第八話 翁と呼ばれる美しい神医
犬の福丸が食事を拒むようになって七日。
初めは気のせいかと思っていたが、今では私も心配で食が喉を通らない。
兄から、“人と動物の薬草に詳しく、神がかりな医師がいる”と聞く。
どんな病気でもたちまち治してしまう“薬念翁”という者で、近くに住んでいる。…と教えてもらい、訪ねてみることにした。
行ってみると、都とは思えぬ森のような緑茂る庭がある。
そこだけがひんやりと涼しく、凛と空気が澄んでいるようだった。
その奥の屋敷は、簡素ではあるが品の良さが滲んでいる。
その庭先の井戸で、一人の若者が水を汲んでいた。
「こんにちは。あの…薬念翁と言う方は、いらっしゃいますか…」
「私ですが?」
その若者は、呼びかけに振り返り静かな声でそう答える。
「え?」
「私がその薬念翁です。」
私とそう歳も変わらぬほどの若さに、思わず言葉を失った。
少し栗色がかった目に見返され、息を呑む。
透き通るような白い肌は、まるで絹のように肌理が細かい。
彼は、現実離れした美しさを纏っていた。
まさか、これほど美しい人がいるとは——。
すらりとした長身に、さらさらと流れるように揺れる檜皮色の髪…
翁と呼ばれていると聞いたので、てっきり老人かと思ってしまった。
彼は歩み寄ってきて穏やかに、私に中に入るよう促した。
「私の名は靈麗と申します。あなたは?」
丁寧に頭を下げられ、思わず自分も頭を下げる。
「凌雪と申します。」
「凌雪殿…」
「あ、雪とお呼びください。そんなに畏まらずとも……」
…気のせいなのか。
雪殿と呼ばれた時、彼の眼の奥に忘れているような懐かしさを、感じたような気がした。
「では雪さん。今日はどのような御用ですか?」
そう微笑んだ彼は、まるで光り輝くような高貴さを発している。
男とも女とも言えず、引き込まれるような不思議な美に思わず見とれてしまった。
「…え?あ、あの、えっと福丸が。」
「福丸?」
彼は聞き返して首をかしげる。
私は、胸に抱いていた我が家の犬の福丸を、彼にそっと手渡した。
それを優しく受け取ると、その背を優しくなでながら、彼は零れ落ちそうな笑顔を福丸に向ける。まるで陽だまりの様な優しい顔だ。
「白くふわふわの毛並みが、とても愛らしいですね。小さな黒い鼻も。」
「私の犬なのですが、もう五日もご飯をたべないのです。どこか悪いのか心配で…
食欲の湧く薬草を煎じようと思ったのですが、動物と人間はまた違うと聞きました。ここなら動物も見てもらえると聞いて…」
「そうですね。人には良くて動物には良くないものがあります。
それなら私がこの子の様子を少し見てみましょう。」
そう言って部屋の入口近くにある、木製の台の上に福丸をそっと置いた。
辺りを見渡すと、三方の壁を覆う棚には無数の引き出しが並び、飾り棚には酒瓶ほどの陶器の壺が整然と置かれていた。
きっとどれにも薬草や煎じ薬が入っているに違いない。
辺りには薬草の匂いが充満していて、入り口近くに置かれた籠には、丁寧に包まれた薬袋が沢山用意されていた。
靈麗は、福丸の口の中を見たり、おなかに耳をあてながら触れてみたり。
最後に目をじっと覗き込んだ。
それから優しく抱き上げ、笑顔で福丸の頭を二度ほどなでると、すぐに私に手渡す。
「何か面白くないことがあったみたいですよ?」
彼の意外な答えに思わず目を見開いた後、抱いた福丸に視線を移す。
「知らない人が、自分の場所に出入りしていて落ち着かないみたいです。
緊張してご飯が食べられないと。」
「え??」
まるで福丸の心がわかるかのような言葉を言われて少し戸惑った。
「というのは冗談ですが…おなかが少し緩いでしょう?」
福丸は、私に抱かれたまま靈麗を見つめ、かすかにしっぽを揺らしていた。
まるで、ようやく言葉をわかってくれる人に出会えたかのように——。
「あ、はい。それで食欲もないので心配になって…」
「緊張からくるものが多く、最近何か慣れない出来事や、嫌な事はありませんでしたか?」
しばらく考えたあと、ここ数日の事を良く思い出してみる。
普段はおとなしい福丸が、初めて皇太子殿下が凌府を訪問された日、暴れて屋敷から飛び出した。
それから納屋の床下に入ったり、そこから出しても今度は壁奥に隠れてしまったり…
わりと人懐こい性格なはずなのに…
そう言えば…あれから姉上の婚礼準備で皇宮の人が、何度も出たり入ったり…
慌ただしい日がずっと続いていた。
そのたびに門の外で大きな声で到着を知らせるし、たびたび家族総出で出迎える事も…
「家が、落ち着かなかったのね。」
私は福丸が不憫に思えてぎゅっと抱きしめ、体をゆっくり数回なでる。
靈麗は微笑むと薬草棚の方に向かい、いくつかの薬草を取りだした。
そしてそれを台の上に並べ一つ一つ丁寧に説明してくれる。
「まずは心が落ち着くように、蘭葛花を使います。
下痢を止め心落ち着ける効果がありますよ?
