第七十七話 兄上の裏切り
兄上に頼まれ、陛下の為に軍を動かすとお返事して数日後、私は久しぶりの閑日 (公務のない日)を過ごしていた。
午前中は凌雪の翡翠居で共にゆっくりと過ごし、そこで蕭烈微が作ったと言う産着を見せられる。
まるで職人の様な細やかな縫い目に、美しい白絹の産着は、皇室が用意するものと何ら差のない上質のものだった。
あれから考えれば考えるほど、蕭烈微の事がわからなくなる。
意外性が多すぎて、本当に不思議な女子だ。
昼餉を一緒に食べた後、凌雪は凌玄洵と約束があると言って家を出て行く。
すぐに戻ると言うので、私は翡翠居で昼寝をして待っていることにした。
寝台に転がって天蓋を見ていると、ふとあの時の硝子の小瓶を思い出す。
あの、赤黒い液体が何だったのか…
私はそっと身体を起こし、凌雪の化粧箱の辺りを見てみるけれど、それらしきものは何も見つからない。
数か月前のものだし、もう処分したのかと思い再び寝台に寝転がろうとしたその時だ。
私は、寝台の側にある几帳がなぜか気になり、引き出しをそっと開けてみた。
そこには、貝が貼られた小箱が一つ入っていて、それを手に取り蓋を開けてみる。
「これは…指輪?」
鳳凰の文様が彫られた、翡翠の指輪…
鳳凰の文様と言えば…皇后陛下しか御使用できない文様だ。
なぜこれを凌雪が?
皇后陛下から賜るはずもなし、それを賜るとしたら…蕭烈微のものだとしても、それを預かるとかあるだろうか…
考えを巡らせても何も思い浮かばず、首を傾げながら、私はそれを引き出しに戻そうとした。
その時、その奥にある小さな香袋にふと気付く。
それを手に取って見たが、どうやら凌雪のものでは無さそうだ…
思わずそれを鼻に付けると、そこから知っている香が漂って来た。
「これは…」
―――兄上の香りだ。
兄上の香は、御生誕の時、皇后陛下が作らせた特別な物だ。
唯一無二の香りで、私が間違える事などない。
生まれてからずっと、知っているのだから…
この龍紋の小袋は確かに兄上のものだ。兄上の香袋が、なぜ凌雪の所に…
兄上が、前に渡したものだろうか?そう思うと、なんとなく胸の奥に小さな詰まりを感じ、私は考えないようにしてそれを引き出しに戻そうとした。
その時、香袋の中でカサリと音がし、何が入っているのかと、思わす袋を少し開けて中をみる。そこには、小さく折りたたまれている、小さな玉箋が見えている。
兄上から凌雪への文だろうか…
これは、決して見てはいけないものだ。
見ればまた、良からぬ疑念が湧き、二人にあらぬ疑いを持ってしまう。
兄上は、“凌雪には未練を残していない”とはっきりとそう言った。
例え香袋を凌雪に渡し、文を書いていたとしても、これは昔の事なのだ。
そう言い聞かせ、それを引き出しに戻そうと、再び手を伸ばす。
しかし…
あぁ言っていた兄上は、一体何を凌雪に書き残したのか…
それが気になり、自分の決心が緩むのを感じた。
香袋を開けてみれば、小さく折りたたまれた玉箋が一つ。
それを開いてみると、そこから小さな髪房がぽとりと下に落ちた。
見ればそれは、きっちりと赤い糸で束ねてある…
「これは…」
誰の髪だ?兄上か?まさか…凌雪?
いや…凌雪の髪ではなく…兄上の髪か??香袋は兄上のものだ。
頭の中が混乱する。
髪は、親からもらった体や命と同じくらい、大切なものだ。その一部を相手に渡す…皇太子である兄上が、凌雪に髪を渡したと?
そう言う事なのか?
これは、上奏文よりも驚きを隠せない。
ふと見れば玉箋には、見覚えのある兄上の筆跡で記された文字が書かれていて、それが涙で滲んでいる…
――大切なる吾らの契りにより、
吾が身も、吾が心も、唯そなたのもの。
この命尽きるとも、終生ただそなたを想い続けん。――
「……」
これは…
大切なる我らの契り??
