第七十四話 寧王への切なる嘆願
私は、蒙成国から戻って来たその足で、父帝にすぐに報告に上がる。
蒙成国の皇帝は、皇太子・赫連 景と華琳との事を白紙に戻したいとそう言った。
そして…蕭烈月を、皇太子に正室として娶らせると。
華琳との話はもうずっと前から決まっていた事だ。
それを話が出て数日で、白紙に戻すなど…
ついにもう蒙成国は、天黎と手を組むつもりはないと、そう言う事なのだろう。
蒙成国は、蕭烈月を返還するつもりはないようだ。
こうなれば、こちらが攻め込むしかないだろうが、今はそれができるかどうか…
慶淵王側に付いている兵が、恐らく命に従わぬだろう。
「煊王。寧王は今、どうしておるのだ。一刻も早く、奴の真意を確かめねばならぬ」
「…はっ。ただちに私が真意を問うてきます」
私がそう答えると、父帝は、深く椅子に身を沈め、重々しい沈黙を落とした。
「天黎を内から裂こうとする者が、我が血族の中に現れようとはな…。それに蒙成が手を貸すとは…」
父帝の声は、まるで深い淵の底から響いてくるようだった。
「もし、慶淵王が蒙成国と通じておるのならば……」
言いかけて、父帝は拳を握りしめた。
「朕は――朕は、たとえそれが実の弟であろうと、国を守るためなら討たねばならぬ」
その眼差しに、迷いはなかった。だが、その奥にほんのわずかな悲しみが宿っていたことを、私は見逃さなかった。
そして私は知っていた。
その覚悟が、本当の戦の始まりを告げる印に他ならないことを――。
――それから私は、そのまますぐ寧王府に向かった。
寧王府に到着すると、馬上の私は手綱を王府の従者に預け、無言で馬を降りる。
砂利を踏む音が、やけに大きく耳に響いた。
寧王府の中庭は、まるで絵に描いたように整っていて、寧王の几帳面な性格を映しているかのようだ。
私は何も語らぬまま、真っ直ぐと書房へ向かう。
春の、夕暮れの日が差し込む廊下を、私は、緊張の面持ちで歩いて行った。
扉の前まで来ると、呼吸を整え、大きく扉を開き中に一歩踏み入る。
寧王の書房の中は、しんと静まり返っていて、そこの空気が重く沈んでいた。
彼は案の前に座り、手にした筆を硯に戻すと、私の方へと向き直る。
光の差す方を背にしていたせいか、その表情はやや影に沈んで見えた。
「……寧王、至急話があるのだが。まずはこれを」
私はそう言って、陛下からの文を手渡し、それを受け取る寧王をじっと見つめる。
差し出されたその文は、緋の封緘に金の印が押されており、一目でそれが父帝からのものだと気づいたようだ。
寧王は一礼してそれを受け取ると、手元でしばしその重みに目を伏せる。
そして無言のまま席を立ち、書案(つくえ)の前に進み出ると、そっと封を切った。
その時、紙と墨の香が立ちのぼり、筆跡の力強さが私の目に飛び込んでくる。
――父帝特有の直筆だ。
彼は最後までそれを読み終えると、ゆっくりと顔を上げた。
その文を丁寧に畳み、机上に置いた寧王の眼差しは、真っ直ぐにこちらを見ている。
「寧王、今これを読んでわかる通り、今天黎は蒙成と緊張状態にある」
「……」
「……他でもない。私は、お前に頼みがあって今日は来た」
私はそのまま机の前に立ち、静かに手を組み寧王に礼をし頭を下げた。
これから話すことは、天黎の命運を左右する。
ただの頼み事ではないからだ。
「蒙成国が、景国の公主・蕭烈微の妹蕭烈月を拉致し、監禁している。今、景国は激昂しているのだ。だから私は景国と共に、蒙成を討たねばならぬ。それはわかってくれるだろうか…。」
寧王の眉が、わずかに動いた。
「だが……今の天黎は、かつてのようには動けぬ。
慶淵王が水面下で、既に兵の半数を手中に収め、蒙成国と密約を交わしていた。叔父上の狙いは、この天黎そのものだ」
寧王は黙して聞いていたが、視線が鋭くなっていくのがわかった。
まるで何もかもを知っているかのように、動揺は見られない。
「今、天黎は裂かれようとしている。私に残された兵では、蒙成を攻めるどころか、慶淵王の企ても押し返せぬ。だが、――お前が、私と共に戦ってくれれば、まだ道はあるのだ」
私は机に歩み寄り、真っ直ぐに彼を見た。それから、寧王は目を逸らすことなく黙って話を聞いている。
「李璿。お前の軍、民の信望、そのすべてが今必要だ。……私は、景国公主を救いたい。彼女を奪われてしまえば、天黎は景国の信頼も失ってしまう…」
「……」
「私は、お前と共に、この国を守りたい。どうか力を貸してほしいのだ。
