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第五十二話 疑いの心

「凌雪、具合はどうなのだ」


私は、兄上が朝から王府の書房に尋ねて来られた日、門で彼を見送った後、すぐに凌雪の部屋へ様子を見に行った。


「殿下…」


私が部屋に入ると、寝台から身を起こそうとした凌雪を、慌ててそのまま寝ている様に促す。


やはりまだ顔色が少し悪い。


白い肌は、更に透けるように白くなり、唇の色も淡い。頬の赤みがなくなっただけで、まるで薄絹のようにこの世からほどけてしまいそうだ。


「皇太子殿下は帰られたのですか?」


「そうだ、凌雪。今聞いたのだが、兄上が交宿をなさったそうだ。それも一昨日」


「本当ですか…」


その目に、少しだけ輝きが映る。


「これで、凌媛羅も一安心だな」


「良かった…」


そう言ったものの、あまり気力がなさそうに横たわる姿を見て、私は少し心配になった。


「凌雪、府医に見てもらおう」


「大丈夫です。靈麗(れいれい)に診てもらったら、気が欠けていると言われました」


「気が欠ける?」


「心配事があって、少し疲れているようなので休めば治るそうですよ」


「心配事など…一体何があるのだ。私に全部話せばよい」


「姉上の事が、心配だったのかもしれませんね」


そう言って、うっすらと笑みを浮かべた彼女に、私はもう安心だからと声を掛け、叔父の慶淵王に呼ばれていたので、このあと王府に足を運んだ。


凌雪と婚姻してから、慶淵王符にも足が遠のいていた。ここに来るのも久しぶりだ。


書院の奥、敷地の南西に位置する執務室は、漆黒の扉に金の飾りぶちが施され、左右には獣の彫刻がにらみを利かせていた。


その扉が静かに開かれ、一歩中に入ると、そこにいた慶淵王が筆を止め、わずかに顎を上げる。


私は深く、叔父に一礼した。


そこは高木の香りがほのかに漂い、足元には濃紺の絨毯が敷かれている。書架は天井まで届くほど高く、整然と巻物や文書が収められていた。

中央の文机は黒檀でできていて、硯や印章がきちんと並べられている。壁際には古地図と軍略図、そして重厚な青磁の壺が一つ…


慶淵王が腰掛ける玉座の様な椅子は背が高く、獣皮が敷かれ、訪れたものを静かに威圧するような気配が部屋全体に満ちていた。


「寧王、忙しいところよく来たな」


その声には、年長者らしい余裕と、どこか私を試すような静かな響きがあった。


私は室内に歩みをすすめ、叔父上の前で深く一礼し(うやうや)しくそれに応じる。


「叔父上のお呼びとあらば、いかなる時も馳せ参じます」


慶淵王は微かに口元を緩め、手で席を指し示した。


「まぁ座れ。話がある」


私は頷き、側にある黒檀の椅子に腰を下ろす。


「この間、軍営に皇太子が来た時、揉めたとか」


「あれは…」


兄上に媛羅の事を話した時の事か…


「皇太子が、お前を敵視している理由がわかるか?」


「別に敵視されていません。今朝も寧王府を訪れられたのです」


「そんな事、寧王府に来る理由などあの娘の事しかないではないか」


「あの娘?」


「お前の正妃に、会うためだろう」


「今朝凌雪は会っていません。身体の具合が悪く床に臥せっているのです」


そう私が言うと叔父上は、小さく首を横に振り深いため息を肩でついた。


「まだわからないようだな。凌媛羅の話では、皇太子は凌雪の為に侍寝(じしん)もしないそうだ。未だ交宿でさえ…」


「一昨日が交宿日だったそうです。今朝聞きました」


「何?」


「兄上も凌媛羅を受け入れ、とても大切に思われているようです」


「そんなはずは…」


「凌媛羅も今までは不安だったのでしょう。彼女は婚姻前から兄上の事を疑い、凌雪を目の敵にしていました。

私も偶然話すことがあり、相談されたことがあるのです」


「……」


「その時も、兄上と凌雪の事を誤解していました」


「疑うような理由があるからだろう」


「凌雪は、そのような女子(おなご)ではありません」


「しかし、先日も!」


「先日?」


「皇太子と凌雪は、東宮で会っているのだ!」


「……」


「先日、我が(しん)貴夫人が皇宮へ行った。映月亭(えいげつてい)で宰相夫人主催の箏の会があったからだ」


「それが何か」


芳翎ほうれい(沈貴婦人の名)は、皆が集まる前、一足先に月英亭で茶を飲んでいたそうだ。その時、皇太子の執務室に凌雪が訪れ二人は会っていたと!」


「……」


「10日程前だったか…」


「それなら私が、凌雪に会ってもらえるように、兄上に文を書いたのです。凌媛羅の事で義父上も凌雪も悩んでいて、直接兄上を説得できるように…」


「二人は、抱き合っていたのだぞ!」


「……」


「芳翎の話では、上月亭から見える皇太子の執務室で抱き合っていた二人が見えたと!」


「それなら、沈貴夫人の見間違いでしょう…。あそこからでは兄の背しか見えないではないですか。それに執務室には韓昭(かんしょう)もいる」


杜衛(とえい)の話では、あの時韓昭は執務室の外でずっと待っていたそうだ」


「……」


「凌媛羅の報告では、皇太子が凌雪に気があるのは間違いない。凌雪の為に側妃との婚儀の日の宿合も拒み…」


「もうやめてください!兄上は側妃と交宿も行い、今朝は、蕭烈微を娶った際の凌媛羅の置かれている立場を案じていました。凌雪は、兄上の側妃への態度にずっと心を痛めていたのです」


