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第六十五話 足元から崩れ落ちる世界

寧王が…知ってしまった。

私が書いた、寧王と凌雪(りょうせつ)の婚姻の取り消しを願う上奏文と、私達の瑞祥寺(ずいしょうじ)での誓いの事を…。


あの様子では、間違いなく凌雪は寧王に問いただされる。

そのような事になれば、凌雪の性格なら、きっと嘘などつけぬであろう。


「まずい」


「殿下…」


「韓昭、先ほど灯りをつけに来た宦官の話では、寧王は今日王府には戻らぬらしい。凌雪は寧王に問いただされると、きっと黙っている事などできぬであろう。すべてを打ち明け、ひたすら謝罪する。そうなれば寧王が許すはずもなく…」


「どうされますか」


「悪いが、皆にわからぬよう、すぐに寧王府へ行ってくれないか。凌雪に伝言を頼みたい」


「はい」


「それから…」


私は(あん)(つくえ)の引き出しから小刀を出すと、少し髪の先を切り自分の香袋にそれを入れる。


「殿下!おやめください!!」


韓昭はそれを見て、慌てて止めようとした。

髪は、親からもらった命の分身の様なものだからだ。しかし、私は凌雪に事の重大さと、私の覚悟を伝える為、それを韓昭に託ける。


「韓昭、これから私が話すことを、よく聞くのだ」


「…はい。…なんでございましょうか」


「まずは、私の書いた上奏文が、凌雪の元にあるかどうかを確認してきてくれないか。凌孟昊(りょうもうこう)が、あれは”凌雪が持っている”とそう言っていたのだ」


「はい」


「それから、寧王が王府に戻る前に、先にこの話を凌雪に伝えよ。

私は、事の次第と本心を伝えたと。しかし凌雪の気持ちを知らぬまま、私は上奏文を先走って陛下に啓奏した事に…。そして私達の秘密裏の婚儀は「知らぬ」で通したので、決して言うでないと」


「はい」


「すぐにこの話が、誰から漏れたのか調べよ。蘇嬢(そじょう)の兄弟からではなく、間違いなく他だ。それを突き止め、他も厳重に口止めするのだ」


「わかりました」


「凌雪には、必ず白を切るように伝えよ。でないと寧王が、何をするかわからぬ」


「はい」


「それから…これを…凌雪に渡して来てほしい。上奏文の事が寧王に知れた以上、私が凌雪にこれ以上近づけば、その命に関わる…」


「殿下…」


「この私の髪を渡し、”しかし決して、私は凌雪を忘れぬ”と伝えてきて欲しいのだ…」


韓昭は、黙ったまま私の目を見つめ、香袋を両手で受け取ると深く頭をさげた。普段、私は韓昭にはこのような任務はあまり任せない。しかし、今回は急を要した。


もし私と関係があったと寧王に知られてしまえば、乱倫行為とみなされ、陛下の耳に入れば凌雪の命にもかかわってくるのだ。


その後、夜の帳がすっかり下りた頃、彼は闇装束に身を包み、私の元を後にした。



韓昭が出て行った後、私は気が気ではなかった。


彼が戻ってくるのを、今か今かと太子府で待ちわびる。

この身勝手な気持ちの暴走のせいで、凌雪の命を脅かしかねない事態になってしまった。


しかし、この苦しい気持ちは、どこにもやることができず、凌雪が寧王と添い遂げるのを、死ぬまでそばで見ているしかないのが私の(さだめ)だとしたら、なぜ私はこの世に生まれてきてしまったのだろうか。


