第七十一話 愛しい寧王妃
そろそろ、夕刻が近づいてきたので、私は王府へ戻ることにする。
蕭烈微の部屋を出て、蘇璃と皇宮の門へと続く回廊を、渡っていたその時だ…
正面から聞き覚えのある声がして、見れば皇太子殿下と韓昭さんが、こちらに談笑しながら歩いてくるではないか。
私は咄嗟に、殿下を避けようと踵を返し、蕭烈微の部屋へ戻ろうとした。
今ここで、殿下と話しているのが見つかってしまえば、また新たな火種になりかねない。
それが噂になれば、寧王殿下にもご迷惑が掛かってしまう。
それから足早に、蕭烈微の部屋に蘇璃と戻ろうと必死に歩いた。
すると部屋に入ったところで、後ろから勢いよく右腕を掴まれる。
「凌雪…」
そう呼ぶのは、皇太子殿下だった。
彼は、咄嗟に私達を押し込むようにして、そのまま中に一緒に入り込み、
耳を澄ませて人差し指を口元に立てた。
「殿下…?!」
「しっ…静かに」
すると私に用があると告げ、蘇璃に目配せをし、部屋から出て行くように促す。
ふと見渡すと、蕭烈微の部屋には、さっきまでいた彼が見当たらない。
「…凌雪…?」
その優しい皇太子殿下の声は、胸に迫るものがあった。殿下はその両手をそっとこの頬に添えると、少し瞳を滲ませて“すまない…”と声を絞り出すように言う。
その声に――今まで堪えて来た涙が、堰を切ったようにあふれ出した。
「…ここに…いてはいけません…。殿下…」
彼は小さく首を横に振ると、愛しきものへの切ない眼差しを、こちらに向ける。
「私は何もしてやれず…お前が今どんな思いでいるのだろうかと…」
「……」
「会いたかった…。まさか…ここで会えるなどとは…」
「…もう、王府に戻らねばならないのです…」
「寧王の様子はどうなのだ…。大丈夫なのか?ひどい目に遭ってはおらぬか?」
心配そうな顔で、何度も私の顔を覗き込む皇太子殿下に、私の弱い心が揺れてしまう…。
でも、こんなことではいけない。これからは弱いだけでは駄目なのだ。どんな時も気丈でいなければ。
「心配なさらないでください…私は…大丈夫ですから…」
そう言って微笑むと、皇太子殿下は咄嗟に両腕で私を力いっぱいに抱きしめた。
きっと…
強がっていても、殿下には気づかれてしまうのだ。
けれど私には、皇太子殿下にすがる理由も、頼る理由も、そんな権利さえも持ち合わせていなかった。
「私は、寧王を許さぬ…。凌雪を守ると啖呵を切っておきながら…!」
「殿下…」
「凌雪…あれから考えたのだ。もしも…」
皇太子殿下が、何かを言おうとしたその時だ。扉の外の韓昭さんと蘇璃が蕭烈微に挨拶をしているのが聞こえてくる。
私が咄嗟に、彼から離れたと同時に、その部屋の扉が勢いよく開いた。
そこには、驚きで目を見開いた蕭烈微と、その後ろには申し訳なさそうな表情で立ち尽くす韓昭さんと蘇璃が…
蕭烈微はハッとして、すぐさま自分も中に入ると、素早く扉を閉めそこに耳をつけて外の様子をうかがっている。
どうやら、宦官が通り過ぎたらしい。
それから彼は、私と殿下の顔を交互に見ると、大きなため息を一つついた。
「寧王妃がなぜまだここに?もう帰ったのではなかったのか」
「あ…」
「先ほど、回廊の所で偶然会ったので、私が追いかけて来たのだ」
「それで、二人でここに戻ってきたと?」
蕭烈微に呆れられて、私は小さく頷く。
「寧王妃は…殿下とは一体どういった…」
蕭烈微がそう尋ねようとしたその時、皇太子殿下は迷わず彼の目を見て答えた。
「私の想い人だ」
それを聞いた彼は、そこにある黒檀の椅子に深く腰掛けると、右手を額に当て、「あぁ…それで…」とため息をつく。
「だから、側妃があのような…」
「側妃がどうしたのだ?」
「殿下。早急に凌媛羅をなんとかせねば、寧王に凌雪の子の事を、色々と吹き込んでいますよ」
「なに?」
「生まれた後は、”皇太子殿下の子だから世継ぎにされる”とか。彼女も、気が少しおかしくなっているようだ」
「まさか!寧王は、それを信じたりはしないだろう?!」
「信じようが信じまいが…私なら…凌雪の子は誰の子であれ、大切にしますけど…」
その時、蕭烈微が真剣な顔で私を見据え、真っ直ぐな眼差しを向けそう言った。
あまりにもその言葉が突然で、思わず彼をじっと見つめていると、皇太子殿下がその間に立ちはだかり、蕭烈微に文句を言い始める。
「お前は良いのだ!お前は。凌雪の子なら私が大切にする!」
「また誤解を生むようなことを…」
「お前に言われたくない!」
「私は誤解ではありません。寧王妃を好いているのですから」
「え?」
それを聞いて、私が思わずそう聞き返すと、皇太子殿下が慌てて両手で私の耳を塞いだ。
