第五十七話 寧王殿下の側室
「よく決意したな! 寧王!」
私が韓碧心を娶ると返事をすると、叔父の慶淵王は高らかに笑い喜んだ。
霜楓別苑から都に戻り、一週間後のことだ。
本当は、娶るつもりはないと伝えるつもりだった。
しかし一昨日、文でそう伝えれば、叔父は次に凌雪の命を狙うと言い出したのだ。
叔父の黒襲門が動けば、廬山峠や翠陽原の時のような事が、起こりかねない。
あの時は兄上が偶然いたから、何とか凌雪も助かったが、あれはほぼ奇跡に近かった。
凌雪一人の命を奪うなど、叔父にはたやすい事だ。
彼が本気だと分かり、何度も考え抜いた結果、私は韓碧心を娶る決心をする。
凌雪は、それを笑って受け入れてくれるだろうが、きっと本心は違うだろう。
彼女は以前、側室は嫌だと泣いていたことがあった。それを思うと、これから凌雪がどんな気持ちになるのか、胸がつぶれそうになる。
私はその足で、後宮の母上の処へ行き、心が耐えられず事の次第を全て打ち明けた。
それを聞いた母上は、慶淵王にひどく憤る。
「一体何の権利があってそのような事を! 私が文を書きます!」
「いいえ、母上…これはもう叔父上との間で決めてきたことなのです」
「凌雪の命を引き合いに出すなど……慶淵王も往生際が悪い!何か他の手立てがあろうに!」
「……」
「璿の気持ちを知りながら、どうして二人の幸せを、黙って見ていられぬのか!!」
「母上……」
「おそらく、韓碧心を娶っても、凌雪の身の安全は保障されまい……」
「それは…一体どうしてですか」
「慶淵王は、凌孟昊が目の上のこぶ。今回のことでよく分かりました」
「いくら邪魔だとしても、凌雪は私の妻なのですよ。叔父上の計画には、何の関係もない」
「慶淵王は、あなたが韓碧心を娶った後、きっと凌雪の息の根を止めようと画策するでしょう」
「……」
「きっと、凌将軍を敵に回す手筈が整ったのです。凌雪を失えば、凌孟昊はあなたを、ひいては慶淵王を深く恨むでしょう。その憎しみが、凌将軍を動かすと睨んでいるのです」
「手筈が整うとは、どういうことなのですか。私は何も聞いておりません」
「“目の上のこぶ”である凌孟昊を、慶淵王の都合の良いように「陛下の敵」として明確に動かすためです。
あなたが凌雪を娶ってから、慶淵王は焦っていました。皇太子が景国の公主を迎える前に何としても事を成さねばと。しかし、そのためにはどうしても凌孟昊が邪魔だと、ずっと頭を痛めていたのです」
「……」
「あなたを皇太子にするために……」
「私はそのようなことは望んでいないのです! 国家が揺らぐのに、これ以上黙って見てはいられません。すぐにでも叔父上のことを陛下にお伝えし……」
「なりません!!」
「母上!これは父帝の危機なのですよ!?」
「絶対に陛下に、話してはなりません」
「なぜなのですか!? 叔父上は、勝手に父帝を逆恨みし、ご自身が権力を握りたいだけだ! 父上や兄上に危機が及びそうなときに、私は傍観できません。ましてや凌雪の命まで狙うとは、もう我慢ならない。全てを陛下にお話しし、私は必要とあらば、叔父上を討ちます!」
「璿! それだけはなりません!」
「母上! 母上は、わからないのですか?? 陛下が危機にさらされているのですよ? 初めは私も、兄への対抗心で叔父の話を黙って聞いていた。でもそれは、他愛のない劣等感だったと気づいたのです…。自分は自分だと。凌雪がそれを教えてくれた……。私は叔父上の駒になるつもりはありません。母上は、私を父上や兄上の敵にするつもりなのですか?!」
「……」
「やはり私は、韓碧心を娶れません」
「璿……」
「これ以上、叔父上が横暴な振る舞いをするなら、私にも考えがあります」
「……」
「私は全てを父帝に話します。そして叔父上から凌雪を守ってみせる」
「……」
「必要とあれば、私が叔父上を討ちます!」
「それだけは、絶対になりませぬ!!」
「母上!」
「そのようなことを、すればあなたは……。あなたは…」
「私がなんだと言うのですか。それが父上に対する忠誠の……」
「慶淵王が、あなたの父だからなのです!!」
「…………」
「陛下ではなく……、慶淵王があなたの……本当の父なのです……」
私は一瞬、母上が何を言っているのか分からなかった。
頭の中が真っ白になっていく。
母上の声が遠くなり、意味だけが抜け落ちて呼吸が浅くなり、心臓が激しく打ち鳴らされた。
―――叔父上が私の本当の父?
「一体……何を言っているのですか母上……」
私がその言葉を発すると、母は目の前で顔を掌で覆い泣き崩れる。
「すまぬ……。全て私が悪いの……」
「……」
「このようになったのも、全て私が……」
「…私は、父帝の子ではなく…、…叔父上が本当の父だと?」
母は私のその問いに、泣きながら全てを打ち明けた。
陛下の寵愛が、全て皇后に注がれ心が折れたこと。
自分の心を救ってくれたのが、叔父上だったこと。
そして……私の本当の父が慶淵王だということを……。
私は全身が震え、頭から血の気がなくなるのを感じ、思わず膝から崩れ落ちた。
今までずっと、皇帝陛下の第二皇子として生きてきたこの人生が、全てまやかしだったのか?
