心迷いおって。計画が、凌孟昊に漏れるのではないかと冷や冷やした」
「父には…決して話しておりません!!」
「おおっ、それは…感激だな。意外な事に、お前にも寧王への忠義はあったらしい!」
そう言って高らかに笑いながら、手元に持っていた剣を抜き私に向かって振りあげたその時だ。西の方から数本の矢が飛んできて、慶淵王殿下めがけて飛んでくる。
「慶淵王殿下!!」
私は咄嗟に身を乗り出してそれを庇い、殿下と共に倒れると一本の矢が、私の腕に当たった。
あまりにも痛くて、どうにかなってしまいそう…
気も遠くなりそうだ。
でも…
慶淵王殿下は、寧王殿下の御父上…
私にとっては義父上だ。
「殿下…逃げましょう!早く!!」
「凌雪…」
「急いでください!早くこちらへ!!」
私は、慶淵王殿下にお声を掛けると、矢が当たった腕を抑えながらも、必死で近くの木の陰に二人で隠れた。
「…なぜ…」
「私にもわかりません…彼らは何者なのですか…」
「いや…そうではなくお前はなぜ私を…」
少し潤んだ目で、私を見つめた慶淵王殿下が、何かを言おうとして口を開いたその時。
彼の後ろから、鋭い剣を持った黒装束が二人。
一人がそれを首元に添わせると、もう一人は剣を私に向けた。
「慶淵王李昶だな」
「娘、お前は誰だ!」
私と慶淵王殿下は、怯えながらただ黙ってその二人の黒装束を見つめていた。
すると、側にいた慶淵王殿下が覚悟を決めたように、その名を口にする。
「いかにも。私は慶淵王李昶だ」
「いけません!」
私は恐ろしさのあまり、泣きながら慶淵王殿下に呼び掛けた。
今ここで正体を明かせば、この二人に何をされるかわからないのに…
真っ直ぐに前を見た殿下の顔は、この恐怖の中なぜかとても晴れやかだ。
「この者は、寧王正妃凌雪…」
それを聞いて、二人の黒装束は驚いて顔を見合わせる。
「凌孟昊の娘だ」
「本当ですか!?あなたは寧王妃だと?!」
そのうちの一人に尋ねられるが、何も答えることなく、私は黙って慶淵王殿下を見つめていた。
この二人は…おそらく陛下が遣わせた暗殺部隊だ…
ならば私も…寧王殿下と共に陛下を裏切ったことになる。
「私は…」
もう堪忍して、名乗ろうとしたその時だった。
慶淵王殿下は、側にいる私を突き飛ばすと、高らかに声を出して笑いだす。
「あぁあ!!あと少しで!天黎の天下が我がものになったと言うのに!!
この小娘のせいで、全てが台無しだ!!」
「殿下…?」
「せっかく計画を企て、寧王府から連れて来たと言うのに!!凌雪を人質にして寧王を脅すはずが、とんだ邪魔が入った!!だから初めから殺せば良かったのだ!!」
「私は…」
寧王殿下と共に、天黎を捨てたのです。
そう言おうとした私の手を、慶淵王殿下は黒装束にわからぬようぎゅっと握った。
―――その目は、何も言うなと…
寧王李璿を頼むと…そう言っていた…
「凌雪よ!!寧王に伝えるが良い!!我が命運は尽きたと…お前と寧王のせいでな!!」
そう高らかに叫んだ瞬間、黒装束の一人により、私の目の前で青白く光るその刃が、慶淵王の無防備な首筋に向けられる。一瞬の逡巡もなく、剣は振り下ろされた。
「きゃああーーーー!!!」
私は思わず両手で顔を塞ぎ、声にならない叫び声をあげる。
静まり返った森の中で、まるで夢の中にいるようなそんな感覚だ。
あまりにも恐ろしい…
冷水を浴びせられたように震えが止まらず、私達を守ろうとした慶淵王殿下のその目が、私に焼き付く…
殿下は…
私と寧王殿下に罪が及ばぬよう、咄嗟に御覚悟を決めたのだ。
”我が子寧王李璿”の為に…
私は、この事を早く殿下にお伝えしなければ…
慶淵王殿下のお気持ちと、決して陛下を裏切らぬよう一刻も早く!
…これが全て夢であって欲しい…
まるで冷水を浴びせられたような震えと、瞬時に焼き付いた慶淵王殿下のお顔…
「あぁ…」
私は、寧王殿下にどのように詫びればいいのだろう…
お義父上の御身をお守りすることもできず。
「大丈夫ですか…寧王妃…」
「こちらへどうぞ…お怪我の手当てを…」
そう言われて、私は二人の黒装束と合流した数人の者に囲まれ今度はどこから来たのかわからない馬車に載せられる。
―――それは躊躇う事なく、景都の皇宮に向かっていた。




