第六十九話 戦いの序章
数日前、私は蒙成国との国境にある鳳関と言う町で、蒙成国の皇太子・赫連 景と会う事になった。蕭烈月の、景国への返還を話し合うためだ。
赫連 景とは、双鳳亭という、かつて両国の皇帝が和親を誓った楼閣で落ち合う事にする。
そこは白壁に朱の欄干、美しい唐草模様の彫刻が施され、四方が開けて風通しが良いところで、今では皇族や要人同士の公式会談専用に使われていた。
私が、先に到着して待っていると、すぐに赫連 景が部屋に入ってくる。
浅縹の長衣に黒金の帯。細身ながら芯の強さを感じさせる体つき。鋭く整った綺麗な二重瞼が、こちらを見据えている。
その目元には笑みとも警戒ともつかぬ色が浮かび、何を考えているのか容易には読めない。
「お待たせした。天黎の華殿下・煊王李煌殿」
挑発のような、その言葉に眉をひそめつつも、私は一礼で応じた。
「貴殿がどの名で呼ぼうとも、今は天黎の皇太子としてここにいる」
「では、我ら皇太子同士として、腹を割って話すとしよう」
彼はそう言ってふと笑みをこぼすと、卓を挟んで向かいに腰を下ろした。
双鳳亭の上座に並んで座る我々を、彫刻の鳳凰たちが静かに見守っていて、沈黙がしばし続いたのち、私が先に口を開いた。
「今日は、蕭烈月の返還について、具体的な話を進めたい。
貴国の強硬派が彼女を拉致し、今も軟禁していると理解しているが、蒙成国として、それを黙認し続けるのか」
赫連 景は、卓上の香炉から立ち上る煙に目を落としたまま、すぐには答えなかった。
やがて、深く息を吐いてから、ゆっくりと私の方へ視線を上げる。
「烈月公主は、今や我が国の鍵なのだ。返せば終わる話ではない。我が国の均衡を保つため、彼女が必要なのだ」
「その利用の代償に、ひとりの姫が国を奪われ、尊厳を踏みにじられているではないか」
「わかっている。……だからこそ、今日こうして会っているのだ」
赫連 景の声がわずかに低くなる。
その表情には、ほんの一瞬、苦悩が滲んだようにも見えた。
「烈月殿を返してほしい。これは、景国との約束であるだけでなく、私個人の願いでもある」
私の言葉に、赫連 景は少し目を伏せた。香炉の煙が、静かにその横顔を霞ませている。
「……返せば、景国は安堵するかもしれない。だが、我が国にとっては“大切な柱”を失うのと同じことだ」
「彼女は“人”だ。柱ではない。…どれだけの年月、彼女が望まぬ地で心を閉ざしていたと思う?」
私の声がやや熱を帯びると、赫連 景は静かに、だがはっきりと呟いた。
「……それでも、私は彼女を手放せない」
一瞬、その言葉に、空気が凍ったように感じた。私は、彼の真意を吐き出させるため、慎重に言葉を選んだ。
「……それは、国のためか?」
「いや――私自身のためだ」
それは、紛れもない彼の本心だった。赫連 景は香炉に向けて視線を戻すと、続ける。
「私は…彼女を寵愛している。初めは人質として扱っていた。だが、時が経つうちに、彼女の真の強さや気品、そして誰よりも国を想う心に惹かれていったのだ…」
私は無言のまま、彼の目を見据えた。そこにあるのは真実を告げている男の目だ。
しかし思わぬ赫連 景の本音に、私は戸惑いを隠せずにいた。
まさか、この場でそこまでの赤裸々な気持ちを、赫連 景が打ち明けるとは思っていなかったからだ。
「貴殿のその気持ちは、私にも分からなくもないが…」
そう言いながらも、私は静かに立ち上がる。
幾月も蕭烈月を景国へ戻せぬ本当の理由が、やはり、そんな事だったとは…。
自分でもどうしようもない、赫連 景の恋心なら、私にも理解できるような気がした。皇太子であると言う立場ゆえの、その苦悩も…。
きっと、華琳との婚姻があるため貫けぬ感情があるのだろう、かといって蕭烈月を手放したくなく…
正室が華琳と決まっている以上、娶ると言っても蕭烈月は側室になってしまう。
沈嶺の報告では、蕭烈月は「側室になどならぬ」と言っていると聞いた。
表向き、人質だという事にせねば、赫連 景は蕭烈月を側におけぬという事なのか。
しかし、本当に蕭烈月が望んでいるのは、祖国への帰還だ。
蕭烈微の話を聞けば、それは本当に彼らの切実な願いであることがわかる。
窓の外には、沈みゆく夕陽が辺境の山々を照らしていて、徐々に日が暮れ始めたのを知らせていた。しかし話し合いは、この時まで平行線のまま…
