第六十三話 凌雪の懐妊
最近、体が重く、朝起きるのが億劫だった。
いつもなら定時に訪れるはずの月事が、いくら待てどもやってこない。
初めはただの疲れか、気のせいだとやり過ごしていた。
しかし、数日経つと、その異変はよりはっきりとした形を取り始めた。
朝餉の匂いを嗅ぐだけで、胃の腑がひっくり返るような不快感がこみ上げ、好物だった蘇璃の桂花糕ですら、見ただけで食欲を失った。
日中も微熱があるかのように体が火照り、頭の奥が常にぼんやりと霞んでいる。
ある朝湯浴みの後、ふと胸の張りに気づき、触れると微かな痛みを感じた。
その瞬間、これまで私に起きた体の異変が、一本の線で結びつく。
まさか……。
胸の奥に、甘くも不安な、感じたことの無い感覚が湧き上がった。
そう。
この兆候は、かつて侍女たちがひそひそと語り合っていた、あの「身籠る」という状態に他ならない。私の体の中で、新たな命が宿っている。その事実に、私の呼吸は詰まり、何とも不思議な感情と共に、自分のお腹にそっと手を当てるしかなかった。
それから三日ほどして、靈麗と王府で薬草の話をしている時だ。
それをこっそりと相談すると、すぐに脈を取ってくれて「懐妊」だと教えてくれた。
そしてすぐに呼ばれて来た府医に、詳しい症状を聞いてもらい、脈を診てもらう。
「寧王妃殿下…これはご懐妊でございます。誠におめでとうございます」
そう言って深々と頭を下げた府医に、靈麗も優しい笑みを浮かべ私を労ってくれた。
そばに居た蘇璃は涙を浮かべ、私を抱きしめてくれる。
「お嬢様…良かったですね…寧王殿下がお喜びになります」
そう言った蘇璃の言葉に、私は小さく頷くと、靈麗から生活の上で注意することを教えてもらう。食べ物や、決して口にしてはいけない薬草、そしてなるべく冷やさないようにする事…
「今日、寧王殿下はどちらにいらっしゃるのですか?」
府医にそう尋ねられて、私は笑顔で答えた。
「今日は軍営に行かれて、夕刻までには王府に戻られるかと」
「そうなのですね。では、その頃にまた参ります。私の方から殿下にご説明をさせていただきますので」
そう言って深く頭を下げた府医を見送り、私は部屋で殿下の帰りを心待ちにしていた。
不安がないと言えば、嘘になる。
慣れない身体の変化と、無事に生まれてきてくれるだろうかといった心配もなくはない。
でも…
私にとってこれは、本当に大切な命だ。
それは寧王殿下にとっても同じはず。きっととても喜んでくれるだろう。
”私達の宝になる”
そう信じて疑わなかった。
しかし夕刻に戻ると言われていた殿下が、すっかり日が暮れてもまだ府にお戻りになられない。
私は先に夕餉を済ませ、部屋で蘇璃と殿下の帰りを、今か今かと待っていた。
夜もすっかり更け、“もしや殿下の身に何かあったのでは”と不安になったころ、魏伯然が、私の部屋に“今日殿下は皇宮に泊まられる”と知らせにくる。理由はわからないが、戻れないとの事だった。
御身が無事だったとほっとした私は、安堵と幸せな気持ちですぐに眠りに落ちる。
すると夜中、小さな物音で目を覚ました私の前に、闇装束の男が現れ思わず悲鳴を上げそうになった。
その男は咄嗟に私の口を塞ぎ、聞き覚えのある小さな声で「王妃…」と声を掛けて来る。
私は思わず口元を塞がれたまま、視線だけを彼の方へ送った。
そして目が合うと、彼はゆっくりと掌を、私の口元から離していく。
「韓昭さん??」
それは、皇太子殿下の護衛の韓昭さんだった。
私は思わず辺りを見渡し、小声で彼に声をかける。
「一体どうされたのですか…」
そう尋ねると、彼は咄嗟に私の前で跪き、少し躊躇いながら言葉を選んだ。
「寧王妃…。今日夕刻、東宮の殿下の執務室に寧王殿下が来られました」
「何かあったのですか?」
「皇太子殿下と王妃の事を…お知りになったようです」
あまりの驚きで、思わず目を見開いた私に、韓昭さんは言葉を選びながら続けた。
「皇太子殿下がお書きになった上奏文をお持ちでした。それは王妃がお持ちだと殿下は大将軍に聞かされていて…なので、こちらにあるのか確認しに参ったのです」
そう言われて、私は慌てて寝台の側にある、几帳の引き出しを開けてみた。
「ない…。ないわ…」
慌てて何度見ても、そこに入れておいた上奏文がなくなっている。
処分せねばと何度も思っていたけれど、”皇太子殿下のお気持ちだから”と、手放すことができずにいた。こんなことになるなら、もっと早く処分すればよかった。