蘭葛花は“山の神が宿る草”とされ、希少で処方が難しいため私しか扱えない。」
「蘭葛花…」
私はその名を心に留めた。
初めて聞く響きなのに、どこかで聞いた事があるような気がした。
「それから幽甘草と車前葉を。
幽甘草はおなかを保護し、炎症を鎮めます。
ほんのり甘いので動物も嫌がらないかと。
車前葉は自生しているので、牛や馬も利用するお腹を整える薬草です。」
そう言って彼は 一つ一つを丁寧に麦色の紙で包んでくれる。
”それぞれを匙一つずつ混ぜ半刻煎じた後、出来上がりの半量だけを福丸に飲ませるように”と教えてくれた。
その穏やかな話し方に、福丸を心配し疲れていた自分の心までもが、癒されていくような気持になる。
その時の事だ。
「薬念先生!!」
慌てて駆け込んできた、額に汗した三十代前半の老婆を背負った男が、戸口で大きな声で靈麗の名前を叫んだ。
ただ事ではない雰囲気に、靈麗はすぐそこに近づき老婆を下ろすのを手伝う。
聞けば男の母親が、大臣の馬車に轢かれてしまい意識がないらしい。
施療院の恵仁堂へ行ったが、薬念翁でないと手の施しようがないと言われ急いでこちらに来たと…
老婆はすぐ脇の敷居の上に、布を敷いて寝かされる。
私は桶に井戸の水を汲んで、綿布を何枚か冷やすように靈麗に指示された。
「福丸は、この籠に入れておいてください。」
そう言われ、きょとんとした顔の福丸を、慌ててそのかごへ入れる。
靈麗は、手早く傷の手当てを始めだした。
すぐに私も桶を持ち急いで水を汲みに行き、一つ一つ綿布を何度も絞って老婆の側に並べる。
今度は、いくつかの薬草を持ってきて、それを煎じるようにと頼まれる。
言われるがまま、井戸の側にあるかまど部屋の火で薬草を煎じて何度も運んだ。
その為に男も汗だくで、かまどに火を起す。
緊張が走る時間に、男も私もできることは限られていたが、それぞれが必死だった。
息絶え絶えで目を覚ます様子がない老婆は、きっと誰が見ても助からないだろうと諦めてしまいそうな状態だ。
しかし靈麗は手を止めることなく、老婆の足や手からの出血に、薬草を湿布し止血を試みた。
何度も何度も頭を冷やし、首や頭に慎重に針を細かく打っていく。
そんな姿を、私と男性はじっと祈るように見つめていた。
どれくらいの時間が経ったのか。
私は棚脇の椅子に腰かけたまま、いつの間にか福丸を抱いて少しうたた寝をしていた。
「母さん!!」
すると、突然の男の大きな声で目を覚ます。
その声に私も福丸を抱いたまま、老婆にとっさに駆け寄った。
「私が、わかりますか?」
そう言って老婆に優しく話しかける靈麗に、うっすらと瞼を開けた老婆は、瞳を滲ませながら小さく頷く。
「母さん!!よかった…あぁ…薬念様!!ありがとうございます。本当にありがとうございます…」
男の頬には、嗚咽こそこらえていたが涙が伝い、何度も彼は靈麗の手を握りしめていた。
それは、心からの感謝を表しているように見える。
「今日は一晩、お二人ともここにお泊り下さい。私が一晩様子を見た方がいい。」
男にそう言った靈麗に、ハッとして辺りを見渡す。
気づけば外は、真っ暗だ。
それに気づいた靈麗は男に、しばしの間老婆の様子を見ているように伝えた。
すると私を“屋敷まで送る”と言ってくれたので
その言葉に甘えることにし、男に見送られ、私と彼は薬庵を後にする。
靈麗は籠に福丸をいれ、それを背負いながら手灯を持つと、私の歩幅に合わせて歩いてくれた。
ずっと座っていたのを見ていたせいか、隣に並ぶと思っていたよりも背が高い。
「今日はありがとうございました。」
彼は優しくこちらを見て言った。
本来なら私が先に言うべきだったのに……。そう思ったとき
彼の微笑みに、少し気まずさが残った。
「いえ。あ、こちらこそありがとうございました。と、福丸も言っております。」
その気まずさを誤魔化す様に、おかしなことを言う私を見て、彼は声を出して笑う。
ただ穏やかな人だと思っていたけれど、そんな笑い方もするのだと、少し安堵した。
帰り道、
ゆらゆらと揺れながら、手灯の光は道程を照らしている。
少し湿り気のある草の匂いがする夜の空気が、ひんやりと頬をなでた。
背負われている福丸も、安心して籠の中で眠っているようだ。
犬のくせに、小さないびきをかいている。