私と手を携え、この天黎を守り、蒙成の野心を打ち砕こうではないか。
私は……それが、父帝の願いであり、それが我らに課された、兄弟の宿命だとおもっている」
言葉を投げるたびに、私の胸の奥が軋んだ。
自分が言えることは、全て言った。
後は彼の心が、いずれかに傾くその瞬間を、息を潜めて待つばかり…
その時真っ直ぐに私を捉えていた目が、ふと迷いを見せて揺れ、彼はここで、私が想像もしていなかったことを口にした。
「……兄上。その裁定を下す為に、ひとつ尋ねてもよろしいでしょうか」
「何だ…」
「兄上は、凌雪を…今もまだ想っていらっしゃるのですか」
私はその言葉に、一瞬、呼吸を止めた。
寧王は、やはりまだ、それを気にしていたのか。
彼は私から目をそらさず、正面からじっと見据えたまま続ける。
「凌雪は、“かつて自分は兄上を想っていた”と…そう私に打ち明けました」
「凌雪が?」
「瑞祥寺での”婚儀”については、兄上と同じで、決してそのような事はないと…」
「……」
「凌雪と想い合いながらも、兄上が彼女を手放したこと。皇太子であるが故の、その覚悟には私も敬意を払います…」
彼の言葉は静かだったが、その奥にある苦悩と葛藤は、痛いほど伝わってくる。
きっと真実を知ってしまえば、その苦しみは今の何倍にもなるだろう。
「私には…。過去の事だとしか言えぬ…」
「……本当にそうなのでしょうか。私は、あれから、“いまだに凌雪の心を占めているのは、兄上だけなのではないか”と、思ってしまうのです」
「…今は、お前の正妃だ…」
「あれ以来……本当に私の者なのか、わからなくなる…」
「凌雪は、お前の子まで身籠っているではないか」
私は目を伏せ、そして小さくため息をついた。
「しかし二人は、”いまだに会っている”とあちこちで噂は絶えない!」
「私が凌雪を想っていたのは、事実だ。お前にもそう話した。だが、それはもう私の中では終わったことなのだ」
それを聞いた寧王が、わずかに眉を動かした。
凌雪を忘れる事など、私には到底できぬだろうが、今はそう言うしかなかった。
父上の為にも…寧王の為にも…
―――そして…天黎の為にも。
「終わった?」
「そうだ。彼女を手放した日、いや、正確には……国を選んだ時に、私は人としての想いを、捨てねばならなかったのだ。今の私は……ただ天黎を守るためだけに生きている」
「……」
「お前は、私に“凌雪を守る”と言っていたではないか。凌雪には、守ってくれる誰かが必要だ。……それは、私ではなくお前ではなかったのか!」
私は必死だった。もし寧王が凌雪と私へのわだかまりを抱えたままなら、間違いなく慶淵王側に付くと、最初の一言で悟ったからだ。
でも決して…寧王にそうさせてはいけない。
そうなれば天黎はおしまいだ。
この国もこの民も、そして…誇りさえも全て…塵のように消えてしまうのだ。
「兄上も…凌雪を守りたいと、いまだ添い遂げたいと思っておられるのでは…」
「私はもう、彼女の幸せを願うことしかできない。……お前は、凌雪の夫だ。そして、間違いなく凌雪の子の父親なのだ。お前が守らなくて、他に誰が守るのだ!」
寧王の表情が、少しだけ揺らいだ。その目に安堵と私への信頼がにじみ出て来る。
「……兄上は、本当にそれで良いのですか」
「良いも何も…私はお前に“凌雪を守って欲しい”と思っている」
「……」
「それが…私の本心だ」
「……私にそれを信じろと」
「私は……天黎を…この国を守りたいだけなのだ。私の頭には、今はそれ以外ない!」
そのとき、寧王の眼差しに、ようやく迷いが晴れたような光が灯った。
私が、希望を見た瞬間だ。
「……わかりました。
父帝にお伝えください。私は、兄上と共に蒙成国を討ちます。と」
私は深く頷き、胸の奥で深く安堵の息をついた。
寧王が陛下の味方になった――それは、天黎にとって、何よりの力だ。
この天黎に、希望の光が見えた瞬間でもあった。
「私も共に、戦いましょう。父帝の天黎を、この手で守るために」
「寧王!!心より感謝するぞ!!やはり、わが弟だ…」
私は彼を両手で力いっぱい抱きしめ、何度も背中を摩った。
その時私は、寧王もそれに応え、私はこれで天黎は救われたと…
―――――そう信じで疑わなかったのだ。
しかしこの安堵が、後にどれほど深い絶望へと変わるのかを、私はまだ知る由もなかった。
あれほどの試練が、私を待ち受けているなどと、夢にも思わずにいたのだから…。