「だが、彼女は国と共にあるべき人間だ。蒙成国の鎖に縛られ、寵愛の名のもとに自由を奪われていい人ではないではないか」
「……その自由が、彼女を不幸にしないと、断言できるのか?景国は今や、国力も衰え列強一国だった時代は終わり、息も絶え絶えではないか」
赫連 景の問いは鋭かったが、私は即座に答えた。
「できる。彼女の居場所は、決して奪われるものではない。烈月殿自身が選ぶべき祖国だ。…私は、その選択肢を取り戻しに来た」
しばしの沈黙ののち、赫連 景はわずかに口角を上げた。
「本当に…正論しか言わぬ男だな」
赫連 景は椅子から立ち上がり、手を後ろに回したまま言った。
「……近く、大きな波が来るだろう。返還の話も、私ひとりでは決められないが、善処は考えよう。私は…烈月公主を守りたいと思っている。その幸せを誰よりも願っているのも私なのだ」
それが、皇太子の顔ではなく、一人の男として蕭烈月を想う赫連 景の本音だった。
私はその言葉を心に刻み、ゆっくりと頷く。
「李煌殿、それと…」
「……」
「天黎は、今、一体どうなっているのだ」
「どうなっているとは?」
「妃殿下の頼みとは言え、他所の事に口を挟んでいる場合ではあるまい。兄弟は他人の始まりというではないか」
「何が言いたいのだ。はっきりと申せ」
私が語気を強めてそう言うと、赫連 景は小さく笑った。
「ただ……何を優先すべきか、見極めないと大変な事になる、ということを貴殿なら分かっているはずだ」
言い終えると、彼は軽く頭を下げて、一瞬も振り返る事なく楼閣を後にした。
その後ろ姿には、烈月への譲れない想いが宿っているように見える。
静まり返った双鳳亭に、一陣の冷たい風が吹き抜けた。
それに、なぜか胸に刺さるような不安を覚えながらも、私もその場を後にする。
―――そして天黎に戻り、三日目の夜。
密かに間者として蒙成国に接触していた沈嶺が、重大な報せを持って来た。
「あの後、慶淵王殿下と赫連 景との間で、密談がございました。内容は――“烈月殿の返還の阻止と、軍兵連携の盟約”――でございます」
私はそれが書かれた書簡を手に取り、深く息を吐いた。
赫連 景――あの男は、蕭烈月に情愛を抱いている。だからこそ、私に引き渡す素振りを見せながらも、裏では慶淵王と手を組み、“天黎を欺き、烈月を手元に留める”策を講じたのだ。
そして、この国の内にも、やはり裏切り者がいた。
慶淵王は叔父だからこそ、見て見ぬふりをし、信じようとさえしていた自分がおろかな気さえする。
慶淵王の反旗…これはもう紛れもない事実でしかない。そして、まさか外の国とも、繋がっていようとは。
私は文を握りしめ、低く呟く。
「――蕭烈月を奪い返す。その時には、内にも外にも容赦はしない」
月の光が差し込む部屋の中、私は戦の火蓋が、静かに切って落とされたのを感じていた。
その後すぐに、私は蕭烈微の部屋を訪れ、事の次第を報告した。
彼は私を見るなり、その時磨いていた剣を置き、八卓の前に腰を下ろした。
男だと分からぬよう、昼間はやりかけの刺繍や、書きかけた書などを散らしてはいるが、やはり素性は出てしまうものだ。いつかは父帝に知られてしまうのではないかと、肝を冷やすこともある。そのため、蕭烈月を一刻も早く奪還したい。
蕭烈微の向かいに腰を下ろすと、私は深いため息を一つついた。
「赫連景は…やはり、蕭烈微を返還するつもりはないようだ」
「天黎の軍を、目の前にしてもですか?!」
「叔父上が……どうやら慶淵王が蒙成国と手を組むらしい。
沈嶺が、そう報告してきた。叔父上が蕭烈月奪還を阻むと…。その見返りに蒙成国の軍が叔父と手を組むそうだ」
「それでは、慶淵王が謀反を起こすのは、時間の問題ではないですか!こちらも早急に準備をせねば」
「蕭烈微、正直に申せ。今景国の兵力はいかほどなのだ。もし叔父が謀を企てるとしたら、それ相応の準備をするはず。我々にもし景国が付いたとしても、勝算があると見越しての事だろう」
「殿下は、寧王殿下が慶淵王側にはつかぬと…」
「凌雪に子もできた。寧王の性格なら、絶対に迂闊な真似はせぬはずなのだが…。もし、沈嶺が持って来た情報が全て本当なら、陛下にもうこれ以上は黙っておけぬ」
「それが…。寧王の動向が、私は不安なのです…」
「なぜだ」
「今日、皇后の茶会で寧王妃に会ったのですが…。様子が変でした」
「凌雪が?」
