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第六十四話 兄への疑念

軍営にいると、昼頃叔父上の使いが来て、本日すぐに慶淵王府へ来るようにと伝令に来る。


まったく…

こちらも暇ではないのだ。


「また叔父上が?」


「はい。至急お伝えしたいことがあるので、ご来訪願いたいと」


「それは構わぬが、こちらが片付いてからになるので、夕刻になるぞ」


「承知いたしました。慶淵王(けいぶちおう)殿下にはそのようにお伝えいたします」


私はその後ろ姿を見送り、ため息を一つ。そして手元の軍略図に視線を戻した。


この時期、兵の訓練と物資の調達、そして叔父上の軍営と連携を密にするための調整で、目が回るほどの忙しさだ。


「叔父上も人が悪い。この忙しい折に、一体何を急ぐことがあるのだ」


独りつぶやき私は筆を執ると、今日の訓練の進捗状況と、食糧備蓄の確認を指示する書簡を書き始めた。


夕刻までに、片付けるべきことは山積している。些末なことで、呼び出されるのは御免被りたいが、叔父上が「至急」とまで言うからには、何か重要なことなのだろう。


いずれにせよ、この軍営を離れる前に、全ての指揮系統に滞りがないよう、手配せねばならない。


私は副将を呼び出し、今日の残りの任務と、自分が不在の間の指揮について詳細に指示を与えた。日が傾き始め、空が茜色に染まる頃、ようやく一日の軍務を終え、私は慶淵王府へと馬を向けた。


