第五十五話 蕭烈微の秘密
私は、景国の公主であり、第一皇子でもある・蕭烈微だ。
私の父景国の皇帝には、複数の妃がいて、子も多かった。
だが、皇太子候補たちは、暗殺や粛清により相次いで失脚。唯一、今は私だけが父帝の信認を得ている。
しかし―――私は男子でありながら、“女児"として育てられていた。
これは私の実母である賢妃が――“男子を産めば命を狙われる。女児としてなら政の渦を逃れられる“と判断したからである。
そして妹の「蕭烈月」と共に、私は女子として育てられた。
この真実を知るのは父帝と母后、そして一部の侍女や側近のみ。
その全員が“秘密を守るための訓練を受けた者達”だ。
今我が景国は、年々国力が低下しつつあり、強国「天黎」と敵対すれば、国が持たない状況にあった。
さらに、北からは草原民族の圧迫を受け、国内では農民反乱の兆しが見え始めている。
そこで、「皇女を差し出して和親」という伝統的な手段で、天黎と同盟を結ぶ必要があった。
しかし妹の蕭烈月は、数年前から蒙成国へ拉致されている。
拉致したのは蒙成国の強硬派であり、和平派が黙認している状況だ。
時間だけが過ぎ、妹の安否も危うく、私が何度も使臣と足を運んだが、外交交渉は「女子」としてであり全く進展がなかった。
天黎国との同盟で、和親だけでなく、軍事的圧力や外交力を得れば、蒙成国に対しても有利に出られる。
今どうしても、天黎の後ろ盾を得たい。
天黎国と組むことで、蒙成国に“烈月を返還しなければ、両国同盟が成立している為、包囲される”と圧を掛けられるからだ。
だが肝心の皇太子に嫁げる公主が、我が景国にはいない。
その為、烈月が蒙成国に行ってしまってからは、父帝が私を“皇太子妃”として、天黎に装う策を練った。
天黎の皇帝は、同盟の話にとても前向きだ。
それに私は以前から、何度も“景国の公主”として訪れている為、何の疑いも持ってはいない。
天黎の皇太子・煊王李煌は、伝え聞くところによると、幼少より文武に秀で、十三にして政務に意見し、十五には一軍を任されたと言われた。
戦場にあっては冷静沈着、都にあっては誰よりも策に長け、老臣さえも頭を垂れるそうだ。
それでいて、むやみに他国を見下すような傲慢さはなく、対する者の器量を見極め、時には手を差し伸べる事もいとわぬ器の大きさ――まさに「次代の帝王」としてふさわしい人物だと見聞されていた。
しかし同盟後、私が男であり”景国の公主”でないと分かれば、きっとただでは済まされないであろう。
でも、私は自分が犠牲になってでも、景国と烈月を守りたいのだ。それは、わが父景国王も同じ気持ちだった。
―――そして、父帝と何度も相談した結果、ついに年明け、天黎へ“皇太子妃”として嫁ぐことが決まる。
私はその前に、護衛の宋漠を連れて、天黎の都の様子をこの目で見に行くことにした。
―――天黎の都『景都』は、思っていた以上に、平和で穏やかだった。
広い石畳の通りには、行きかう人々の明るい声と、市場の果物の甘い匂いが満ちている。
私は軽い綿衣に身を包み、顔を半ば覆う布を巻いてゆっくりと歩いていた。
まさかここにいる男の自分が、“この国の皇太子に嫁ぐ”だなど、誰が思っただろうか。
子供の頃から、ずっと好敵手だった「皇太子煊王李煌」。
その側室になった、凌媛羅。
そしてその弟に嫁いだ女、凌雪という名も、外交文書の中で何度も目にしていた。二人が天黎の大将軍・凌孟昊の娘であることも…。
これから彼女たちとかかわっていく事に、不安がないわけではない。先に気づかれてしまえば、計画が頓挫するからだ。
だから烈月を取り戻せる前に、皇太子だけには、男であるべきことを、打ち明けるべきかと悩んでいる。
それは、命がけなのだが…。
「殿下、おなかがすきませんか…」
その時そばに居た宋漠が、私に声を掛けて来る。
そう言えば、昼餉を早めに取ったため小腹がすいてきた。
「そうだな。あの店にでも入ろう」
私は、目の前にある「柳巷香」という店を指さす。
それは柳並木のある細道の奥まった一角に、朱塗りの木格子と油紙の灯籠が目印の小さな屋台風の店だ。
私と宗漠は、目立たぬようその店に入り、戸口の傍の窓際の席に座ると、店の中を見渡した。
店主は「周婆」と呼ばれており、皆に親しまれている。
