第七十五話 寧王李璿の葛藤
兄皇太子煊王李煌が、父帝の書簡を持ち、突然寧王府を訪れる。
それは、緊急を要するものだった。
書簡にはこうあった――
『朕はすでに全てを知っている。
慶淵王が謀反を企てていることも、蒙成国と密かに手を結び、天黎の兵を操ろうとしていることも――全てを、だ。
寧王よ。
この国の未来は、お前の決断にかかっている。
兄を取るか、叔父を取るか、それはただの身内の争いではない。
お前がどちらに与するかで、天黎は生きもするし、滅びもするのだ。
朕は、お前が聡き者であると信じている。
正道を選ぶと、父として信じている。
天黎の皇子として、今こそその誇りを示せ。
お前の剣は、誰のためにある?
朕と共に国を守れ、寧王』
父帝は、すべてを見通していた。
叔父上の計画に、ついに父帝が立ち上がった。
この文面では恐らく、蒙成への攻撃の前に叔父上は暗殺されるだろう。
しかし、叔父上は実の父だ。
それを黙って見過ごすことも、私にはできそうにない。
私は、様々な事を思い巡らせながら、目の前で必死に説得している兄上を、黙ってじっと見つめていた。
私はこの天黎が好きだ。ずっと陛下を父だと慕い、兄上の事も同じ父を持つ兄弟だと信じて疑わなかった。
本来なら陛下のこの頼みに、息子として、二つ返事で頷かなければならなかっただろう。
私も、出来れば、この天黎を守りたい。
叔父上が、企てているような謀反を起こしてまで、皇太子の座に付こうなど、夢にも思った事などないからだ。
それに、凌孟昊と凌雪の為にも、陛下に付かねばと。そう思っていた。
けれど、私が陛下の子でなく、本当の父が叔父上である事実。
そして兄上への不信感が、心の中からじわじわと芽を出し、それ以降、渦巻く迷いをどうしても拭いきれずにいたのだ。
私はずっと、兄上と凌雪の間にある疑念に揺れ、苦しんできた。
叔父上や凌媛羅、そして宮中に漂う数々の噂…。
そのどれをとっても、不安を募らせる材料にしかならず、しまいには肝心の凌雪さえも、心許なく思えてしまう始末だ。
だからこそ私は兄上に、いつかはっきりと問いただしたかった。
今、兄上は凌雪をどう思っているのか。
そして凌雪は、兄上をどう見ているのか。
ふたりは本当に、もう終わっているのか――
兄上はきっぱりと否定した。
まるで私の頭上を覆う雲が晴れるように、兄上ははっきりと言った。
―――「天黎を選んだ」と。
そして、凌雪の子は間違いなく私の子だとも――その言葉は、何より嬉しかった。
私は凌雪を疑っていたのではない。ただ、兄上を信じきれなかったのだ。
帝王学を修め、常に国を優先してきた兄上が、あの上奏文まで啓奏して凌雪を選ぼうとした。その強い想いが、ずっと心に引っかかっていた。
だが今、兄の口から「天黎を選ぶ」と聞いた瞬間、私はようやく安堵した。
やはり、この人は煊王李煌――天黎の皇太子なのだと、心から思えた。
私は父帝の書簡に頷き、兄上と共に蒙成を討つと誓う。
兄上は、あまり見せたことがないような、零れる笑みを見せ、喜びを隠さず私を両腕で抱き寄せた。
それは、兄上が私を心から信頼し、二人の絆を確かめた瞬間でもある。
その時、ふっと兄上から香った凌雪の香り…
なぜ、兄上から?と疑問に思いながらも、この日は寧王府の門で兄上を笑顔で見送り別れた。
凌雪の香りは、彼女が生まれた時、凌夫人が特別に配合し作らせたものでこの世に二つとない香りだ。
――――それが兄上から、なぜ香ったのだろうか?