今日は。夕刻には戻ると凌雪(りょうせつ)にも伝えていると言うのに。叔父上は一体、何の用なのだ。


そんな事を思いながら、慶淵王府の叔父上の執務室に足を運ぶ。

馬を降り、その門をくぐると、いつもなら活気に満ちた王府の庭が、妙に静まり返っていることに気づいた。


夕闇が迫り、提灯の灯りがちらほらと点り始めているが、人の気配が少ない。


普段ならば、この時間には侍女や下男たちが慌ただしく行き交い、夕餉(ゆうげ)の準備の匂いが漂うはずだが、今日はどこか張り詰めた空気が漂っていた。


私の足音だけが、石畳に響く。執務室へと続く廊下を進むにつれ、その静けさは一層深まった。

執務室の前に立つと、扉の向こうから、叔父上の低い声と、もう一人の男の声が聞こえてくる。


その声は、尋常ならざる緊迫感を帯びていた。私は一瞬立ち止まり、深く息を吸い込む。


一体、何が起こっているというのだ。煩わしさと同時に私は意を決し、扉に手をかけた。



そこに一歩足を踏み入れると、叔父上の隣には闇装束の背の高い男が一人。私を見るなり瞬時に姿を消す。


「叔父上、急ぎの用とは何なのですか…」


そう声を掛けた私に、叔父は転がるようにして近づいてきて、手に持っていた書簡を胸に押し付けて来る。


「寧王!これを見よ!!早くこれを!!」


「これは…一体何なのです…」


胸に押し付けられたそれを手にとり、よく見れば上奏文ではないか。

これは前耳にしていた、兄上が書かれた“凌媛羅(りょうえんら)との婚姻を取り消したい”と言う上奏文だ。


「それよりも、こっちだ!!」


叔父上は慌てて、私が手に持っていた上奏文を取り上げると、今度は自分が持っていた、もう一つの同じ紙に書かれた上奏文を押し付けて来る。


「叔父上、少し落ち着いてください」


そう言って今度は、もう一つの方の上奏文を手に取って目を通せば、そこには思わぬことが書かれていた。


それは兄上が書いた、私と凌雪の婚姻の取り消しを願う上奏文だ。


「これは…」


「皇太子が書いた物だ!!ここに太子璽(たいしじ)が押されている!!」


「……」


「凌雪は、お前を裏切っていたのだ。これを見ればわかるだろう!私の言っている事に、間違いはなかったという事だ!」


「確かに、ここには凌雪の事も書かれていますが…そう言えば、あの頃凌媛羅が、凌雪が不安で迷っていると言っていた…。


女心は複雑で、私に本当に好かれているのか悩んでいると…」


「馬鹿者!!どこまでお人好しなのだ!!先ほどの闇装束の者を見たか?!」


「あれは誰なのです」


細作(さいさく)(スパイ)の孤峰(こほう)ではないか!さっきまで魅影(みえい)もいた。これは、魅影が持って来たものだ」


二人は叔父の密偵で、ありとあらゆる情報を持ってくる細作だ。


「上奏文の話は、もう済んだことです。兄上が凌雪の事を慕っていたことも知っている。この上奏文は、どこから手に入れたのか知りませんが、もういい加減にしてください」


私は、叔父上の言動にもう、うんざりしていた。


ただでさえ疑心暗鬼になり、凌雪を信じきれるのか、不安で気持ちが揺れていると言うのに…


「魅影の話では…凌雪は、皇太子と密かに婚儀を行っていたそうだ」


「え?」


「二人は、皆を欺き、既に婚儀を行っていたのだぞ」


「また一体、何を言い出すのかと思えば…ありえない事だ。兄上は、仮にもこの天黎(てんれい)の皇太子。その兄上が婚儀など行えば、この国で知らぬものはおりません」


「本当なのだ!孤峰が妓楼(ぎろう)で裏を取って来た!」


「妓楼?」


「皇太子は、妓楼で妓女に不在證(ふざいしょう)(アリバイ)を証言させ、その間に皇后の祖廟瑞祥寺(そびょうずいしょうじ)で凌雪と婚儀を行ったのだ」


「……」


「凌雪の母親は、皇后と遠縁で祖廟は同じ瑞祥寺だろう」


「……」


「これが真実なら、皇太子も凌雪も許すことなどできぬ。私はこの話をすぐに陛下に話す!」


「待ってください」


私は、憤る叔父を静止し、もう一度兄上が記した上奏文に目を通した。


確かに筆跡は兄上の者で太子璽(たいしじ)も押してある。


そして…兄上はこれを陛下に提出し、却下されたと言うのか…。


皇太子というお立場で、己を省みず陛下にこのような上奏文を啓奏した兄上が、皆に知られぬよう凌雪と婚儀を上げていた。


なのにその後諦めて、私と凌雪の婚儀を認めたと?