「凌雪、蕭烈微の戯言だ。聞かなくてよい。聞くな!」
「戯言ではありませぬ。私は本気です!」
今度は、蕭烈微がむきになり、私の耳を塞ぐ殿下の腕をどけようと立ち上がった。
「殿下は、凌媛羅を何とかしてください!」
「それは、お前が皇太子妃として何とかすればよいだろう!」
一体これは…
目の前で皇太子殿下と皇太子妃…いや景国第二皇子が…諍いを…
その取っ組み合いをしている様を呆然と見ていると、外から韓昭さんが声を掛けて来た。
「殿下、もうそろそろよろしいですか…。出立せねば…」
それに、殿下よりも蕭烈微が反応した。
「殿下…今日でしたね。お気をつけて…どうぞよろしくお願いします」
突然そう言って深く一礼した蕭烈微につられるようにして、なぜか私も一礼する。
「殿下は、どこかに行かれるのですか?」
尋ねた私には皇太子殿下の返事はなく、代わりに穏やかに微笑まれそっと手を私の肩に置いた。
「凌雪…もしも私が、何があっても今も変わらず、お前の事を思っていると言ったら、どうするだろうか」
「殿下…」
「私はとても、諦めの悪い人間だったらしい。あの日、凌雪が韓昭に言った事は理解しているつもりだ。けれど…今の寧王の態度に、私はどうしても納得が行かないのだ」
「……」
殿下の後ろにいる韓昭さんが、私の方を真っ直ぐに見ている。
「あれから何度も考えた。もう二度と言葉を交わすまいとも…」
「……」
「けれど…」
「それでも…私は……寧王妃です…」
そう答えるのが私には精一杯だ。声は震え、この状況で、どこかでまだ殿下を求めてしまいそうな自分が怖かった。
だから…殿下だけではなく、それを自分にも言い聞かせる。
私は…寧王妃なのだと。
「そうだな…それは私も良くわかっている…」
殿下は小さくうなずいた。
その微笑みには、哀しみと、後悔と、そしてどこか優しさも滲んでいる。
「凌雪。ただ、一つだけ覚えていてほしい。
たとえこの身がどうなろうと、私は最後まで、お前の幸せを願っていると。
この想いは、何があろうと決して変わらぬ。それだけは、唯一揺らがぬ私の真実なのだ…」
それだけを言い残すと、殿下はそっと手を離し、扉の外へと歩み出ていった。その言葉には、なぜかふと、永遠の別れの様なさみしさが感じられる。
殿下の背を見送った私は、胸の奥に滲む苦しい想いと共に、涙を堪えることしかできなかった。
「凌雪…。大丈夫?」
「殿下は…どちらに行かれるのですか…」
私は傍にいた蕭烈微に尋ねる。なんだかいつもの皇太子殿下ではなかったような気がしたからだ。表情にも言葉にも、何か決意の様なものが確実に滲んでいた。
「殿下は…蒙成国へ…」
「蒙成国?」
「皇帝陛下に、会いに行かれたのです」
「……」
「前話した通り、私の妹が蒙成国の人質になっているのはご存知ですね」
「はい…」
「既に殿下は、蒙成国の皇太子赫連 景とお話をされたのです。しかし私の妹蕭烈月の件は決裂した。慶淵王殿下が、あちら側に就いたからです」
「え?」
「我が景国は、天黎国と共に、蒙成国に妹・烈月を返還するように申し立てるつもりでした。
私の妹は赫連 景の一存で、祖国に戻れぬのですから」
「……」
「初めは景国と天黎が組むことで蒙成が怯みました。妹の返還要求の殿下との密談に赫連 景が応じたのですから」
「……」
「しかしその後、赫連 景は掌を返した」
「……」
「慶淵王によって天黎の兵の半分が、蒙成に就いたからです」
「そんな…」
「慶淵王は、蒙成国と手を組むことで、烈月を返還せぬ事、そして蒙成の軍事を慶淵王側に就かせる事。それを約束させ蒙成国と一緒に天黎に攻め込むつもりなのです」
「すぐに父上に言わないと…」
「大将軍・凌孟昊には、皇太子殿下がすぐに伝えてあります。
そして陛下と景国にもそれは伝令済みだ。
天黎では、水面下で既に兵の準備もされている。
ただ…華琳公主の事もあり、蒙成国の皇帝・赫連 玠辰の目が黒いうちは、まだ一抹の望みがあるのではないかと。それで今回、皇太子殿下が交渉に行かれるのです」
「……」
「陛下の目下の憂いは、寧王殿下がどちらに付くか」
「それって…もしかして陛下を裏切って、慶淵王殿下に付こうとしているという事ですか?陛下は御父上、父凌孟昊は、寧王殿下の義理の父になるのですよ?!」
「これは…陛下と皇太子殿下にはお伝えしていないのですが…」
「なんなのですか」
「どうやら寧王殿下は、慶淵王と蘇貴夫人のお子の様なのです」
「……。…え?慶淵王殿下の…」
私は…それを聞いて足元から崩れ落ちそうになる。そんな…寧王殿下が陛下のお子ではない?