しかも兄上は、蒙成から帰ったばかりで、ここ数日凌雪には会っていないはずだ。
凌雪も、ここ数日のうちに、何度か蕭烈微を狙う黒装束に遭遇し、昨日から翡翠居に閉じこもっている。
「考えすぎか…」
なんだか叔父上のせいで、凌雪の全てを疑う癖がついてしまった。
香袋なら、そう言えば韓碧心の侍女が、“正妃の香りが好きだ”と言って、似たようなものを香舗でいくつも買っていた。
同じものではなくとも、似たような物ならどこにでもあるものかもしれないし、もしかしたら、蕭烈微の香なのかもしれない。
そう思い直して、書房に戻る。
それから私は、すぐ叔父上に詫びの文を書いた。
啓―慶淵王殿下――
逆臣の子として、このような文を認めること、筆に堪え難し。
然れども、臣、天黎の宗室に生を受けし者として、君に忠を尽くすことを何よりの本懐とす。
父上――
願わくはこの呼び名に、かつての温情の名残を感じていただければ幸いです。
不肖、寧王李璿、もはや父上のご意志に背くこととなり、心中痛みこれに堪えず。
然しながら、今この天黎の国難に際し、父帝と兄上の御心に背くことは、我が良心に背くことと同義にございます。
願わくば、父上におかれましては、即刻蒙成国との縁を断ち、陛下の御心に従われんことを。
天黎の皇帝陛下の御弟君として、今こそ悔い改め、忠誠をお示し下されば、天恩により赦される望みも、全く無きにしも非ずと存じます。
親子の情は、いかに道を違えようとも、容易には断ち難し。
願わくば、命を全うされんことを――これが、実の子としての最後の願いにございます。
――不肖の子 李璿 拝
これは、初めて私の父としての叔父に宛てたものだ。
やはり、実の父と知ったからには、生き延びてほしい。
せめて、息子として最後に、この思いが伝わればと思い筆を執る。
私は叔父上の謀略を止める事が出来なかった。
それは、恐らく一生悔いる事になるだろう。
しかし、私は天黎の第二皇子として生きて行く。凌雪の為にも子のためにも。
その日の夜。私の寝所に叔父上の細作の魅影がやって来た。
音もなく、暗闇から浮かび上がるようにして、姿を現した彼女に叔父上からの書簡と伝言を託る。
それを受け取り、慎重に封を切った。
李璿へ
汝の決断、確かにこの父のもとに届いた。
然れど、李璿よ――
それはこの私の深き慈愛と、長年の想いを踏みにじるものだ。
汝はいずれ気づくであろう。己が選んだその道が、いかに無情なものであったかを。
余が、李乾徳の駒として使い捨てられる汝を見て、どれほどの怒りと嘆きを抱いてきたか。
皇太子の影として生き、己の才も忠も正しく顧みられぬまま、ただ従わされてきたその在り様。
それを、余は幾度となく歯噛みしながら耐えてきたのだ。
この戦――それは余の野心のためではない。
すべては、汝のための戦である。
汝が真に手にするべきだったもの、汝が本来立つべき高み、
それらすべてを与えたいと願う、父としての想いに他ならぬ。
それほどまでに、汝を思っている。
されど汝は、己の血を裏切り、李乾徳の傀儡となる道を選んだ。
ならば、よい。
たとえこの身滅びようとも、余はその決断を認めぬ。
その迷いが、やがて汝自身を呑み込むであろうことを――願わずとも知ることとなる。
――慶淵王 李昶
私が読み終わるのを待って、魅影が私に跪き頭を下げる。
「寧王李璿殿下。慶淵王はこの度の殿下のご決断を大変ご憂慮され、”決してあきらめぬ。”と」
「……」
「来週行われる、青霧の間での会合にご出席されることを、切に希望されるとの事でした」
「私は、絶対に行かぬ!」
魅影は、その私の返事に気に留める事もなく、叔父上からの言伝を淡々と伝える。
「それからその後、慶淵王殿下の御身が危ないので、謀反当日まで身を隠されるとの事。天黎を出られて、蒙成に身を潜められると」
「……」
「なので、必ず”青霧の間”へいらしてください」
そう言い残すと、彼女は頭を下げ瞬時に暗闇に吸い込まれていった。
謀反当日まで、身を隠すだと?
