第五十九話 韓碧心の意外な提案
あれから時を待たずして、師走(12月)の半ば…私は、叔父に言われるがまま韓碧心殿を側室に娶った。
そして、それを追うように年が明け、春節を迎えてすぐに、兄上が景国から蕭烈微を娶る。
凌雪は淡々と過ごしていて、韓碧心に心を配りうまくやっているようだ。
韓碧心は、韓清之の娘という事もあり警戒していたのだが、凌雪にとても好意的で、寧王府はいつになく賑やかになっていた。
それから少しして、寧王府の私の書房を叔父上が訪ねて来る。
私はあの秘密を知って以来、叔父上の顔がまともに見られなかった。
しかし叔父はその反対のようだ。
きっと母上から聞いているのであろう。私が叔父上の事を、本当の父親だと知ってしまったと…。
前よりも親し気になり、口を挟むことも増えて来る。自分の気持ちが追い付いて行かず、それに息が詰まりそうだ。
「煊王が、蕭烈微に夢中だとの噂を聞いたか?」
慶淵王は鼻で笑い、目の前に出された茶器に口をつけた。
「兄上が?」
「凌媛羅は、気が気ではないようだ。自分はずっと交宿を拒まれていたのに、蕭烈微には一日置きに会いに行くらしい」
「……」
「皇太子も、蕭烈微の色香に惑わされたか?!そうなれば、凌媛羅の立場もないな!!」
そう言って高笑いをした叔父を、私は黙って見つめていた。
慶淵王はそう言っているが、兄上はそのような人ではない。
映月亭で話した時のあの目は、凌雪の事を本当に大事に思っている目だった…。
叔父上が、今まで言っていたことは本当だったのだ。
そんな兄上が、簡単に蕭烈微にほだされるとは思えぬ…。
―――私は叔父上のせいで、全てに疑心暗鬼になっていた。
「韓碧心はどうだ?あれは性格もよい。頭もよいし、器量もいい。正妃にしても良いくらいだろう?」
「……」
叔父上は、凌雪よりも韓碧心が正妃の方が何かと都合が良いらしい。
しか韓碧心は…、私と同じ苦しみを分かち合う者だった。
―――婚儀の日の夜。
寝所を訪れた私の足取りは鉛のように重かった。廊下の灯りが、心に深く刻まれた凌雪の笑顔を、一層鮮明に浮かび上がらせたのを覚えている。
部屋の扉を開けると、そこには静かに座る韓碧心の姿があった。
あの場所は、本来ならば凌雪と分かち合うべき温もりと安らぎに満ちているはずなのに、ただ重苦しい義務感と、裏切りの痛みが支配していた。
私は、凌雪を本当に大切に思っていた。
その事実が、あの状況をさらに苦しいものにしたのだ。彼女の純粋な笑顔、私を信じる瞳を思い出すたび、胸が締め付けられるような痛みが走る。
この手で、凌雪以外の誰かの手を引くことの虚しさ。この口で、凌雪以外の誰かに愛を囁くことの偽り。全てが、私自身の魂を蝕んでいくようだった。
窓の外は、月が冷たく輝いていた。
あの月も、私の心の葛藤を嘲笑っているかのように思える。凌雪への愛と、果たさねばならぬ責務との間で、私はただ、苦しみに耐えるしかない、そう思っていたその時だ。
寝台に並んで腰掛けた私に、韓碧心は、思わぬことを口にした。
「寧王殿下…。面紗を外してくださいませ」
その声に、私は小さなため息を一つつくと、彼女に向き合い両手でそっとそれを取る。
韓碧心は、目元の辺りに韓清之の面影はあるものの、凛とした眼差しに整った顔立ちの美しい娘だった。
私はあまり気にもとめず、側に置かれた盃に手を伸ばそうとしたその時だ。
韓碧心は、その手を止め、私を自分の方に向けさせた。
「殿下、お話があります」
「なんだ…」
「殿下は、大理寺少卿(今でいう最高裁判所の判事)の裴昭をご存知でしょうか」
「裴昭?あの最年少で大理寺少卿になったあの裴昭か?」
「はい」
「それが何か…」
そう聞き返したら、韓碧心は私に頭を下げて床に膝をついた。
「殿下…私はこのお話を、突然父から仰せつかりました」
「……」