終生凌雪を思い続けると…?
信じていた全てが、脆くも崩れ去った瞬間だった。
―――兄上が、凌雪と契りを交わしていた?
これは一体…
頭の中を整理しようにも、気持ちが動揺しすぎて、追い付いて行かない。
手の震えを抑える事ができず、心臓の鼓動が早馬のようだ…
兄上のあの優しさも、私への言葉も…あれはすべて偽りだったと言うのか…。
子は確かに私の子だ。凌雪は、私に嘘をつかない。
それに、そばに居ればわかる。子を大切に思い、私を労い思いやり、心砕いている事も…
そして…あの太子府で見かけた時、凌雪は兄上を避けていた…。
――兄上は、戦の為、私に嘘をついたのだ。
自分の髪を切って凌雪に渡すほど恋焦がれ、一生忘れられぬような思いを胸に秘めながら…
そして…その手で凌雪を…
「嘘であろう…」
なのに…叔父上を討つために、凌雪を忘れたと嘘をついた。天黎の為にと…
これが真ならば、私は――もう、何を信じればよいのか…。
「おかえりなさいませー」
その時、遠くで寧王府の従者の声が聞こえ、凌雪が戻ってきたことに気がつく。
私は手に持っていた髪と文を急いで香袋に入れ、元あった場所にしまうと、慌てて寝台に寝転がった。
そこへ何も知らない凌雪が戻って来て、にこやかに寝台の私に声を掛けて来た。
「殿下、父上から文を預かってきました」
「文?」
私は何食わぬ顔でそれを受け取ると、中を確認する。
そこには凌孟昊からの、切なる願いが書かれていた。
―――寧王殿下へ。
このたび、御身にて大きなご決断を下されたこと、臣め、深く敬意を表し、誇りに存じます。
愚娘・凌雪を娶りしこと、何よりの栄誉にございます。
どうか、あの子をお守りくださるとのお言葉、決してお忘れなきよう――
娘には、殿下ただお一方のみが頼り。
まもなく授かりし御子も、無事にこの世に生を受けますよう、臣、ひたすら祈りを捧げておりまする。
今後、臣はこれまでにも増して、陛下と王家の御威光に忠義を尽くし、微力ながらも天黎の安寧のため、身命を賭してお仕えいたす所存にございます。
敬して白す。凌孟昊―――
凌孟昊が綴った…王家の御威光…という言葉。
私はそれを見て、とても複雑な気持ちになった。
義父上は、当たり前だが父帝に付く。そして要の私もつけば、恐らく父帝はこの難を免れるであろう。
では、叔父上は一体どうなってしまうのか…
来週にでも、精鋭部隊が叔父上を暗殺するために動くと、兄上から聞いた。
それは叔父上も既に御承知だ。だから全てを整えた後、蒙成に身を隠すのもそのため。
しかしいくら蒙成が付いていると言っても、兄上と凌孟昊の策があればきっと敵わない気がする…
どっちにしても、命を落とされるだろう。
そうなれば私は…
「殿下、そう言えば先日皇太子妃が藤棚がキレイなので、映月亭で茶会をしましょうと」
「茶会?」
「はい。妃殿下と、皇太子殿下と、殿下と私の四人で」
「……」
「よろしいですか?」
「あ…私は、別に構わぬ」
そう言ったものの、兄上にどのような顔をして会えばいいのだ…
しかし、黙って香袋を見てしまった事を、凌雪には言えない…
「楽しみですね。妃殿下が、景国の珍しい菓子を、ご用意してくださるとか」
楽しそうに話している凌雪の顔を、私はまともに見られなかった。
私に嫁ぐ前に凌雪は…兄上と…
心の中に渦巻くもはや嫉妬ではないドロドロとした感情が、兄上だけでなく凌雪にも向かっていきそうだ。
今まで誰よりも大切にし、守り…信じて来たのに…
私はこれからどうすればよいのだ…
そんな事を考えながら、私の長い一日が過ぎて行く
自分では抱えきれない、大きな絶望と共に…