いくら蒙成が、後ろ盾についているとはいえ、もう全て陛下に知られてしまったのだぞ。
兄上と凌孟昊を敵に回し、あの野望が叶うはずもないのに…
これから、一体どうするおつもりなのだ。
──あの二人に、敵う者など、この地上にどれほどいるのだろう。
義父上、凌孟昊。
虎符を預かる、天黎の大将軍。
その姿が軍陣に現れた瞬間、兵たちは自ずと背筋を正し、敵将たちはその名を聞いただけで兵を退くという。
槍ひと振りで、百の首を落とすと言われる豪勇だ。
だが、それだけではない。戦の機を読む眼、兵を動かす胆力、そして何より将としての器。武だけでなく、その姿そのものが“威”なのだ。
そして、兄。―――煊王李煌。
幼い頃から、何をやっても敵わなかった。
人の上に立つことを“命”として与えられたような、気高さと覚悟。
剣は抜かずとも、相手の足がすくむようなあの静かな威圧。
戦場では、まるで全てを見通しているかのように動き、大軍を前にしても、一歩も退かず、焦りもせず、むしろ楽しんでいるようにさえ見える。
父帝が、心から信頼しているあの二人が、並んで立つ姿はまさに天黎の柱だ。
強く揺るがない、誰よりも、この国を背負う覚悟を持っている。
きっと、今回も何ごともなく蒙成国も叔父上も鎮圧されるだろう…。
それなのに――
なぜ、私はまだ迷っているのだろうか?
……それは、きっと叔父上の事だ。
陛下の実弟であり、私の実の父・慶淵王李昶―――
私は誠の父を、敵に回さねばならないのだ。
憎んでいる訳でもない。それどころか私にはいつも優しかった叔父上を…
私は…討たねばならないのだ。
確かに、凌雪の事ではいちいち癪に障った。
余計な事を再三吹き込まれ、苛立ちもした。
けれど今…私も少しずつだが、子に対する親心を理解しつつある日々だ。
凌雪が、産着などを揃えていたのを一緒に見たが、こんなに小さいのかと驚いた。
我が子とは、このように小さくか弱き形で生まれて来るのかと…
そんな我が子を…この手で育て慈しみ、どんな感情が芽生えるのか想像もつく。
母上から聞いたが、叔父上は最初から、私が我が子だと知っていたようだ。
陛下の息子として、目の前で父帝に甘える私を、今まで一体、どんなお気持ちで見ていたのだろうか…。
「叔父上…生きてください…」
私は、部屋でひとり、寝台に腰を下ろしていた。
帳は下ろされていたが、真夜中の空気はしんなりと肌に染みる。
その中で私はただ、両手で顔を覆い、沈黙していた。
肩が小刻みに揺れ、深く苦しく、喉の奥で塞がれた嗚咽が、絞り出すように洩れる。
「……父上……」
思わず私の口から零れ出た、本当の父上を恋しがる声。
その響きには、怒りも憎しみもない。ただ、哀しみと慟哭が滲んでいた。
私は、手で顔を覆ったまま、ゆっくりと頭を垂れる。
──どうして…。
どうして、あの人はこの道を選んでしまったのだ。
陛下の弟でありながら、兄上に刃を向け、国を割ろうとしている。
それがどれほどの血を流すことになるか、どれほど多くの命を引き裂くことになるか、わからぬはずもない。
「もう…やめて欲しい……」
誰にも聞こえない、心の底からの懇願だった。
父であることに変わりはない。
幼い頃に手を引いてくれたぬくもりも、文を習い、剣を学び、背中を追った記憶も、すべてが私の胸の内で生きているのだ。
それが今、砕け散ろうとしていた…。
誰にも見せられない涙が、指の隙間を伝って頬を濡らしていく。
「……どうか…これ以上過ちを重ねないでください……」
それが私の、偽らざる本心だった。
天黎の命運が重くのしかかるこの背に、叔父上の運命までかかっているのに…。
今の私には、どうすることもできないでいた。




