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第六十六話 彼女の嘘

私は兄上を問いただした後、どうしても王府へ戻る気にはなれず、母上の処へ参内したのち、そのまま皇宮に泊まることにした。


寝台に転がっているがなかなか寝付けず、何度も寝返りを打っているとふと、凌雪の部屋で見つけた、小さな瓶の事を思いだす。


あれは婚儀の次の日、陛下への参内を済ませた後、一緒に凌雪(りょうせつ)の荷物を整理していた時だ。


化粧箱の横に、小さな片手で握れるほどのガラス瓶が置いてあり、中には濃く赤い液体が入っていた。


私は、凌雪が部屋を出たちょっとした隙に、それが何かと気になり蓋を開けて嗅いでみる。それはとても生臭く、何か動物の血のようなものだと気が付き慌てて蓋を締めた。


あの時は、なぜ凌雪があのような物を持っていたのか、気にもとめていなかったが…

――動物の血。

 

小瓶に満たされた赤黒い血を思い出した瞬間、私の心が、ほんのわずかに揺れた。何のために、凌雪はあれを——。

 

護符ではない。薬とも違う。血などという不浄なものを、わざわざ密かに持ち歩く理由が他にあるだろうか。

脳裏をかすめたのは、呪詛(じゅそ)という二文字。


――――もしや私を……呪おうと?

 

静かに笑って、礼を尽くし、私に従うふりをしながら——心では、呪いを刻んでいたのか。

叔父上が言うように、もし兄上と秘密裏に婚儀をしていれば、二人が結ばれる為には私が邪魔だという事かもしれぬ。


それから今度、反対側に寝返りを打つと、”凌雪に限ってそんな事はあるまい”と、小さく頭を振る。


もしかしたら、あれは血ではなく何かの毒?

いつかそれを使って、私を殺そうと…だから房厨(ぼうちゅう)(厨房)で自ら料理を??

そう思うと、背筋が凍るような気持になり、再度寝返りを反対側に打つ。


こんなことなら、今日すぐに王府へ戻り、直接凌雪に尋ねてみればよかった。

これでは朝まで眠れそうにないではないか。


叔父上にあまりにも洗脳されて、私もどうにかなってきたようだ。


そばに居る私が目にする凌雪は、そのようなそぶりは何一つない。だからこそ、今まで叔父上の話には、耳を貸さないようにしていた。

けれど…叔父上が言っていた上奏文は、本当に存在した。更に兄上は、凌雪と私の破談まで上奏していたと言う事実…


兄上の性格と、皇太子というお立場から考えても、それは凌雪が、自分の事を慕っていると言う確信がないとできないはずだ。そしてかなりの決意が無ければ…兄上は決してそのような事はしない。


叔父上は、言っていた…


魅影(みえい)の話では…凌雪は、皇太子と密かに婚儀を行っていたそうだ≫

≪二人は、皆を欺き、既に婚儀を行っていたのだ≫



叔父上の細作(さいさく)(スパイ)の情報収集力は、天黎でも一、二を争うほどの正確さ…

兄上は先ほど「知らぬ」と言ったけれど…やはり、叔父上の言う方が真実なのでは?


――まさか、凌雪は、兄上と既に本当に婚儀を?


私は、寝台から咄嗟に体を起こすと、ふと格子の外に目をやった。

次第に空は明るみ始め、どこからか小さな鳥の声が微かに聞こえる。


しかし、今寧王府に戻るには、些か早すぎる気がしないでもない。


母上は、”凌雪に限ってそのような事はない”と言っていたが、ご自分も父帝を裏切り叔父上と…

女子は、(まこと)わからぬものではないか。

裏切っておいて、平然とした顔で嘘をつく。


それに母上は、他の男の子を身ごもりながら、陛下の子だと嘘をついている…


その立場を守るために…


私にはそれも、頭が痛い話だ。


本当は父帝の子ではなく、叔父上の子だと言うとんでもない事実…


いつか、誰かに知られてしまえば、私は一体どうなってしまうのか。


…いや、それだけではない。母上や叔父上も、死罪になってしまうのでは?



