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第五十六話 私の心の違和感

私が殿下と、霜楓別苑(そうふうべつえん)から戻って来て十日後の事だ。

寧王殿下は御公務から戻られると、険しい顔で”話がある“と、私をご自分のお部屋へ、お呼びになった。


木格子の扉から中へ入ると、殿下は目を閉じたままで、部屋の入口そばにある円卓に座るように言う。私は、寧王殿下の顔色を伺いながら、静かにそこに腰を掛けた。


「お呼びでしょうか…」


そう声を掛けると、ゆっくりと開いた瞼が私を真っ直ぐ見つめる。

憂いに満たされた、少し滲んでいる殿下の眼差しに、思わず身を引き締めた。


寧王殿下は、大きなため息を一つつき、もう一度ゆっくりと瞳を閉じた。

…しばし沈黙の空気が流れる。


一体どうされたのだろうか。この様な事は初めてだ…。

私は黙ったまま、静かに目の前の殿下を見つめていた。


すると突然、意を決したように目を開き、もう一度真っ直ぐに私を見据えてから、寧王殿下は重い口を開く。


「正妃…」


気のせいか、少し声が震えているような気がする…。


いつもなら、“(せつ)”と呼ぶのに、畏まった呼び方だ。それが私の緊張感を更に高めた。


「はい」


「私は、この度大臣韓清之(かんせいちん)の娘、韓碧心(かんへきしん)を側室として娶ることになった」


「え?」


思わず耳を疑って、聞き返してしまう。

想像もしていなかった言葉に、心臓の鼓動が大きく波打つのを感じた。


なんと返事をしてよいか迷っていたら、寧王殿下は、机に額が付きそうなほど深く私に頭を下げ謝った。まるで自分の愚かさを罰するかのように、その姿勢を崩そうとしない。私を傷つけてしまったのではないかとの自責の念が、彼を打ちのめしているのが見て取れた。


「凌雪、本当にすまない」


「殿下、やめてください。お顔をお上げになってください」


そう言っても、なかなか(おもて)を上げない殿下に、私は慌てて立ち上がり、お傍に駆け寄る。その瞬間殿下も、私を抱きしめようと立ち上がった。


まるで(すが)るかのように、その腕の力が強まる。


「私には、こうするしかなかったのだ…」


私の肩に顔を落とし、子供の様に小さく震える背中を思わず摩る。


「仕方のない事です…。側室を娶るなど、殿方なら当たり前の事ではないですか」


「私はお前に、側室は娶らぬと約束しておきながら…。こんなに早く…」


寧王殿下は、この肩に顔を伏せたまま、まだ私の目を見ようとしない。


「殿下…その様な事は、気にしておりません」


「でも…」


ふと顔を上げた殿下の目には、懺悔の色が滲んで揺れている。

少し潤んだ目が、どれほど私に詫びているのか手に取れるようだ。


「寧王殿下がいつの日か側室を娶られるのは、当然の事でございます。韓碧心殿が王府に来られたら、きちんとお世話をしますのでご安心を」


そう言って笑った私を、殿下はもう一度強く抱きしめた。


しかし殿下が、どんなに詫びようが、私が悲しもうが、何一つ事実は変わらない。


「凌雪…」


私達が婚姻し、まだ数か月も経っていないけれど、これが現実なのだ。


殿下は王族としての責務があり、子を成し、血筋を繋ぐことは何よりも優先されるべきこと。そのために、いずれ側室を娶ることは、婚礼前から分かっていたことだった。頭では理解しているつもりだったが、胸の奥に、なんだか鈍い違和感が走る。


