第五十四話 不安な夜
私は障子をそっと開け、凌雪を起こさぬようにして、音を立てず庭へ足を運んだ。
夜気は冴えわたり、深まる秋の冷えが頬を撫でる。
霜楓別苑の庭は、昼間の燃えるような紅葉とは打って変わり、月光に照らされて静寂を纏っていた。
ふと顔を上げれば、澄み切った空に星が、こぼれるように散りばめられている。
まるで手を伸ばせば、全て取れそうなほど、無数の星が瞬いていた。
私は軒下に立ち、薄紅葉に覆われた枝越しにその光を仰ぎみる。
庭の池面にも星が淡く映り、風のない夜はしんと静まり返っていた。
背後には凌雪の眠る寝室の明かりが、ぼんやりと灯り、障子越しに微かなぬくもりを感じさせている。
――昨日、景都を三日ほど離れるので、私は軍営で引継ぎを行っていた。
その時「話がある」と、叔父の慶淵王が軍幕を尋ねて来て、大事な話だと言われ人払いをする。
慶淵王は息を荒くして腕を前に組み、そばにある黒檀の椅子に勢いよく腰を下ろした。
「明日は、正妃と霧楓別苑に行くのだとか。それで三日も都を空けるなど!!」
それを聞いて、一体今度は何なのだと私は、深いため息をつく。
「私は婚姻後、ほとんど公務を休んでいないのです。明日は久しぶりにゆっくりと夫婦で出かけようかと」
「蘇貴夫人から聞いたのだが、凌雪に誘われたのか!?」
「だから何だというのですか」
「あの女は皇太子の女だぞ!!
沈貴婦人が、東宮の執務室で抱き合っている二人を見たと。何度も言ったであろう!あやつらは、陰でお前の事を笑っているのだ!!」
「凌雪は叔父上が言うような、羊頭狗肉の女ではありません!もういい加減にしてください。私に離縁でもしろと言うのですか?」
「お前はこちら側の人間だという事を、忘れたのではあるまいな?!」
「こちら側もあちら側もありません。私はただ天黎が良くなればそれでよいのです」
「そんな綺麗ごとが、今更通じると?」
「では、私に一体どうしろと?」
「韓清之の娘を、側室に娶るのだ」
叔父上の口から発せられたその意外な要求に、私は言葉を失った。
それは到底、受け入れがたいものだったからだ。
「…なぜ私が、韓清之の娘を…」
「お前は、私達の計画の全てを知っている。いつ皇太子や、李乾徳に漏らすとも限らぬからな」
「私は誰にも話したりはしません。叔父上、決して口外せぬと誓います。なのでそれだけは…」
「ならぬ!!お前も秘密を漏らさぬというのなら、それ相応の誠意を見せよ」
「……」
「韓清之の娘を娶れば、凌雪の事を信じてやるし、もうお前に何も言わぬ」
私は、その叔父の提案に、何も答えることができなかった。
叔父は、それに苛立ちを見せると“猶予は一週間だ”と言い放ち、軍営の幕内を後にする。
踵を返し、勢いよく出ていく叔父の後姿を見つめながら、私は拳を強く握りしめた。
――韓清之の娘を娶れば、凌雪は何と言うだうか
きっと何も言わず、笑って受け入れるだろう。
だが、婚姻前に彼女が側室を娶られるのを嫌がり、私に涙を見せたことがあった。
その涙は私の胸を締め付け、できる限りそうしなくても済むよう、私は心を配るつもりだったのだ。
なのに私は、どのような顔をして、凌雪を見れば良いのだ。
叔父上は、兄の上奏文の事を知って以来、凌雪を必要以上に疑っていた。
兄上が交宿を行わないのも、そのせいだと。
実際、あの凌媛羅との交宿日以来、体調を理由に兄上は、それを拒んでいると御医からも聞いている。
しかし、あれから二人はよく寧王府を訪れるようになり、私達夫婦とも交流していくではないか。
前のように、特別媛羅の事を毛嫌いしている様子もなく、どちらかというと仲睦まじくさえ見える事もある。
だが兄上は、前よりも増して凌雪にも優しかった。
叔父上があのような事ばかり言うので、そう見えるのだろうか…。
何度も何度も繰り返し言われると、凌雪を信じていても疑心暗鬼になりそうだ。
特に、今日のようにずっと一緒に居れば、私も嫌でも気づいてしまう。
時折、遠い目は、誰の事を考えているのだろうか。
ぼんやりとしている事も多く、そばに居る私の事より、もしや兄上の事を?と考えなくもない。
叔父上のせいで、こんなに側にいるのに、不安が押し寄せて来るではないか…
さっきこの腕に抱いた凌雪は、確かに私のものだった。
私の全てを受け入れてくれている、そんな風に思っている清らかな目だ。
あの目を信じ切れないなど、私はどうかしている。
思わず深くついたため息に、少し離れたところにいた岳珩がゆっくりと近づいてきた。
「殿下…夜は冷えます。もうお休みになられては…」
心配そうな声で、後ろから私を覗き込みながら、手に持っていた被(ブランケット)を私の肩にそっと掛ける。
「岳珩…」
「はい」
「私はどうやら、凌雪にとって良い夫ではないようだ」
「殿下…。そのような事はございません。殿下は正妃を大切に…」
「叔父上から、韓清之の娘を娶るように言われた」
「それは…」
「あれから叔父上は、何度も兄上と凌雪の事を私に話す。…凌雪を信じていないわけではないのだ。ただ…」