「そして、殿下と正妃の事も聞き及んでおります。殿下が思い悩まれ、側室を娶ることをずっと拒否されていたことも…」
「それは…」
そして韓碧心は静かに私を見上げ、言葉を選びながら告げた。
「もし、この私の思いが、殿下のお心に背くものでなければ……どうか、私の願いをお聞き届けくださいませ。この身は、大理寺少卿の裴昭殿と、深く心を通わせております。何卒、この不躾な願いをお許しいただけますよう……」
彼女の言葉は、私の心に深く響いた。
それは、私が抱える苦しみと、あまりにも似通っていたからだ。私と同じように、彼女もまた、親の命と、真実の想いの間で引き裂かれている。
私は、床に膝をついたままの韓碧心の肩に、そっと手を置いた。その細い肩が、微かに震えているのが伝わる。
「……顔を上げよ、韓碧心」
私の声は、思ったよりも穏やかだった。彼女はゆっくりと顔を上げ、潤んだ瞳で私を見つめる。その目には、絶望と、かすかな希望が入り混じっていた…。
よくよく話を聞くと、韓碧心がこの縁談を断れば“裴昭の未来を閉ざす”と、韓清之に言われたらしい。それで彼女は、私との縁談を泣く泣く承知したと…。
「…そなたの願い、聞き届けようではないか…」
私は韓碧心に、そう告げた。
この婚姻が私たち二人にとって、互いの心を縛り付ける枷ではなく、せめて互いの秘密を守り、支え合うためのものとなるように…。
この夜私は、確かな盟約を韓碧心と交わす。
―――そして翌朝、私は韓碧心と共に、凌雪の寝所を訪れた。
扉の向こうに、朝の光が差し込む静かな気配を感じる。
昨夜、私と韓碧心の間で交わされた約束は、私たち三人の未来を左右する、大切な一歩だ。
私が扉を叩くと、雪の侍女蘇璃の声が応じ、やがてそれがゆっくりと開かれる。
中にいた凌雪は、私と韓碧心が並んで立っているのを見て一瞬目を見開いた。
その表情には、寧王妃としての気丈さと、僅かな緊張が入り混じっている。
「殿下、韓側妃様……」
凌雪の声は、かすかに震えていた。
それは、無理もない。一昨日、私が一人で訪れた時とは、状況が全く異なるのだから…。
私は凌雪の傍らに歩み寄り、彼女の前に立つ。すると韓碧心もまた、私の隣に静かに控えた。
「凌雪。そなたに、改めて伝えておきたいことがある」
私の言葉に、凌雪は静かに頷く。
その瞳は、不安を隠しきれないながらも、次を待っていた。
「韓碧心との婚姻は、叔父上に言われた形だけのものだ。私の心は、ただそなた一人にある。そして……」
私はそこで言葉を区切り、韓碧心に視線を向けた。彼女は私の意図を察し、一歩前に進み出し凌雪に一礼する。
「寧王妃様。この度は、このような形で側妃となりましたこと、心よりお詫び申し上げます」
韓碧心はもう一度深々と凌雪に頭を下げる。
…その声は、昨夜の懇願の時と同じく、誠実さに満ちていた。
「わたくしもまた、殿下と同じく、心に深く慕う者がおります。この婚姻は、互いの立場を守るための、偽りのものです。殿下とは、夫婦としての契りを交わすことはございません」
韓碧心の言葉に、凌雪の瞳が大きく見開かれ、驚きと、そして信じられないという色が浮かぶ。
彼女は、私を揺れる目で見つめた。
私は、凌雪の目を真っ直ぐに見て、言葉を重ねる。
「韓碧心も、私と同じ苦しみを分かち合う者なのだ。だからこそ、私たちは、互いの真実の想いを守るために、この道を選んだ。そなたには、何一つ心配はいらぬ。私の心は、永遠にそなたのものだ」
私の言葉と韓碧心の告白に、凌雪の表情がゆっくりと変化していく。
戸惑いはやがて深い理解へと変わったかのように見えた。
凌雪はゆっくりと私たち二人を見て、ほっとしたような笑みを浮かべる。
それは、彼女が私への不信感を拭った瞬間だった。
この時私と凌雪の間には、言葉にはできない、しかし確かな絆が生まれたのだと…
――――私はそう思っていた。
いや、そう信じたかったのだろう…。