「殿下…お着替えをなさってください。早くお食事を」


話を切り替えようと、私は必死で笑顔を取り繕う。


霧楓別苑で過ごした日々は、私にとって希望そのものだった。 これから彼に寄り添い、共に歩んでいけるかもしれないと、確かにそう信じていたのだ。


だが、わずか数日で、現実は無情にも私を突き放し、寧王府にいる意味が、分からなくなる。


自分の心が、どこにあるのかさえ見失い、これほど苦しいことはなかった。


そして私は次の日、実家に行くと王府の者に告げ、一人で父に会いに行く。


「雪児、元気だったか?少し痩せたようだ」


「父上。私はとても元気ですよ」


「そうか…こっちに座りなさい」


―――久しぶりの父の書斎。


私はあの上奏文の事で、叱られた時と同じ椅子に腰を下ろし、父と向かい合った。

あの日の事が、まるで昨日の事のように脳裏に浮かぶ。


「急に訪ねて来るとは、何かあったのか?」


「父上…私はよくわからなくなりました」


「雪児…?」


「寧王殿下が、側室を娶られるそうです。大臣韓清之の娘、韓碧心殿を」


「何?!韓清之の娘だと?」


「……」


「これは…、寧王殿下が慶淵王と韓清之と手を組んでいる動かぬ証拠ではないか」


「……」


「寧王殿下は、雪児を一体どうするつもりなのだ。韓清之の娘を娶るのであれば、なぜ雪児を…」


「どうするとは?」


「もし殿下が、慶淵王と謀反を起こせば、お前もただでは済まされぬ」


「……」


「韓清之の娘を娶ると言う事は、慶淵王と揺ぎ無い結束があるという事。そして対峙する準備を進めているという事だ」


「…その様なご様子は、まったくございませんが」


「雪児を娶って、まだ数か月しか経っていないのに、これでは約束が違う。謀反を起こせば、守るどころか泥沼に引きずり込むではないか!」


「まだ謀反を起こすと、決まったわけではありません」


「韓清之は、凰影門(おうえいもん)の兵を増強している事が分かった。血判状を押し仲間を募っている。これが杞憂に終わるには、証拠が揃い過ぎているのだ」


「そんな…私はどのようにすればよろしいのでしょうか…」


「寧王殿下のお気持ちがわからぬ。あれほど雪児を切望されていたのに…まさか婚姻は、私を慶淵王側に抱き込む手はずか?」


「……」


「なんだかとんだ計算違いを、していたような気がしてならぬ」


「父上…。慶淵王殿下は、必ずや謀反を起こされるとわかっているのですか」


「いや…それはまだはっきりとは…。年明け煊王殿下が景国の公主を娶られ、華琳公主が蒙成国へ嫁がれる。それまで事が動かねば良いのだが…」


「……」


「まぁよい。お前はとにかく普段通りに過ごし、寧王殿下に何かおかしなことがあれば、すぐに文で父に知らせてくれ」


そう言った父に、私は小さく頷いた。


父の話を聞くうちに、寧王殿下の求婚が、単なる“お気持ち”ではなかったのではと疑念が芽生える。


けれど、本当は私自身、もう気づいていたはずだ。

――大将軍の娘との婚姻が、政治と無縁でいられるはずがないことくらい。


その後寧王府に向かう馬車に乗り込むとき、凌府の門の前で父がさみしそうに見送ってくれた。


「もうすぐ玄洵(げんじゅん)が戻ってくるので、それまで府にいても…」


「いえ。寄りたい所があるのです。また来ますね」


そう言ってにっこり笑うと、私は馬車に乗り込もうと踏み台に足を掛ける。


「雪児…」


「はい」


聞いた事もないような、弱弱しい父の声に振り向くと、少し目を潤ませ私をじっと見つめていた。


その瞳の奥には、かつての威厳は影を潜め、ただ娘を傷つけてしまった父親の、深い悔いと悲しみがにじんでいる。

まるで言葉では償えぬ想いを、ただ視線に託すように…。

ーーそして父は、私に向かって小さく頭を下げた。


「こんなことになり、本当にすまない」


「何がで、ございますか?」


「あの時、上奏文を出された皇太子殿下は、“何度でも陛下に上奏するつもりだった”とおっしゃられた。

媛羅の事で、お話した時だ。ご自身の雪児への気持ちは、誰に何を言われようと一生変わらないと…」


「……」


「こんなことになるのなら、父はあそこまで言うべきではなかったのではないかと…

少しでも雪児の気持ちを汲み、味方をしてやっていればと、今後悔しているのだ。あの時は頬を叩いたりして、本当にすまなかった…」


その父の懺悔の言葉を、私は黙ったまま聞いていた。


そう言われても、今更何が変わると言うのか。

この国は、それぞれを皆飲み込んで、決して逆らう事の出来ない渦の中に簡単に沈めていくのだ。父が味方でいてくれようと、きっと何も変わらなかっただろう。


皇太子殿下は天子であり、ご自分の運命には決して逆らう事などできないのだから…。


そしてそれは、私も同じだ…。


「これが私の運命なのです。どうしようと何も変わりません。

きっと、何不自由なく生きているだけでも、幸福なのでしょうから。

父上もずっとお元気でいてくださいね」


私は淡々と父に一礼すると、父に背を向けすぐに馬車に乗り込んだ。

そのまま父の顔を見ていると、堪えていた感情をさらけ出してしまいそうになるからだ。



そして、揺れる馬車の中で一人考えていた…。


皇太子殿下を選んでも、寧王殿下を選んでも、どちらにせよ対立が起きるのならば…この心に従って生きても良かったのだろうか。


あの時煊王府で皇太子殿下のお気持ちにそのまま従っていれば今頃は…。


…いいえ。それは考えても始まらない事だ。


今もう…私は、寧王妃なのだから…。


私は外の従者に「柳巷香(りゅうこうこう)」へ行ってほしいと告げ、久しぶりに周婆のお店に行くことにした。

そこは私のお気に入りの桂花糖粥(けいかとうがゆ)があるお店で、優しい味に時々癒されに行く。

寧王府に来てから、訪れる頻度は減っていたのだが、久しぶりにあの味を口にしたくなった。


寧王殿下の婚姻…この国の女子なら夫が側室を娶るのは当たり前の事だ。ましてや殿下は皇族で、お相手は子を成すためにも重要な意味を持つ。


でも…こんなに早く、韓碧心をお娶りになるのであれば…寧王殿下のお気持ちは、私が考えていたようなものでは、なかったのかもしれない…。あの時皇太子殿下への気持ちを、寧王殿下に打ち明けていたとしても、もしかしたら許されていたのかも…。


いや。しかし今更何を言おうと、私はもう、寧王殿下の正妃なのだ。

こんなことで揺らいではいけない。気持をしっかり持たないと…。



―――「正妃、つきました」


外から聞こえるその声に、私は小さなため息を一つつき、そっと馬車を降りた。


息が詰まる日々に、ふと心を開放してくれる、この市井(しせい)の街並みに安らぐ。

街を漂う生活の匂いに、大きく深呼吸すると私は周婆のお店の暖簾をくぐった。


そこで、思わぬ人と出会うとも知らずに…。


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