「……」
「でももしかしたら、凌雪は…本当は私よりも、兄上を慕っていたりしたのだろうか。
それを私が、“娶りたい”などと言ったがために…」
「殿下…。最近よくお眠りになれていないようですが、御就寝前の調茶を正妃が自らなされているのをご存知でしたか?」
「凌雪が?」
「大層殿下のお身体を心配され、神医から習った配合で、誰にも任されず、必ず毎日ご自身が調茶されるのです。その日の殿下の体調や、何をしていたのか、誰と会っていたのか…」
「……」
「特に慶淵王殿下に会われた日は、殿下はご機嫌が悪く、正妃は、殿下のお部屋の香炉も、ご自身で選んでいらっしゃいました」
「……」
「それから殿下が軍営に行かれる日の朝餉は、早起きされて自ら御厨で、お作りになられているのです。食材も殿下の体調に合わせ、ご自身で選ばれているので皆正妃に協力しています」
この時、岳珩から知らされる凌雪の思いやりに、私は掌を静かに握りしめた。
叔父上の言葉に惑わされて、大切な彼女の事を少しでも疑うなど…。私はどうかしていたのではないか。凌雪は、私の事をそれほどまでに気遣い、思いやってくれているのに…
「それは全く知らなかった…」
「私は、今日お二人をおそばで見ていて、正妃に下心があるようには微塵も感じませんでした。もし慶淵王殿下がおっしゃるように、殿下を裏切るおつもりならば、ここにも来ないのではないのでしょうか。
それにもし皇太子殿下を、お慕いしていた時があったとしても、正妃は今、寧王殿下を選ばれているのだと、私はそう思うのです」
「兄を慕っていた時があるというのか」
「それはわかりません。でも煊王殿下は華殿下なので、天黎の娘が皆憧れています」
岳珩は、少しも慌てることなく冷静にそれを口にした。
確かに、凌媛羅もそうだが、兄上は良家の娘の憧れの的だ。
皇位継承者という事もあり、正室になればゆくゆくは皇后にもなれる。
しかし凌雪は、以前茶会で母親の凌夫人に話していた。
――私は皇族や偉い人の所に嫁ぎたくないから、蕙選は受けたくない。と―――
それでも、私との婚姻が決まり凌孟昊が、しきたりなので受けさせたと慌てていた。
私に嫁ぐために…嫌だった蕙選も受けてくれたのに…。
「岳珩…もう夜も遅い。ゆっくり休め。お疲れ様…」
そう言って立ち上がった私に、彼は深く一礼をすると凌雪の部屋まで見送ってくれる。彼の言葉と、しんと静まり返った秋の夜の冷たい空気が、私の心のざわめきを静めてくれたような、そんな気がした。
それから音を立てぬようにそっと障子を開け、彼女が眠る寝台に足を忍ばせて近づいた。
寝台に横たわる凌雪の頬にそっと指先で触れてみる。
それは柔らかで、ほんのりと温かく、眠っているととてもあどけなく感じ、思わず笑みがこぼれた。
私の側にいるという事は、私だけの凌雪だという事だ。
例え兄上がどのような気持ちでいようとも、動じる事もなければ不安になる事もない。
叔父上が何と言おうと、私は凌雪を手放したりはしない。
私は、眠る凌雪の頬にそっと唇を寄せた。
「おやすみ、正妃。また明日共に過ごそう…」
凌雪を起こさぬようにして、彼女の隣に横になろうとしたその時だった―――
「…殿下?」
「起こしたか…」
凌雪がぼんやりと目を開けて、私の方を見る。
“もう、朝が来たのですか?“と、どうやら少し寝ぼけているようだ。
「いや…起こしてしまったな。まだ夜も深い…ゆっくり一緒に眠ろう」
そう言って彼女のぬくもりを、後ろからそっとこの腕に抱きしめ、瞼を閉じる。
そして彼女の優しい香りを、この胸に大きく吸い込み、安堵の気持ちと共に眠りに落ちた。
私も、叔父上の全てを否定し、根も葉もない事を言っているだろうとは思っていなかった。
その手には、幾人も密偵がいるからだ。
だからこそ、何度も言われると心が揺れ、凌雪に疑念を抱いた。
しかし何を言われたとしても、凌雪を失う事だけはできない…。
例え兄上が、凌雪を慕っていたとしても、彼女はもう寧王妃なのだから。
凌雪は、私の方にゆっくりと寝返りを打つと、目を閉じたまま小さな声で私に話しかけて来る。
「…殿下…もしかして眠れないのですか…」
「……」
「何かお悩みでも…。昨日から特に元気がないように思われます」
そう言うと彼女は、眠そうな目をこすりながら、ぼんやりと目を開けた。
「凌雪…」
「私が殿下のおそばに居りますから…静かに眠りましょう…」
瞼が閉じそうになりながら、子供をあやす様に私の背に回した手は、心臓の鼓動の速さで軽く拍子を打つ。
思わずそれに頬を緩め、私は彼女の額に静かに口づけをして、そのまま目を閉じた。
凌雪…今日は久しぶりによく眠れそうだ。
明日も二人でゆっくりと過ごそう。
誰にも邪魔されることなく、二人だけで…
「おやすみなさい…」
彼女の声はだんだんと小さくなりながら消えていく。
規則正しい静かな寝息にそっと耳を澄ませ心から幸せだと思った。
―――彼女さえ、側にいてくれれば、と。