彼女は小さな鉄鍋を、手際よく操っていた。
白髪を布巾でつつみ、しわの深い手元からは桂花の花びらを浮かべた白玉の粥が、ふわりと湯気を立てて供されている。
焦げ目のついた大根餅の香ばしい香りと、甘く炊かれた棗の香りが混ざり合い、私はそれにささやかな幸福を感じた。
――その時隣の席に、白紗の布を纏った若い女子が腰を下ろす。
周婆と言う店主は、彼女がまだ注文もしていないのに、「桂花糖粥」と「大根餅」を彼女の卓に置いた。
「のんびりしていきな。すきなだけ」
周婆がにっこりと笑って声を掛けると、その女は小さく頷いて、そっと白紗を外す。
「いつもありがとうございます」
そう言って、周婆に微笑んだ彼女の横顔に、一瞬私の胸がざわめいた。
思わずじっと見とれていると、宗漠が卓の上に置いた私の手を指先でつつく。
「注文しましょう」
それにハッとして、店の中を見渡すものの、何がおすすめなのかさっぱり分からない。
周りの客と同じものを頼んだとしても、きっと自国の嗜好とは違うだろう。 味の想像もつかず、二人して注文を決めかねていた。
すると、その隣の女子と思わず目が合う。
彼女の瞳は、まるで夜の湖面のように濃く、深く、澄み切っていた。
それはわずかな光も、その奥に吸い込んでしまいそうなほど…
私は、それに思わず釘付けになる。
長く繊細な睫毛が影を落とし、瞬くたびに艶めきを同時に纏い、それが微かに揺れる度、胸の奥に淡い波紋を広げるように感じた。
凛とした眉と、品の良い額。
肌は雪のように白く、その黒い瞳を一層際立たせている。
まるで絹の上に描かれた墨の一滴―――それほどにくっきりと美しかった。
私は彼女から視線が外せなくなり、思わず目を奪われてしまう…
すると宗漠と私に、彼女が話しかけて来た。
「ここは、桂花の花を浮かべた甘粥がおすすめですよ。
ほんのりと甘く、とても優しい味わいなのです。
それから、大根餅は行列ができるほど人気で…一度食べてみてください。
周婆の秘伝の醤油だれが決め手で、とても香ばしく美味しいですから」
そう言ってにっこりと笑うと、周婆に向かって手を上げる。
それから、彼らが注文をしたいと言って取り次いでくれて、私達は無事腹の中を満たすことができた。
それは彼女が言ったように、本当においしく、腹だけでなく心も満たされるような味だ。
最近こんな風に、ゆっくりと味わいながら食事をしたことがあっただろうか。豪華ではないが、素朴な心安らぐ味に胸打たれる。
自国にいないのと、誰も私を知らない事が、隠し味になっているのかもしれないとも思った。
そんな事を思いながら、私は蒙成国にいる妹の事をふと思い浮かべる。一体どのようなものを食しているのだろうか。そしてちゃんと眠れているのか…
するとそこへ、彼女の侍女らしい娘が、心配そうに飛び込んでくる。
その娘は小柄で、あどけなさを残すものの、二人はとても信頼しあっている様に見えた。
「やはりここに、いらしたのですか」
「蘇璃…」
「心配しました。府にお迎えに行ったら、玄洵様が先に帰ったとおっしゃったので」
「どうしても、今日はここの“桂花糖粥”が食べたかったの」
「そんな…お嬢様…。大丈夫なのですか…?」
そう言った侍女に小さく頷くと、彼女はゆっくりと席を立ち、私達に向かって小さく頭を下げた。
それに合わせるようして、侍女もこちらに頭を下げると、二人連れだって店を後にする。
ほんのすこし言葉を交わしただけなのに、この出会いが、私の心に、花びらが舞うようなときめきを与えた。
それを視線で見送り、ふと気づくと宗漠が私をじっと見ている。不審なものを見るような、何か言いたげな表情だ。
「何か顔に、ついているか?」
「え、あ…いや」
「おかしなやつだな…」
「公主…ではなく、殿下…」
「どっちでもよい」
「先ほどの女子は、とても身分が高そうでしたが…」
「よくわからぬ。しかしこのような店に一人でいるとはいささか…合わぬような気がしないでもないが…」
そう言ったら、それをそばで聞いていた周婆が、飲み物を雑に置き話に入って来た。
「あの子は、大将軍様の娘なのさ」
「大将軍?」
「大将軍凌孟公殿だよ。この国の英雄の!」
「……」
それを聞いて、宗漠と咄嗟に顔を見合わせる。
凌孟公の娘と言えば、凌媛羅か凌雪か??