「なんと恐ろしいことだ…」


私はこれから、全ての事に蓋をして生きていかねばならぬのか。これから先、どうすればよいのだ…。


私にとって凌雪は、本当に宝のように愛しい存在だった。

しかしもしも、叔父上が言うように、兄上との婚儀が真実であるならば…


私はずっと、あの笑顔の裏に欺かれていたのだ。

父帝が、母上に欺かれているかのように…



――――それから私は、結局一睡もせず、早朝寧王府に戻った。


そして朝餉(あさげ)を取るため、膳堂に行くと入り口の所で、韓碧心が私を見て驚いている。


「殿下、いつお戻りになられたのですか?昨日は一体なにが…」


そう不安げな面持ちで尋ねて来る韓碧心(かんへきしん)には、父帝に相談したいことがあり遅くなったとそう伝えた。それになんの疑問も持たず、彼女は卓に着くと、膳を運んでくる侍女と和やかに話をしている。


そこには、普段と何も変わらぬ、日常の朝があった。


朝の光に包まれた膳堂には、ほっとするような米の甘い匂いが立ち込めていて、それがまた私の心を平常心に導くのに一役買っている。


ふと気づくと、ここに凌雪の姿が見当たらない。

そこへいそいそと入って来た侍従の魏伯然(ぎはくねん)に、凌雪はどこにいるのかと尋ねた。


「正妃は、お身体の具合が悪くご気分も優れぬようで…。今朝は起き上がれないそうでございます」


それを聞くと同時に、私はすぐに立ち上がり、韓碧心に“先に食べている様に”と伝え、そのまま翡翠居(ひすいきょ)に足を向ける。凌雪がいる翡翠居までの渡り廊下には、彼女が植えた花が可愛らしく咲き誇り、私の不安を、ほんのりと慰めてくれているような気がした。


その後を、なぜか魏伯然が笑みを浮かべ、軽やかな足取りでついてくる。


私が不意に立ち止まると、この背に軽くぶつかり虫が潰れるような声を上げた。


「で…でんふぁ…」


弱弱しい声で私の名を呼んだ伯疑念を振り返り、私は軽く苛立ちをぶつけてしまう。


「一体何が、そんなにうれしいのだ」


想像もしていなかったであろう、私の険しい表情を見て伯疑然は、誤魔化す様に自分の鼻を指先で摩った。


それを見て、踵を返しまた凌雪の部屋へ向かう。


そして凌雪の部屋の木格子の扉の前に立ち、大きく息を吸い込むと、心臓の鼓動が大きく音を立てるのを感じた。


叔父上が言うように、もし私を裏切っていたとしても、凌雪が私に違うと言えばそれを信じよう…そうすることで今の状況を全て受け入れるのだ。こんな疑念からは早く解き放たれたい。

そう決意した瞬間、隣で魏伯然が、部屋の中の凌雪に声を掛ける。


「正妃、寧王殿下がお戻りになりました。ご案内してもよろしいでしょうか」


私の中で静かな緊張が走り、思わず息を飲んだ。


その彼の声に、凌雪が消えるような声で返事をし、それを聞いてから私は凌雪の部屋の扉を開く。日中だというのに室内は薄暗く、わずかな薬草の香りが漂っていた。


寝台に横たわる凌雪の姿が、ぼんやりと視界に入る。

顔色は蒼白で、額にはうっすらと汗が滲んでいて、明らかに体調を崩しているのが見て取れた。


私が部屋に入ったことを確かめた瞬間、彼女の体がびくりと震えたように見えた。

そして、重たげな瞼をゆっくりと開け、私の方へ視線を向けたかと思うと、弱々しい腕で懸命に身を起こそうとする。


「寧王殿下…」


か細い声が、辛うじて喉から絞り出され、その無理に笑顔を作ろうとする表情は、痛々しいほどだった。


なぜ、そこまで私に弱みを見せたくないのか。

今は、気丈に振る舞う彼女の姿を見ると、胸の奥が締め付けられるような気がする。


「大丈夫なのか…一体どうしたのだ…」


私は、聞きたいことも忘れ、凌雪の体の事を心から心配した。昨日一晩留守にしたせいで、その不調を気づいてもやれず心苦しく感じる。そう言えば最近、少し痩せたようだ。それにいつも顔色が悪く、食欲もあまりない。