「一昨日、寧王殿下とご一緒に、陛下へ懐妊のご報告も済まされたとお伺いしていましたが、蘇貴夫人も口重く、こう…なんと言うか…懐妊というよりは、死者が出たような重苦しい雰囲気で…」
「口を慎むのだ!縁起でもない」
「いや、それが気になって、実は茶会の後、王妃に尋ねてみたのです」
凌雪の事を、男としてあのように言っていた蕭烈微の事が、気にはなってはいたのだが、彼は皇太子妃として凌雪と仲良く過ごし、悪阻で具合が悪い凌雪を見舞っていたりと、まるで姉妹…いや、兄妹のように穏やかに過ごしていた。
だからあれから凌雪の話を、唯一蕭烈微を通して聞くこができていたのだが…
「一体、何が起きたと言うのだ…」
「正妃の懐妊を、寧王殿下が、あまり喜ばなかったと」
「……」
「蘇貴夫人が掌を返したように、寧王を裏切っていると、そうも言いだしたそうで…」
「裏切っている?」
「なんの事だか、よくわからなかったのですが、寧王妃の子が、“寧王以外の男”の子ではないかと」
「そのような事が、あるはずないではないか!」
「私もそう思っています。しかし、蘇貴婦人の話では、許しがたい相手だと憤り、王妃に罵声を」
「……」
「ただ、誰にも祝福されないままだと、お腹の子が不憫だと…寧王妃が気を落としていました。確かに寧王殿下のお子なのにと…」
もしや…あれから寧王は、私と凌雪をずっと疑っているのか。凌雪の性格を知っているなら、それは絶対にないと分かるはずではないか。王に子ができるという事は、世継ぎになるかもしれぬ慶び事だ。それを…あれほど「私の正妃」だと、豪語しておきながら…
「王妃はあまりにも辛い思いをしているようで、つい私にお気持ちを打ち明けてしまったようでした…」
「……」
寧王は、一体何を考えているのだ。
私は八卓の上に置いた両手を、力強く握りしめると、寧王のあまりの理不尽さに怒りで震える。今どんな気持ちで、凌雪が過ごしているのか…。
それを思うだけで、胸が締め付けられ、すぐに駆け付けて慰めてやりたい気がした。
「赫連 景は、ここ数年、蕭烈月を手放そうとせず、何が何でも天黎に歯向かうつもりだ。慶淵王の兵が蒙成に就けば、こちらの兵は半減する。それを補い共に戦う兵力が、今景国にはあるのかと聞いているのだ。それに答えよ」
「それが…」
「……」
「我が景国は、蒙成に太刀打ちできるほどの兵力がないのが、実状でございます」
「では、やはり寧王の兵が要になる。慶淵王の兵が五万、凰影門が二万、そして辺境が八万…おそらく蒋玄庭の元、慶淵王側に就く」
「……」
「そこに蒙成の二十五万が付くと、凌孟昊と私の兵二十五万だけでは、とても足りない。万が一寧王が…あちらに就けば、最低でも景国に二十万はないと五分五分にもならぬ」
「今は…二十もありません…十二ほどです…」
「話にならぬではないか!」
「……」
「これは陛下と凌孟昊にすぐに相談する必要がある。そして寧王に、至急話をつけなくては」
私はそう決意し、蕭烈微の部屋から出ると、その足で父帝に相談することにする。今まで、ご心配をおかけせぬよう、詳しくは話していなかった。
自分と凌孟昊の兵二十五万があれば、慶淵王の画策など取るに足らない事だと思っていたからだ。
―――だが、叔父上の企ては、思っていた以上に進んでいた。
この天黎の皇帝の座を、今本気で狙いに来ている。
寧王は、陛下の子だ。
間違っても、叔父側につくはずがないと信じたい。
しかし…私の事を少なからずよく思っていないという事は、その風向きにも、それが影響するのではないだろうか…。あれほど慕っていた凌雪への態度が、それを物語っているではないか。
それでも、私は凌雪の事を大切だと言った寧王の言葉を信じたかった。そうでなければ、凌雪を諦めた意味がないような気がしたからだ…
けれど静かに、そして確かに、歯車は狂い始めている。
寧王の決断――それはただの「弟の選択」ではない。
敵か、味方か。
そのわずかな傾きが、天黎の命運を分ける。
寧王がこちらに背を向ければ、この国は二つに割れ、いずれ崩れるだろう。
父帝が積み上げてきたものすべてが、無為に帰す。
いや、それどころか――
私自身が、凌雪を諦めてまで選んだこの国の未来も、信じて進んできた道も、
すべてが音を立てて崩れ去ることになるだろう。
そして私は、何のために、何を守ろうとしてきたのか――
その答えすら、見失ってしまうのかもしれない。