兄上の性格からして、そこまでの事をするからには、簡単にあきらめるはずもない。


あの兄上が、陛下に訴えるほどなのだ。


「寧王、これは裏切りだ!凌雪はお前を裏切って素知らぬ顔をしていたのだぞ」


「兄上に確かめてきます」


「確かめずともわかるではないか!この上奏文が確かな証拠なのだ。凌雪は陰でお前をあざ笑っていたのだぞ」


「少し黙っていてください!」


叔父上の言葉が、私の心を(えぐ)るように頭の中で何度も繰り返される。

果たして、冷静に凌雪に尋ねられるだろうか。


「凌雪とは離縁だな。それどころか、死罪だ!!」


叔父の言葉に、私は即座に立ち上がった。


「兄上に先に確かめてみます。今ならまだ東宮の執務室におられるはず」


「一体何を確かめるというのだ!お前が聞いても、本当の事を言うはずがあるまい!」


叫ぶ叔父の手を振り払い、兄が記した上奏文を丁寧に胸にしまうと、私は踵を返し足早に王府の門へ向かった。


そして、待機していた馬に飛び乗り、皇宮へ急ぐ。

兄上と凌雪が……。


想像だにしてなかった叔父の告げる事実に、私の心は混乱の極みにあった。


皇宮に向かいながら、胸の中で何度も自問自答する。

叔父上の密偵は優秀だ。どんなことでも調べて来る。しかしこれが事実ではない事を心の底から祈っていた。


私は、凌雪の目を見るのが怖かった。

彼女はきっと、もしこれが真実であるならば、問い詰められると隠すことなどできないからだ。


そして兄上も…そのお顔を見れば真実がわかってしまうだろう。


だからこそ、私は皇宮へ向かった。

―――そこにある、兄上のいる東宮の執務室へ…


慶淵王府を飛び出した私は、馬を駆り、皇宮へとひた走った。

夕闇に包まれ始めた景都の通りを、ただひたすらに。


脳裏には、叔父上の言葉と、兄が記したという上奏文の文字がちらつく。とても信じられぬ。信じたくはない。


皇宮の門が目前に迫り、衛兵が制止の声を上げようとする間もなく、私は馬でその間をすり抜けるようにして宮城内へと駆け込んだ。


周囲が何事かと、ざわめいている。

しかし、私の視線はただ一点、兄上のいる東宮へと向けられていた。


その敷地に入ると、私は荒々しく馬を停める。


そして、まだ息を切らしている馬の背から飛び降りるやいなや、手綱を近くの侍従に乱暴に押し付け、迷わず兄上の執務室へと向かった。


普段なら落ち着いて歩むべき場所で、私はまるで狂気に駆られたかのように、ただひたすら前へ進む。


兄上がいるであろう執務室の扉が視界に入ると、迷うことなくその扉に手をかけ、勢いよく大きな音を立てて押し開いた。


それに驚き目を見開いた兄上を、庇うようにして韓昭が立ちはだかる。


「一体何事だ、寧王」


私のあまりもの勢いに、少し驚いた顔をしたものの声は低く落ち着いていた。


「兄上、お伺いしたいことがあります」


私はそう言うと同時に、胸から上奏文を取り出し勢いよく、兄上の(あん)(つくえ)の上にたたきつける。

それを手に取った兄上は、一瞬目をやったが、焦ることもなくまっすぐにこちらを見据えた。


「これがどうしたと言うのだ」


「兄上は、私と凌雪の婚姻の取り消しを、啓奏したのですね」


「……」


「これは、確かに兄上が書かれたものではありませんか。一体どのようにご説明なさると!」


そう語気を強める私に、煊王李煌(けんおうりこう)は、黙ったままこちらをじっと見ている。それが余計に苛つき、思わず私は兄上に両手で掴みかかった。


「寧王殿下!!おやめください!!」


韓昭が間に入り、私を止めようと必死だ。


「確かに…これは私が書いた」


その時、兄上が静かにそう答える。それは全く動揺も焦りもない冷静な声だった。

それを耳にし、思わず込められた両手の力が緩みかける。


「……」


「私も…凌雪を慕っていたのだ…」


初めて言葉にして聞かされる兄上の本音に、頭の血の気がするすると引いていくのを感じる。しかし問題はそこではなかった。既にそんな事は気が付いていたからだ。


「では凌雪も…兄上を…?」


私が聞きたいのは、凌雪が、兄上に思いを寄せていたかどうかだった。


「……」


兄上はそれには答えず、自分の胸元を掴んでいる私の両手を、そっとほどこうとする。


「答えてください!凌雪も兄上を慕っていたから…兄上は、この上奏文を書かれることを、決意されたのですか!!」


「だったらどうなのだ!そうだとすれば、お前は凌雪を私に譲るのか?!」


そう私の目を真っ直ぐ見て放った兄上の言葉に、私は思わず頭に血が上り勢いで拳を振り上げてしまった。しかし兄上は抵抗することもなく、なすがまま私に殴られその場に後ずさる。