「殿下…お話したいことがあります…」


凌雪は、私の方に姿勢を正すと、その何の曇りもない目で私を見据えた。

その目を、私はいつも信じて来たのだ。なのに…


「凌雪、私も聞きたいことがあるのだが。先に話しても良いか」


そう言うと、黙ったまま私をじっと見つめていたが、私は彼女の返事も待たずにそれを続けた。


「実は…兄上との事なのだが…」


「……」


私の言葉に、凌雪の瞳がわずかに揺れたのがわかった。


普段の彼女なら、すぐにでも「どのようなことでございますか」と問い返してくるはずだ。しかし、彼女は口を閉ざしたまま、ただ私を見つめている。その沈黙が、私の胸に重くのしかかった。


「…お前は、兄上を……慕っていたのか?」


喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。問い詰めるような言葉になったが、どうしてもこの目で、この口で、真実を確かめたかった。


彼女の顔色から、血の気が引いていくのがわかる。

一瞬、俯いた凌雪が、やがてゆっくりと顔を上げた。

その眼差しは、覚悟を決めたようにまっすぐで、何の迷いもない。


「……はい、殿下。婚姻前から、私の心には……煊王殿下がいらっしゃいました」


私の息が止まった。まさか、隠そうともせず、これほど率直に告白するとは。

言葉を選ばず、飾らない純粋な真実が、まるで鋭い刃のように私の胸を貫く。


「……しかし、それは、もはや諦めた想いでございます」


凌雪の声は、静かだったが、その中に秘められた痛みがひしひしと伝わってきた。

兄上を諦めた、と。


その言葉を聞いても、私の胸の痛みは少しも和らぐことはなかった。むしろ、彼女の心の中に、私ではない誰かが、確かに存在していたという事実に打ちのめされる。


彼女が、私に向けていた穏やかな笑顔の裏で、このような切ない思いを抱えていたのかと思うと、胸が(えぐ)られるようだった。


「……なぜ、それを私に告げるのだ……。黙っていてくれれば、それで良かったものを……」


私の言葉は、本心だった。知らなければ、この痛みを感じることも、彼女の心の中に、兄上がいるという事実に苦しむこともなかった。


凌雪の正直さが、私にはあまりにも残酷だ。

彼女は、私の言葉にわずかに目を見開いた。


「……殿下を、欺きたくなかったのです。寧王妃として、殿下のお傍に仕える身として、偽りの心でいることは……できませんでした」


そのまっすぐな瞳は、私を深く見つめている。彼女の誠実さは、疑いようもない。だが、その誠実さが、今の私にはあまりにも重すぎる。私はただ、目の前の凌雪の、その揺るぎない眼差しから目を離すことができなくなった。


「では…今は…」


兄上の事を、どう思っているのか…思わず聞いてしまいそうになる。


しかしそれを聞いて、どうすると言うのだ。凌雪は正妃でこれからもずっと、私のそばに居るではないか。それを聞いてしまえば、今はもっと自分の首を絞める事になるではないか。


私は、この時なぜ凌雪が、”兄上への気持ちを包み隠さず告げたのか”と恨みにさえ思った。彼女の今の本心など知る由もなく、叔父上から聞かされた事実を確かめずにはいられなくなる。


恐ろしく、禍々しいそれを口にするのも憚られるのに…


「兄上と…婚儀を…挙げたと言うのは事実なのか…」


「……」


それを凌雪は肯定も否定もせず、黙ったまま私をじっと見つめている。


沈黙が、途方もなく長く感じた…。しかしきっと、それはほんのわずかな時間だったのだろう。


「決して…その様な事は…」


私から目を逸らし、答えるのがやっとといった様子だが、それを耳にした途端私は彼女を両腕で強く抱き寄せた。


「凌雪…」


この苦しい気持ちは、どこに持って行けばよいのだ。

他の誰でもない、兄上の事を慕っていたと言う事実…。


きっと叔父上の話は、全て本当だろう。私にはわかる。これは凌雪が付いた、私への優しい嘘なのだ。


私は、それを信じたふりをした。しなければならなかった。

凌雪を、失わないためにも…。


―――ここに、上奏文の様な目に見える証拠はないのだから。


そんな私の背中に、彼女は恐る恐る両腕を回す。

そしてその目は、まるで怯える小鹿のように震え、私から微かに目を逸らした。

私の中には、心臓を掴まれたような痛みが走り、怒りとも悲しみとも言えない、複雑な感情が渦巻いている。


しかしこれが、彼女の裏切りと、兄上を弾劾するこの気持ちに、私が蓋をした瞬間だった。





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