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第七十八話 王の涙と、王妃の決意

私はあれから、まともに凌雪の顔が見られないでいた。


かなり苦しい時を過ごしたが、兄上夫婦との映月亭(えいげつてい)での“藤棚の茶会”の日はすぐにやってくる。


兄上と顔を合わすのも、あの香袋を見つけてから始めての事だ。


私は、先に寧王府で甲冑(かっちゅう)の試着をすることになり、凌雪より少し遅れて皇宮に向かった。


たまにすれ違う宮女たちににこやかに挨拶をしながら、私は真っ直ぐに映月亭に向かう。


涼やかな風が頬を撫で、藤の香りと共に、池の水音が心地よい。


ここでは、外界の喧騒が嘘のように遠ざかり、ただただ穏やかな時間が流れている。

まるでこの世の憂いを、全て忘れさせるかのような雅やかなこの場所が、私はとても好きだった。


ふと見れば、まだ兄上も皇太子妃も来ておらず、先に来たと言う凌雪の姿さえも見つからない。


“一体どこに行ったのか”と、私はあたりを見渡してみるが、卓の上に並べられた茶器や菓子などはあるものの、宮女の姿さえどこにもなかった。


私はそれに胸騒ぎを覚え、側の映月閣(えいげつかく)に足を向ける事にする。


そこに踏み入れば、壁際に立つ皇太子妃の姿が目に留まり、思わず声を掛けようとしたとの時だ。

向かいには、凌雪が向き合って立っているのが見える。



「凌…」







「凌雪、これは天黎(てんれい)景国(けいこく)の命運をかけた戦いなのだ」


これは…もしや兄上もそこにいるのか?


―――そう思ったのには訳があった。そこには男のように低い声があったからだ。


「でも…私にはわかるのです…殿下が今どのようなお気持ちでいらっしゃるのか。御父上である慶淵王殿下(けいぶちおうでんか)を、敵に回さねばならないそのお気持ちは、はかり知れません」


「でも、もし慶淵王に逃げられてしまえば、天黎はおしまいだ!」



皇太子妃は…凌媛羅(りょうえんら)が言うようにまさか…、本当に男なのか??

しかも…凌雪は…叔父上が、私の本当の父であることを知っている?


では兄上と妃殿下は一体…


「同情していても何も良い事にはならないのだよ!」


「でも…でも!私は寧王妃なのです。寧王殿下の味方でもありたいのです!私は正妃なのですよ!」


「凌雪…」


やはり…蕭烈微(しょうれつび)が…男だった…

私は衝撃を受けながらも、凌雪の言葉をただ黙って聞いていた…。



凌雪は…

私の味方でいてくれると…


思わず、胸の奥に厚いものがこみあげて来て、その二人に声を掛けてしまう。






「凌雪…」


私のその声に、蕭烈微と凌雪は一斉に振り返った。

咄嗟に蕭烈微が、胸元から短刀を抜き出し、私の方へ刃を向ける。


「殿下…」


私の顔を見て、こちらに駆け寄ろうとした凌雪の手を掴んで、こちらをじっと見つめている蕭烈微…



「蕭烈微…お前は…男だったのか…」


「殿下!蕭烈微のお話を、聞いてあげてください!!」

「凌雪、もういいのだ…」



蕭烈微の目は、覚悟を物語っていた。

彼女は…いや彼は、私の命をこの場で奪うつもりだ。



蕭烈微は、凌雪を自分の後ろに隠すと、その鋭い目をこちらに向け、短刀を構える。


このままではまずい…蕭烈微の武術の腕前は相当だ。素手の私では、適わぬ。


それに皇宮だからと油断して、入り口の所で岳珩(がくこう)とは別れてしまった…




「蕭烈微…」


「殿下…私は大義の為、皇太子殿下と密約を交わしているのです!全ては妹を守るため。我が祖国景国を守るため!このことを知られたからには、寧王殿下を生きてお返しするつもりはありません」