「皇太子殿下!!!寧王殿下もおやめください!」


韓昭が私の振り上げた腕を掴み、凄みを増し止めに入った。


「兄上は、秘密裏に凌雪と婚儀まで挙げたとか!!」


「そんな事は…知らぬ!」


「でも調べは、ついているのです!場所は皇后の祖廟、瑞祥寺だとも!」


「誰から聞いたか知らぬが…そんな、事実はない」


私と違って、兄上は冷静に真っ直ぐな眼差しで、私を見ていた。


その目が、嘘ついているのか、真実なのか全くわからない。


ただ…、声を荒げる事なく、冷静を保とうとしていた事だけは明らかだ。




「私は…確かに凌雪の事を慕っていた。何度も悩み、お前との婚姻を、取り消してもらおうとしたのだ。だから私はこの上奏文を陛下に啓奏した」


「……」


「しかし、それを凌雪は、望まなかった」


「凌雪が?」


「彼女は…寧王と婚姻すると…」


「……」


「凌雪とは、婚儀など上げておらぬ。そして……今は……お前の正妃ではないのか……」


「……」


「私は、凌雪を慕っていた。慕っていたからこそ、諦めた。そしてお前に託したのだ」


兄上は、私の目を真っ直ぐに見て、最後にもう一度そう口にした。

感情を押し殺した、冷静な低い声ではっきりと…。



叔父上が調べてきたことは、本当かもしれない。

でも、今目の前にいる兄上の、凌雪を思う言葉も本音だろう。


兄上は、自分の気持ちを偽ることなく、はっきりと口にした。

誤魔化すこともなく本心を…“私は、凌雪を慕っていた”と…


「凌雪は…兄上を慕っていたのですか…。もしかして、それを私が…」


そう言った私を、兄上は黙ったまま見つめていた。

否定するわけでも、認めるわけでもなく…

私から、寸部も視線を逸らす事なく…


「凌雪の気持ちは、わからぬ…」


「私は…兄上の言葉が本当だと信じたい…。けれど…。婚儀を挙げていたとなると、到底許せるものではありません」


「その話を、誰から聞いたのだ。叔父上か?」


「……」


「言いたくないなら言わなくてもよいが、誰から聞いたとしても、その意図をもう一度考えた方がいい。凌雪はお前の正妃なのに、今更なぜそのような事を吹き込む必要があるのだ」


「……」


「これは、私がどうこうではあるまい。凌雪をお前から引き離したいように思える。それがなぜなのか、今一度よく考えた方がいい」


「……」


「凌雪を守れるのは、今お前しかいないのだぞ」


兄上の言葉は、とても冷静で全てを見透かしているようだった。


でもこの時の私は違った。突然聞かされた兄上と凌雪の婚儀の話に気持ちが追い付いて行かないからだ。

心のどこかにあった、得体のしれない漠然とした不安。

そして、凌雪の、どこか頼りない感情の理由が、兄上だったかもしれないと言う疑い…


兄上は、今まで一体どんな気持ちで、私と彼女を見ていたのだ。


陛下に上奏文を書くほど、凌雪を恋い慕っていたと言うのに…。


天黎(てんれい)の事を一番に考える兄上は、迂闊(うかつ)にそのような事はなさらないはず。


その兄上が…凌雪の為に、陛下の命に背くようなことをなさるとは…

一体いかほどの想いだったのかと…。


「私は…心の整理ができそうにありません…」


そう言って、力なく兄上に踵を返すと、その足で映月亭(えいげつてい)に、無意識のうちにふらふらと向かった。


すっかり暮れた春の空の下、ぼんやりと灯る池の側の灯籠を横目に、東屋にそっと腰を下ろす。



私は…今まで一体、凌雪の何を見ていたのだろうか…


兄上はあぁ言ったけれど、もし叔父上が言うように、二人が本当に秘密裏に婚儀を上げていたら…私は決して二人を許すことなどできないだろう。



頭の中で何度打ち消しても、湧き出る泉のように繰り返される叔父上の言葉。


凌雪への思い、兄への疑念、そして叔父のあの言葉が、私の心を嵐のようにかき乱す。


夜空を見上げても、答えは見つからない。


胸の奥に渦巻く感情に押しつぶされそうになり、このまま寧王府に戻ったところで、とても眠れるとは思えなかった。


――今夜は、このまま皇宮に泊まろう。

そう決意すると、私は静かに立ち上がり、当直の宦官に今夜は皇宮に滞在することを王府に伝えるよう頼んだ。

普段は王府に戻るのが常だが、今の私には、一人でこの感情と向き合う時間が必要だ。


冷たい夜風が、少しだけ火照った心を冷やしてくれる。しかし、心の中のざわめきは、一向に収まる気配がなかった。



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