「お屋敷はどちらなのですか?」
そう尋ねられて一瞬躊躇した。
都の人に家の場所を言えば、必ず父の事も知られてしまう。
すると大抵の人は態度が変わり、遠慮がちに距離を置くようになってしまうからだ。
私はそれがとても苦手だった。
戸惑う私に彼は小さく首を傾げた。
「…武雲里にある、凌府です。」
小さな声でそう伝えたら、思わぬ反応が返ってくる。
「あぁ、もしかしてあの面白い大将軍の、お嬢さんなのですか?」
意外にもそう言って、彼はにこやかに笑いかけて来た。
それは今までにない反応だ。
「面白い…?」
凛々しく強く強面だが、本当は楽しい事が大好きで、実は涙もろく
弱者には優しい、父のそんな姿を知る人は少ない。
「ええ。それに大将軍は、とても優しい方ですよね。涙もろいし。」
靈麗は思い出すかのように星空を仰いで微笑む。
「父をご存知なのですか?」
聞けば靈麗は恵仁堂でも仕事をすることがあり、そこで父に会ったそうだ。
辺境で自分の兵士が怪我をし、その人は軍にいられなくなったらしい。
薬草の知識に詳しかったこともあり、父の計らいにより恵仁堂で働くことに。
父は心配で時折様子を見に恵仁堂を訪ね、みんなには野菜を届けたりしているらしい。
靈麗はその縁で、父と話すようになったそうだ。
たまに祖母の針治療にも凌府を訪れていると聞いて更に驚いた。
それを聞いて小さく胸が躍る。
なぜ今まで会わなかったのか、不思議なほどだ。
それで兄がなぜ靈麗を知っていたのか、納得が行った。
それから家族の話、姉の結婚話、福丸の事、蘇璃の事など、何を話してもにこにこと聞いてくれる彼に、私はすっかりと心を許してしまう。
「着きましたね。」
早くも屋敷に着いた事を、心から残念に思ったほどだ。
彼は背中から籠を下ろし、福丸をそっと抱き上げ頭を二度ほど丁寧に撫でた。
その時府の門から慌てて外に飛び出してきた父が、私を見つけてこちらに駆け寄ってくる。
「雪児!無事か?無事だったのか!どこも痛いところはないか。」
同時に頭も肩も背も、しらみつぶしに確認する父は大声で“遅いのだ!”と両手できつく私の肩を掴んだ。
その大袈裟なほどの心配ぶりに、隣にいる靈麗が目に入っていないようだ。
「大変申し訳ありません。遅くなりまして。」
深々と頭を下げ、靈麗が父に謝罪すると
その声にまた驚いて、即座に彼の方に振り返る。
「薬念神医!!どうして神医が!!」
父はやっと彼に気づき動揺し、なぜか福丸を自ら受け取った。
そして慌てながら深く一礼している。
こんな父を見たのは初めてだ。
どうやら靈麗に一目置いているらしい。
「今日、福丸の具合が良くないと、お嬢様が私を訪ねられました。
その時、急なけが人が運ばれてきて…」
「えっ!?その怪我をされた人は大丈夫なのですか!?」
怪我人と聞けば、心配するのも父らしい。
「はい。お嬢様の手助けで、無事治療が滞りなく済み、先ほど意識が戻った次第でございます。」
「それは良かった…。こんな愚娘ですが役立ったなら本当に良かった…」
父は心の底から安堵し、胸に抱いた福丸の頭を嬉しそうに、くしゃくしゃと撫でた。
「夜は更け、お嬢様を一人で返すわけにもいきませんから、私が送らせていただきました。」
靈麗は“どうぞ叱らないで上げて、褒めてあげてください”と言うと深くこちらに一礼した。
私達も慌てながら頭を下げ、揃って彼を見送る。
「驚いたわ。父上が薬念先生と知り合いだなんて。」
「たまにうちにも、来ておるぞ。」
「さっきそれを聞いて、驚いたの。」
「神医の処方や鍼治療はもはや天黎一、いやそれ以上かもしれぬ。
煊王殿下も、本人の希望だとして、あんな優秀な人を恵仁堂においていいものか悩んでいたが、あそこは医師が足りないからな。
神医ほどの腕前でどうして大医や御医を目指さないのか不思議なほどだが…
まさに民にとっては救いの神のような人だよ。」
「救いの神…」
「穏やかで、声を荒げたところなど、聞いたことがないと少義も話していた。」
少義――前父上から聞いた事がある。
さっき靈麗が話していた父の部下だ。
「早く入って温かいものでも蘇璃に持たせよう。」
そう言って父は福丸を抱いた私の背中を優しくおした。
この靈麗に、私がどれだけ助けられていくのか…
――この時の私はまだ、何も知らなかった。