あまりにも辛すぎる…。


静寂に包まれた太子府の広間で、私はただ一点、扉を見つめていた。

刻一刻と過ぎる時間が、鉛のように重く感じられる。どれほどの時が経っただろうか。遠くの空が僅かに白み始めたその時、かすかな物音が耳に届いた。


「…殿下。ただいま戻りました」


声と共に闇装束の韓昭が、まるで影のように部屋の隅から現れた。その顔は、夜の任務の疲れを滲ませていたが、彼の表情からは、読み取れるものが何もなかった。


私は逸る気持ちを抑えきれず、思わず立ち上がり、彼に足早に駆け寄った。一睡もしていないが、頭の中は妙に冴えわたっている。


「韓昭…、凌雪はどうだった?」


私の問いに、韓昭はゆっくりと歩み寄り、静かに頭を下げた。


「お伝えいたしました。殿下の御髪と、お言葉も…。殿下がおっしゃられていた通りに」


私は固唾を飲んで、次の言葉を待った。しかし、韓昭は口を開こうとしない。その沈黙が、私の胸に不吉な予感を募らせる。


「それで、凌雪は…何と?」


ようやく絞り出した私の声は、ひどく震えていた。


「寧王妃は…、やはり上奏文をお持ちではありませんでした。どうやら知らぬ間に無くなっていたようです。おそらく慶淵王の間者が持ち去ったのかと」


「やはりそうか…」


「それから、この件は妓楼の芸妓からどうやら漏れたようです。蘇芸霞(そうんか)に言って、その芸妓を景都の外に行かせるよう手配しました。他も固く口留めを」


「……」


「それから…」


韓昭は、一瞬躊躇するような素振りを見せた後、静かに続ける。


それは、彼にとって”最も私に伝えにくかったこと”に、違いなかった。現に韓昭の膝に置いた右の拳は、小さく震えていたからだ。



「寧王妃は、『寧王の子を身ごもったと、殿下にお伝えください』と……そう仰せでございました。『これから先は、私の事は忘れてください』と…」


「……」


「『私は…皇太子殿下を心からお慕いしていました』と…泣き崩れておいででした」


「……」


その言葉に、私は全身が石のように固まり、呼吸することさえ忘れていた。

心臓の音が、どこか遠くで鳴っているように響く。


世界が色を失い、音が消え、ただ凍てつく沈黙の中に放り込まれたようだった。

まるで、自分という存在ごと、誰かに奪われてしまったような――そんな感覚に呑み込まれる。


韓昭の声が遠く、かすかに響き何かを伝えているが、何も耳に入ってこない。

それから私は…全身から、血の気が引いていくのを感じていた。


「凌雪が…子を?」


膝から崩れ落ちそうになるのを必死で耐え、私はただ呆然と韓昭を見つめる。

凌雪が、寧王の物なのだと言う現実が、私に襲い掛かってきた。これで、何もかも全て終わってしまった気がする。


私達はこれから先決して、己の気持ちを面に出すこともなく、全ての記憶を忘れたかのように生きていかねばならないのだ。


韓昭は頭を下げたまま、それ以上言葉を発しなかった。


私の気持ちを、一番わかっているのが彼だった。きっと、私の今の心の中を見透かし、何も声がかけられなかったのだろう。


黙ったままの私の名を、彼は遠慮しながら小さな声で呼んだ。



「…皇太子殿下…」


「あ…、なら…それを聞けば…寧王も……気が晴れるのではないか…」


「…」


「後は、寧王の機嫌が戻るのを待とう。韓昭、ご苦労だったな…」


平常心を保ちながら、何とかそう言うと、韓昭はもう一度深く私に頭を下げる。


それに踵を返し、私は自分の寝所に足を向けた。


小さな鳥の声が微かに聞こえ、新しい朝の光が、わずかばかり東宮の回廊に差し込み始めている。

後ろから追って来た韓昭が、心配そうに私に声を掛けて来た。


「殿下、少しでもお眠りください。一睡もしておられないのでは」


その声に、小さく頷くのがやっとで、ぼんやりとした足取りで私は部屋に戻った。


寝台で体を横にすると、そのまま仰向けに天蓋を見つめる。


豪華な刺繍が施されたそれが、ぼんやりとした灯りの下で静かに頭上に広がっていた。


その絢爛な布地を見つめながらも、私の瞳は遥か遠く、見えない何かを捉えているようだ。


日中の喧騒も、政務の重圧も、今は遠い。

ただ静寂だけが部屋を満たし、私の思考を深く沈ませる。


凌雪を寧王に嫁がせたことへの後悔と、今も変わらぬ慕情。


そして、偽りの皇太子妃として隣に立つ蕭烈微(しょうれつび)の存在。

――その秘密が、どれほどの危険を孕んでいるのだろう。


自身の立場、国の未来、そして何よりも、愛する者たちの運命が、この天蓋の向こうに広がる暗闇のように、不確かで重くのしかかっていた。


そして何よりも、凌雪が懐妊したという報せが、私の心を打ち砕く。


「凌雪が……寧王の子を……?」


その事実が、鉛のように重く、私の胸に沈み込む。

愛する凌雪が、”別の男”の子を宿した。


それは、私と彼女の間に、決して埋められない溝ができたことを意味する。


今まで、例え一緒になれなくとも、心だけは繋がっていると信じていた。いつか、この状況を乗り越え、再び彼女の手を取れる日が来ると、淡い希望を抱いていたのも本当だ。


だがこの懐妊は、その全ての希望を打ち砕いた。

もう、全てが手遅れだと、思い知らされている。


私の世界は、音を立てて崩れ去ってしまった。

天蓋の模様が歪んで見え、呼吸すら苦しくなり、私はゆっくりと瞳を閉る。


この広大な天黎(てんれい)で、己の進むべき道はどこにあるのか…


そして、本当に守るべきものを、どうすれば守りきれるのかと、開けた夜と共に私は心に問いかけていた。





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