「しまった、宗漠!私は、顔を見られてしまった」
驚きのあまり思わず口元を掌で抑え、宗漠の顔を、目を見開いて見る。
容姿だけではどちらなのか判断できなかったが、彼女がもし凌雪なら、後に寧王に伝わる危険があった。もし凌媛羅なら、もっと深刻だ――皇太子に正体が露見する。
今後絶対に二人に会わずには、いられないのだから…
「別にあんたの顔見たからって、雪は何にも思わないさ」
「雪?あれは凌雪か?」
「あんたら凌雪の知り合いかい?それにしても…。見たところ貴族にも見えないし…」
周婆は、私の頭からつま先までを舐めるようにして見た。庶民の服装を装っているからだろう。それに街を歩いて気づいたが、天黎と景国では、若干服装の志向が違うようだ。
寧王李璿の正妃・凌雪…あれが――――
「公主、どうしますか…」
周婆は、男の私に宗漠が「公主」と声を掛けたので、こちらをじっと見つめてから、何度も首を傾げ、私達を不審がった。
「客があまりおらぬ店ゆえ、ここに入ったのに…」
「大変な事になりましたね。大丈夫でしょうか…」
「いつもはもう少し入ってるさ!それに客は夜になったら増えるんだよ!仕込みするから、早く出て行っておくれ!」
「婆さん、なんであの娘とは親しいのだ」
その時宗漠が、周婆に慌ててそう尋ねる。
「親しいも何も、あの子は悩みがあるとここにきて、一人で桂花糖粥を食べていくのさ」
「悩み?」
私が聞き返すと、周婆は先程娘が座っていた椅子に腰を下ろした。他の客が帰って、私達だけになり暇だったのだろう。
「あの子は本当に優しい子で、家族思いのいい子なんだよ。
あんたたちに何があるのか知らないけど、凌雪は、誰かが困るようなことは絶対にしないよ!」
周婆は、そう憤ると勘定を早くしてくれとそう言うので、宗漠が二人分をすぐに払い、私たちは店を出て客桟へ向かった。
寧王妃凌雪…
問題なのは、次に会った時だ。蕭烈微が私だと気付いた時、寧王に話されたら一環の終わりだ。
「殿下…。これは早急に手を打たねばまずいのでは…」
「わかっている。元々たやすく事が運ぶとは思っていない。婚姻後すぐに皇太子には話すつもりだ」
「でも…それでもし殿下の御身に何かあれば…」
「こちらが調べた煊王李煌の性格であれば、何とかなるのではないかと思っている。それに昔から、冷静かつ慈悲深く、話を聞かぬようなお人柄ではなかった」
「公主が蒙成国にさえ囚われていなければ…今頃平和に天黎と和親を結べたものを…」
「私もあの頃、まさか自分が煊王李煌に嫁ぐことになるとは思わなかった…」
肩でついたため息に、宗漠も同じように肩を落とした。
師走も近いこの天黎で、吹き抜ける冷たい風が私の未来を暗示しているようで一抹の不安を覚える。
「しかし…寧王妃があのように美しいとは…」
「殿下?」
「私は、寧王妃に心奪われてしまったかもしれない…」
「え?」
「宗漠…これを一目ぼれと言うのだろうか…」
「駄目ですよ!殿下は女子なのですから」
「それは表向きではないか。しかも問題はそこではない」
「……」
「彼女が寧王妃であるという事だ…」
生まれてから女子として生きる事を強いられ、うつむき下を向き、そしていつの日からか自由に声を出すことも叶わぬ日々だ。
恋をすることさえ許されず、私は唯一想いを寄せていた侍女の翠玉を死なせてしまった。
翠玉は、ずっと私の侍女として側に控えていた女子だ。
身分の差もあり決して結ばれる相手ではなかったが、私は彼女を慕っていた。
そんな彼女に、寧王妃凌雪はなんとなく似ている。
「なんとなく…翠玉に似ていましたね…」
宗漠も、そう口にするほどに…。