「このことは、私たち二人しか知りません。もちろん陛下もご存じない事なのです」
「……」
「だから慶淵王は、あなたを皇太子にしたかった。ただの駒ではありません……」
「……」
「謀反を起こしてでも、あなたの為に戦おうとしているのです」
「そんなこと……知りたくもなかった」
「璿!!」
「誰も頼んでいません。私の父は皇帝陛下お一人です」
「待って!! 璿や!!」
私の名を呼びながら引き留める母を振り払い、私は踵を返し皇宮を後にした。
それからどうしたのか…あまりよく覚えていない。
―――気が付けば、昔よく一人で過ごした、映月亭の東屋にポツンと座っていた。
ここは、凌雪と出会った思い出の場所だ。私は昔から、何かあるとよくこの場所に来ていた。
側にある池の水面を通り抜け、北風が頬を撫でる。
それはまるで、心の中も通り抜けて、隙間風のように冷たく感じた。
…慶淵王が私の本当の父だったとは…。
そう言えば、叔父は昔から、兄よりも私にとても優しかった。
“兄上に負けた”と泣いていたら、剣術の稽古にも付き合ってくれたし、碁など色々な事を教えてくれた。隣国の様々な書も沢山くれたし、私を褒めてくれる唯一の人だった。
だから私は、叔父上がとても好きだったのだ。
最初に叔父からこの計画を伝えられた時には、「この国をよくする計画だ」と聞いていた。
しかし次に収集を掛けられた時は、韓清之など数人の大臣がいて叔父の謀反が本気だったことがわかる。でもそれは、軍の規模から考えて、到底叶わぬ計画に思えた。
可愛がってもらった義理もあり、呼ばれれば適当に参加していたが、いつの頃からから凌孟昊や兄の暗殺が具現化してきて、肯定できるものではなくなってくる。
しかしそれが…
私を、本気で皇太子に据える為だったとは…。
母は、父帝よりもいつも叔父上の味方だった。
おかしいと思っていた。いくら私の為だとは言え…
まさか、母が父帝を裏切っていたとは。
いや、陛下を、裏切っていただなんて…。
私が頭を抱え、東屋の卓に伏したその時だ。
「寧王…」
この背から聞きなれた声が、私の名を呼ぶ。
そこには兄上が静かに立ち、私を見下ろしていた。
その表情は、怒りではなくどこか悲しみを湛え、深い憂いを帯びた瞳が、私を射抜くように真っ直ぐに見つめている。
「兄上…」
「さっき執務室から、寧王の姿が見えて…」
兄上はそう言って小さなため息をつくと、私の隣に腰を下ろした。
「韓清之の娘を娶ると聞いたが」
「……」
「凌雪はどうするのだ」
「え…」
「お前は、他の誰も目に入らぬと言っていたではないか。それに側室は取らぬと」
「……」
「側妃も言っていた。寧王は凌雪に一途だと」
「それは…」
「なのになぜ、婚儀からたった三か月で韓清之の娘なのだ」
私は…その目を見てふと気が付いた。
兄上は、私が叔父上の側に居て、韓清之の娘を娶るという事に気が付いている。
そう聞かれて、まるで蛇ににらまれた蛙のように、何も言い返せない自分がそこにいた。
「…兄上…」
「今ならまだ間に合う。知っている事全てを打ち明けよ」
「……」
「寧王!!」
黙ったままの私に、兄上は苛立ちを見せ声が大きくなる。
「あ…、いえ…。何をです…」
「慶淵王の事だ。裏でどこまで画策しているのか、お前は知っているのだろう!?」
「……」
「凌雪の為でもあるのだ」
「凌雪の?」
「寧王が道を踏み間違えれば、正妃の凌雪は共倒れになる。お前はそれでよいのか」
「なぜ共倒れになると言うのですか。私は何も知りません」
「ではなぜ、韓清之の娘を娶るのだ。韓清之は慶淵王側の人間なのだぞ。凌孟昊と相反しているのに、なぜその娘を娶るのだ」
「……それは、私が決めたことではありません」
「誰が決めたのだ!この国の皇帝か!それとも慶淵王か!」
「……っ」
「お前のその行動が、どれほど凌雪を危険に晒しているか、わかっているのか」
「……私は、私なりに考えています!」
「考えるだと?何をだ。その結果がこれか。韓碧心を娶るという事が?」
「黙ってください!凌雪を守るために、私にしかできないことだってある!」
「凌孟昊と慶淵王の関係は周知の沙汰ではないか。守ると言うのであれば初めから、凌孟昊の娘を娶らねば良かったのだ!」
「それは、兄上が凌雪をお慕いされているからですか」
その一言で、兄上はまるで氷のように凍り付く。
「……」
これまでずっと、心の底で渦巻く疑問を飲み込み、信じたい気持ちと疑念の間で揺れていた。―――それを、兄上の一言で、とうとう吐き出してしまった。
「兄上が凌雪をどう思おうと、凌雪は私の正妃です。兄上は年明けにも蕭烈微を娶られるとか。私の事にかまっているお暇はないはず!!」
「……」
「安心して下さい。凌雪は私が守ります!!例え韓碧心を娶ろうとも、私の心には凌雪ただ一人。凌雪の心配は兄上には無用です!」
私は兄上にそう言い放つと、私はそのまま踵を返し映月亭を後にする。
兄上が、どのような顔をしているのかはわからなかった。
私は振り返らず、兄上に背を向ける。
そして、足早に皇宮を後にした。