もしそれが真実なら、義母上の蘇貴夫人も、慶淵王殿下もただでは済まされない。
陛下に知られてしまえば…寧王殿下でさえもどうなるかわからないのだ…
だから…慶淵王と一緒に陛下に反旗を翻すと?
――そう言えば以前、偶然寧王府で聞いた話。
≪子は親に従うものだ!≫と言う、あの慶淵王殿下のお言葉…
それでは、殿下も慶淵王殿下が実の御父上だと御存じたと…そう言う事ではないだろうか。
私はよろよろと、側にある八卓の淵に手をかけ、蕭烈微に心配される。
「凌雪、大丈夫か?!」
「あ…、…あぁ…」
「ちょっとここに座って…」
私は側にある、黒檀の椅子に腰を下ろすと、蕭烈微が傍に合った杯に水を汲んでくれた。
それを飲む気にもなれず、呆然とする…
「凌雪…寧王李璿を、すぐに説得してくれないだろうか…」
「…私…が?」
「寧王殿下が、陛下の側に就けば、こちら側にも勝算が出る。けれどこのままでは陛下と皇太子殿下に勝ち目がない。もうあまり時がないのだ」
「そんな…だって景国が、付いているのでしょう?」
「今我が国の軍は、蒙成国には到底及ばない…」
私はそれを聞いて、両手で顔を覆った。
もしも、寧王殿下が慶淵王側に就いて天黎を攻めれば、陛下と皇太子殿下のお命が危ぶまれる…それだけではない。父も兄も……一体どうなってしまうのだろうか…
寧王殿下のご性格だと、そのような事を、決して許すような方ではないはず。
そう言えば、最近しつこく慶淵王殿下が寧王府に来られていた。軍営にも何度も来ると、殿下は苛立たれ…
それは、寧王殿下を、そちら側に囲い込むため?
「私に…できる事が、あるのでしょうか…」
「凌雪、出来たら寧王殿下をこちら側に。皇太子殿下のお味方に付いて欲しいのだ。慶淵王殿下は、きっと蒙成との戦の前に、暗殺されるだろう」
「暗殺?!」
「こうなれば、仕方がない事だ」
「でも、寧王殿下の御父上なのでしょう?!」
「もう、そんな事を言っている余裕はないのだよ!」
この時、今まで見たこともないような蕭烈微の険しい表情を見る。
それは今までの美しい女子の顔とは違う。化粧をしていてもはっきりとわかる皇子としての凛々しさがそこにはあった。
「国王赫連 玠辰への親書を携えての訪問が、もし決裂に終われば…すぐにでも戦は起きるでしょう」
そうため息をついた蕭烈微を、私は黙ったまま見つめていた。
私の知らない所で、とんでもない事が起きようとしている。
穏やかな日常の裏で起きている、権力と私欲の争い…
私には祈ることしかできない…
「きっと、避けては通れないだろう」
その蕭烈微の言葉も…黙ったまま…私には聞いている事しかできなかった。
蒙成国との戦…そして慶淵王殿下の暗殺。
それから…寧王殿下が慶淵王殿下のお子かもしれないという事…
「あ…私は…王府に戻らねば…」
「そうだね。そこまで送っていくよ…」