―――彼のその目には、命がけの覚悟があった。



「蕭烈微!やめて!!殿下!逃げてください!早くあちらへ!!」


必死になって、泣きなが必死で止めている凌雪が、彼が動いた瞬間にその前に立ちはだかった。

私を庇うためにだ…







「凌雪!!」


思わずそちらが気になり、私は咄嗟に凌雪を庇おうと、全身で彼女を抱きしめながら蕭烈微に背を向ける。





すると彼の持っていた短刀が、瞬時に私の右肩をかすめた。


「あぁっ…」


「殿下!!蕭烈微!もうやめて!!」


「凌雪!どけるのだ!お前が怪我をする!!」




激昂する蕭烈微の前に、凌雪が負傷した私を庇うかのように両手を広げて立ちはだかる。


「凌雪…やめろ…」



私は肩から血を流しながらそれをおさえ、そんな凌雪と蕭烈微を見つめていた。

緊迫した、どちらも一歩も引かない瞬間だった。


どちらとも、大切なものを命がけで守り抜く…そんな目だった…。





「凌雪!!」




そこに兄上が勢いよく駆け寄って来て、咄嗟に凌雪を庇い抱き寄せる。



「何をしているのだ!蕭烈微!!」



兄上の形相は怒りに満ちていて、まるで親の仇を見るような目で蕭烈微を見ていた。



「凌雪…けがはないか?!」

「私より…殿下が…」


兄上は視線を凌雪の後ろにいた私に移すと、ハッとして凌雪から身を離す。


「皇太子殿下!寧王殿下は…全てを知ってしまわれたのです…。ここで生かしておいては私の計画がすべて水の泡になってしまいます!」


目を潤ませ、深刻な顔で訴える蕭烈微に、兄上はすぐに刀を離す様に言い放つ。


するとそこへ、どこからか走り駆け寄って来た韓昭(かんしょう)が咄嗟に刀を抜き、一瞬油断した蕭烈微の短刀を振り落とした。


「寧王殿下!大丈夫ですか!?」


そう言って韓昭は、慌てて私の方に駆け寄ってくると、兄上の方に咄嗟に視線を送り、胸から出した帆布で私の傷口を抑える。

それを見た凌雪が、泣きながら私の側に駆け寄ると、それを韓昭から受け取り、自分が一生懸命傷口を押さえた。


涙でぐしゃぐしゃになったその顔を、私はじっと見つめる。


凌雪は…私の事を心配してこんなに…


兄上は私の前に立つと、全ての事情を私に打ち明け、黙っていて欲しいと頭を下げる。これは父帝も知らぬ事だと…


それから蕭烈微にも、”寧王は、必ずや力になってくれる”と…


―――私はこの時思った…


もしも兄上が、蕭烈微の話に耳を傾けねば、こんなことにはなっていなかったのではないかと。


蕭烈微は、男だと分かった時恐らく斬首になっただろう。



しかし…兄上が偽ることなく、蕭烈微を娶らずにいれば…

蒙成国となど、戦は起きなかったかもしれないではないか…



これから華琳(かりん)が皇太子妃として嫁ぎ、蒙成と和を結んでいれば、こんなことには…



叔父上も蒙成とは、手を結べなかったはず。



そうすれば…私は父帝の子として、叔父上のあの謀略を止められたかもしれないのに…



私はぎゅっと拳を握りしめ、兄上に何とか返事をした。

感情を抑えるのがやっとだ―――


もし口を開けば、ここにいる皆を罵ってしまいそうな気がした。


兄上は…どれだけ私に偽れば気が済むのだ…。




先ほど、凌雪を庇う姿でわかった。兄上は凌雪を忘れてなどいない…

そして…




私の凌雪を…


「わかりました…」



「寧王…わかってくれるのか…」


「わかるも何も…このような事を父帝には話せません…」


「…全てが終わったら、私から父帝にお話する…。私が、蕭烈微の事は全責任を取る」


「今日は…茶会どころではありませんね…」


「殿下…」

 

