第七話 水面下の陰謀―慶淵王李昶府にて―
皇宮の裏手にある慶渕王府の敷地の外れ、半ば廃れた別院の地下に地上では忘れ去られたようなあばら家がぽつんと建っていた。
そこにしのび口から地下へと続く階段を降りると、まるで別世界のような密談の間が現れる。
「青霧の間」と呼ばれるその場所は、香りに混ぜた毒の煙で不意の侵入者を無力化する細工が施されていた。
壁には一切の装飾もなく、声が外に漏れぬよう特殊な構造だ。
扉は二重になっており、開閉の際には外側の通路に仕込まれた機械仕掛けが鈍い音を立てて作動するため、外から誰かが近づけばすぐに察知できる。
そこには沈黙が満ちていた。
微かに燻る香の煙が、青白い靄となって天井へ昇っていく。
誰も最初の言葉を発しようとしない。
重々しい沈黙を破ったのは、慶淵王李昶の低い声だった。
慶淵王李昶は、玄皇帝の実の弟にあたる。
「……愚か者ども達が。たった一人の若造に手傷を負わされるとは。」
彼の声は乾いていて冷ややかで、部屋の空気を一段と重たくした。
その言葉には、冷たい侮蔑が込められている。
あの夜、皇太子煊王李煌 と側室になる凌媛羅を、暗殺するはずだった襲撃は、護衛の韓昭の乱入により失敗に終わった。
刺客は5人全員が討たれ、皇太子李煌は軽傷を負っただけ。
宮中は一時騒然となり、皇太子専属護衛・蒼羽隊の警備は今や倍以上に強化されている。
黒襲門の門主・獄風が低い声で答えた。
「剣の技量はかなりの物でした。皇太子の護衛の一人、韓昭です。
しかし次こそは!」
怒気を背に、失態を恥じているのが見て取れた。
内通者の大臣韓清之が、そこでわざとらしい咳払いを一つする。
「問題は皇太子が生きている事だけではないのです。
周囲が「陰謀」の存在に、気付き始めている。
若手官僚の間では、すでに裏切り者の「大臣粛清案」が出回り始めたとか…もしこの王府にまで調べが及べば…」
そこまで言いかけて言葉を止める。
その時、皇太子煊王李煌の異母弟・寧王李璿がゆっくりと口を開いた。
「私は、この事には一切関与したくありません。
叔父上、今回の件はもはや無謀です。」
沈黙が一瞬場を支配した。
寧王の瞳には、微かに怯えとも見える光が揺れている――
「私は帝位どころか、皇太子の地位もいらないのです。
叔父上の操り人形になるつもりはありません。」
その言葉には、明らかに距離を置く意図があった。
そこにいる誰の顔にも、わずかながら士気が下がったのを感じる。
慶淵王李昶が静かに目を細めた。
「“皇太子になりたくない”だと?
お前が皇太子にならねば、この計画は始まらないのだ。」
「寧王殿下は本当に欲がない。一体どなたに似たのやら。」
そう言って韓清之が薄ら笑いを浮かべ、ちらりと慶淵王を見た。
「私が煊王を狙う理由は、ただお前をその位置につける為ではない。
先帝からの晴れぬ積年の思いが、私にはあるのだ!」
寧王の言葉に、慶淵王は感情的に拳を強く振り下ろし案(机のこと)を叩く。
一瞬の静寂ののち、韓清之はゆっくりと頷いた。
口元には冷ややかな笑みが浮かんでいる。
「慶淵王のそのお心、私はしかと胸に刻みます。」
「寧王も少しは腹をくくれ。
そのようなことではいつまでたっても、偉業など成し遂げられるものか!」
寧王李璿はそう言った慶淵王を、黙って見つめていた。
「まずは民の心を、大将軍と皇太子から引き剥がす。
その後で煊王の息の根を止めよ。」
「凌家の凌媛羅を、使いましょう。」
「凌家の?」
韓清之の提案に、寧王が思わず聞き返した。
「媛羅を捕まえれば、皇太子が助けに来る。その時二人とも殺せばいいでしょう。」
そう言うと韓清之は、口の端をゆがめてにやりとした。
「そう言えば、この前襲った『凌媛羅』だと思っていた女子は、妹の凌雪でした。」
その時獄風が思わぬことを口にし、思わず寧王李璿は彼の方を見た。
それを聞いて慌てる寧王の様子は、なぜかこの期に及んで腑に落ちない。
慶淵王は不審な思いで彼をじっと見た。
「獄風よ。黒襲門の精鋭に、今度は凌媛羅を捉えさせるのだ。
それを餌に皇太子を呼び出し、二人まとめて始末させよ。」
「はい。」
獄風が慶淵王のそれに、力強く応じる。
「凌将軍の事は、その後だな。
≪娘が殺されたことを、皇太子のせいにして根に持ち
後に謀反を起こす企てをしている。≫と濡れ衣を着せる計画で行こう。
家はお取りつぶしになり、息子の玄洵もまとめて処分できるだろう。」
そう言った慶淵王の言葉に寧王は小さくつぶやく。
…「凌家の娘を…」
「どうしたのです、寧王殿下。何か意見でも?」
韓清之は怪訝な顔で、李璿を見た。
「あ、いえ。…叔父上。」
「なんだ、寧王。」
李璿は、ひと呼吸置いてから静かに言った。
「……娘まで狙うのは、やりすぎでは。この件は、もう少し様子をみませんか。」
「様子を見る? どれほどだ? 一年か? 二年か?」
李昶は荒々しく案を叩く。
寧王の言葉に憤り、大きな声で感情を爆発させた。
「もう悠長に構えていられる時ではないのだ!
獄風、次こそは決して失敗するな。抜かりなくやれ!」
重く沈んだ声に、そこにいたすべての者が頭を垂れ静かに頷く。
だが、ただ一人――寧王・李璿だけは、目を伏せたまま動かない。
その眼差しの奥には、この場の誰にも明かせぬ“ある想い”が、冷たい火のように灯っていた。
──このままでは、全く望んでいない事の方に事が動いていく。
寧王は声に出さずそう呟き、黙ったまま彼は拳を強く握りしめている。
その眼差しの奥には、誰にも語れぬ“別の意思”が、静かに灯っていた。
──いつまで、この座に従い続けられるだろうか。
その問いは、言葉にならぬまま、李璿の胸の奥に、重く沈んでいった。