「やはり…こちらにはないのですね」
「でも、寧王殿下はこのお部屋に、一人で入られたりしません。なぜそれが殿下の手に…」
「おそらく、慶淵王の間者ではないかと思われます。寧王殿下は慶淵王府から参られたようなので…」
「皇太子殿下は、大丈夫なのですか…」
そう尋ねたら彼は小さく頷き、私に皇太子殿下からのお言葉を伝えてくれた。
「殿下は、ご自身の気持ちは凌雪にはあったが、凌雪の気持ちはわからないと、寧王殿下にお話になられました。自分が先走ってしまったと。上奏文を出し陛下に窘められ諦めたと。
そして婚儀の件は“知らぬ”で、通されました」
「……」
「蘇嬢の兄弟からではなく、妓女から話が漏れたそうです。しかし妓女は、私が話をつけてきましたのでご安心を。なので、王妃は白を切り通してください。ご自身の為にも…」
「私は…また寧王殿下に嘘をつくのですか…」
「王妃、これは皇太子殿下のためでもあるのです。殿下は王妃をお守りするため、寧王殿下から暴挙を受けながらも、やり返さず耐えられたのですよ」
「あ……」
「最初、感情的になられた寧王殿下は、皇太子殿下に掴みかかられました。拳を振り上げられても、皇太子殿下は全く抵抗されず…。王妃の為に嘘を貫かれたのです…」
「……」
「なので…どうか殿下の想いを無駄にされないでください。それをお伝えに来ました。
寧王殿下は、今日皇宮でお泊りになられています。頭を冷やしたいとそう言われて。なので明日お会いになられた時、婚儀の件は、決してお口にはなされないで下さい。王妃ご自身を守るためにも…」
「……」
「皇太子殿下は…ずっと王妃をお忘れにはなられないでしょう。ずっと殿下のおそばに居たからこそ、私にはわかるのです…」
それを聞き、私は思わず涙がこぼれた。
私達の運命は、決して交わることなく…
濁流のように全てを飲み込んでしまう。
皇太子殿下への想いは決して消える事はない。
でも今、私は寧王殿下のお子を身籠った。
そして…その命を守りたいのも、大切なのも本心だ。
これが私の運命なら、甘んじて受け入れるしかない。
――皇太子殿下と私は、もう決して手を携える事はないのだと…。
「韓昭さん…私は寧王殿下のお子を身ごもりました…」
「えっ?」
「他の方から聞くよりも、先にお耳に入れていた方がいいかと思い、今打ち明けました。まだ寧王殿下にもお話していません」
「……」
「私は、どんなことがあっても、この命を守らねばならないのです」
「王妃…」
「これから先は、私の事は忘れてくださいと…」
「…」
「私は…皇太子殿下を心からお慕いしていましたと…。そう皇太子殿下にお伝えください」
そう言って涙をこぼした私に、韓昭さんは胸元から小さな袋を取り出した。
それをそっと開けてみると、髪の毛が入っている。
「これは、殿下の髪です。殿下は、決して寧王妃を忘れぬと、そう覚悟を決めていらっしゃる。これが、殿下が王妃に託された『自分は凌雪の者だ』という証です」
韓昭さんの言葉に、私の涙はさらに溢れた。
「…煊王殿下…」
殿下は、こんなにも私の事を大切に思ってくれている。
「これは、どうぞお受け取り下さい」
彼は、そう言って深く一礼すると、少し目を伏せた瞬間に姿を消していた。
この手に残された皇太子殿下の髪の毛が、まるでまだその温もりを宿しているかのように感じられる。
身体の一部である髪の毛は、決して忘れぬという覚悟の証。
殿下は、私を忘れることなどしない。
そして、この髪の毛は、たとえ離れ離れになろうとも、“自分は永遠に凌雪のものである”という、殿下の揺るぎない誓いなのだ。
私の為に、既にこれほどの覚悟をされていた。
その想いの深さに、私の胸は締め付けられ、涙がさらに溢れ出す。
でも私は、もう振り返ることはできない。
私も、決して皇太子殿下を忘れることなど、できないだろう。
しかしこれからは、寧王殿下の妻として子の母として生きる事が、私の唯一の道なのだ。
「…ごめんなさい…」
私は、殿下の髪が入った小袋を握りしめ、嗚咽する。
決して今泣いている事を、他の者に気づかれてはいけない。
この思いも全て…誰にも知られてはいけないのだ…。
皇太子殿下から目を背ける私を…決して許さないでください…
私は、全てを押し殺し、これから前に進まねばならない。
それが…寧王李璿の正妃として、子の母として、選んだ道だからだ。