「凌雪…王府へ戻ろう…」


私がそっと彼女の手を取った時、兄上の目が(にぶ)い光を放つ。


凌雪の肩を抱き、私は兄上に見せつけるようにして、その場を後にした。



それから門の前に付くと岳珩(がくこう)が、私の肩の傷を見て大慌てだ。

彼と凌雪の手を借り、私はゆっくりと馬車に乗り込む。


帰りの馬車では、泣きはらした凌雪がずっと俯いたままだ。


私は、先ほど起きた全ての事を、もう一度頭の中で整理してみた。


蕭烈微は…やはり凌媛羅が言うように男だった。

宮中のものは、凌媛羅の気が触れたと言っていたが、違う。


彼女の言っている事は、嘘や作り事ではない。



蕭烈微は男で…兄上は凌雪の為に誰も娶らぬと決めたのか?

では、子が兄上の子だと言うのは…


しかし、先ほど見た凌雪は、私を庇い必死だった。

自分が怪我をするかもしれないと言うのに、それも省みずあんな…


叔父上が実父だという事も、彼女は知っていた。それでいてもあのような…


≪御父上である慶淵王殿下を、敵に回さねばならないそのお気持ちは、はかり知れません。≫


「凌雪…」


呼びかけに、彼女はふと顔を上げ私の顔をじっと見つめる。


「…はい…」


「もし何が起きても…そなたは私に付いてくると誓うか…」


「……」


凌雪は、その大きな目を涙で潤ませ、黙ったまま私を見つめる。



「陛下と…兄上を敵に回すとしても…」


「殿下…」


「私は…」


「……」


「悪いのだが‥‥偶然兄上の、香袋を見てしまったのだ」


「…えっ…」


「髪は命と同じくらい大切なもの…几帳の中のあれは…兄上の髪なのか…」


凌雪は、黙ったまま何も言わなかった。そしてその両手をそっと膝の上で重ね、唇をきゅっと結ぶ。



何も言わなくてもわかる。

それが…彼女の答えなのだ。



紛れもなくあれは兄上の髪だ。そして…凌雪はそれを大切に持っていた。



恋焦がれ、恋慕い、契りを交わした兄上を…




どんな思いで、そなたは諦めたのだろうか…



――――そして私の想いを…どのような覚悟で受け止めたのだろうか…。





「私は…殿下のご決断に従います…」




「凌雪…」



「私は…寧王妃なのですから…」




私には…その言葉だけで十分だった。


「凌雪…私は…叔父上に付こうと思う」


「……」



慶淵王李昶(けいぶちおうりちょう)は…私の本当の…父なのだ」


「……」


「…私は…実父を討つことなどできぬ…」



そう言ってうつむいた私の目から、大粒の涙が零れ落ちる。


「私がこれからしようとしている事は…陛下を裏切り、兄上を裏切り…そして…お義父上(ちちうえ)を裏切ることだ」


「……」


「もしも…そなたの望みであれば、私は離縁状をすぐに書く。明日にでも凌府へ…」



「大丈夫です」


「……」


「私は…離縁などしません。殿下の御側におります。そして、この子と二人…

殿下のご無事を、お祈りしております」



それは…正妃として、母として…覚悟を決めた女子の目だった。

大将軍・凌孟昊(りょうもうこう)の娘らしい決断だ…。


これから起きる事は、決して私達にとって容易い事ではないだろう。



私は、陛下と兄上に逆心を抱いているのではない。

叔父上を討とうとする二人が、どうしても許せないのだ…


兄上…私は全て目をつぶってきました。

兄上の想いも…上奏文も…そして…天黎を思うその気持ちを尊重してきました。


だけど…


凌雪との事だけは、水に流すことができません。



「すまない…」



私はそう凌雪に伝えると。彼女は小さく首を横に振る



寧王妃である彼女を守るためには、私は陛下と兄上に勝たねばならない。

そして…必ずや天黎をこの手にしなければ、凌雪も子も…




守り切ることができないのだ。



私は、この日強い決意をもって、叔父上に文を書いた。

――――次の青霧の間には、必ずやお伺いします。と…。


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