「お前は甘いのだ!皇太子が蕭烈微(しょうれつび)を娶った後は景国がつく!そうなれば、お前の事もわからぬのだぞ!」


「兄上は、その様な方ではありません」


「まだわからぬか!なら李景玄(りけいげん)の話を教えてやろう」


「李景玄?」


「お前の高祖父で、私の祖父だ。李景玄は、当時弟の婚約者沈若蘭(しんじゃくらん)を娶るため、弟にあらゆる疑いをかけて粛清した。そして沈若蘭を正妃に迎えたのだ」


「それは確か…李睿明(りえいめい)が、余命幾ばくもないからと…」


「それは表向きだ!李景玄が“男の兄弟にはそう話せ”と遺言を残したからな」


「……」


「当時私の祖母だった太皇太后だった沈若蘭が、李乾徳(りけんとく)の婚儀が決まった時、私と皇后を呼び事実を話して聞かせた。同じことを決して起こしてはならないと。


凌媛羅の話を聞いていると、婚儀の後、交宿を拒み続けるなど普通ではない。

煊王李煌(けんおうりこう)は、皇太子なのだぞ!」


「でもやっと交宿を…」


今朝、兄上は凌媛羅の事を思いやっていて、前とは変わったように見えた。凌雪が話をして説得したとばかり思っていたが…。


「それに、凌媛羅との婚姻を取り消すため上奏文を書いたそうではないか」


「上奏文を?父帝にですか?!」


「皇太子が、陛下の事に逆らった事など、今まで一度もなかったであろう?!」


兄上が、媛羅との婚姻を取り消すための上奏文を?

その様な話は、噂話でも出ていない…


「何かの間違いでは…」


「お前の婚儀の日、煊王が公主と話していたのを、凌媛羅が聞いたそうだ」


華琳(かりん)と?」


「凌雪と皇太子は何かある。蕭烈微を娶る前に皇太子をなんとかせねばお前が危ないぞ」


「何かあるとは?一体何があるというのですか。蕭烈微の事は兄上も悩んでおられました。あの気性の荒い娘が嫁いできて、側妃を傷つけるのではと、今朝も心配していたのです。叔父上は常軌を逸している。李景玄と兄上がなぜ同じになるのです!

それに凌雪は、私に尽くしてくれています。逆らった事も一度もありません。

これ以上の妄言は辞めていただきたい!」


李璿(りせん)!」


「お分かりになっていないようなので、もう一度言っておきます。私は、皇太子になるつもりもなければ、皇位を狙ってもおりません。

叔父上がそうしたいのなら勝手にどうぞ。私を巻き込まないでいただきたい!」


私は立ち上がり、叔父に素早く一礼すると踵を返し、この部屋を足早に退出した。


―――叔父上はどうかしている。

天黎(てんれい)を守るには、兄上と手を取り合うのが一番ではないか。

どちらかが天下を奪い合えば、乱世になるに決まっている。


私が望んでもいないのに、いつまで皇位に執着しているのだ。


兄上が上奏文を書いていたのは意外だったが、凌媛羅との事なら理解できないわけでもない。

この間兄上から”凌媛羅を娶れるのか”と言われ、私も兄上の気持ちが少しだけわかったような気もした。

けれど交宿も行い、皇太子の役目を果たそうとしているではないか。


―――二人は抱き合っていたのだぞ!―――


叔父上が言っていたあれも…沈貴夫人の見間違いだろう。

あの映月亭から兄上の執務室は、窓から人がいるかどうかがやっとなほど見えるだけだ。

…あそこにはいつもいたからわかる。

韓昭の事も、媛羅との交宿の話をするためなら凌雪が気遣を使うだろうと、兄上が人払いをしてもおかしくない。


私はそう自分に言い聞かせるようにして、慶淵王府を後にした。


それから岳珩(がくこう)と軍営に行き、寧王府に戻る前彼に手合わせを頼む。


昼間叔父上から聞かされた話が、どんよりと胸の中に沈んでいて、それがとても重苦しく感じたからだ。


岳珩は、寧王直属の護衛隊「虎牙衛(こがえい)」の影衛司守首(えいえいししゅしゅ)も務め、護衛としての腕は一流だ。おそらく兄上の韓昭とも互角だろう。

彼は、名門の次男で家督を継がず、自ら武官の道を選んだらしい。


私の為に、命を投げうつ覚悟を持つ純粋さを持ち、忠実で礼儀正しい男だ。

そしていつもは、私の良き相談相手でもあった。


―――軍営の演習場で私は岳珩と向かい合う。


「今日は、遠慮なく頼む。岳珩」


私のその声に、彼は深々と一礼した。


「わかりました。手加減は無用とのこと。確かに承りました」


言葉が終わるやいなや、岳珩は一瞬で距離を詰めてくる。

その黒衣が風を切り、私の目前を翻した。


鋭い金属音が、何度も空気を裂く。

私の剣は寸分の狂いなく、岳珩の剣を受け止めていた。


次の瞬間には、自ら前へと踏み込み、身体を捻るようにして切り返す。

周囲の護衛達は一歩も動かず見守っていたが、誰一人として二人の間に割って入れるものはいない。


「岳珩、また腕を上げたようだな…」


そう言って笑うと、岳珩は一瞬表情を動かした。


「…殿下の背を預かる者として、腕が鈍れば死を招きますので」


その言葉に、私は息を弾ませながらも、次の太刀を繰り出す。

岳珩は鋭くそれをさばき、わずかに体勢を崩した私に、空気を裂くような付きを放った。


それにそのまま身を翻し、彼が後ろに回ると、私は剣を下ろし深く息を吐く。


「ざわついていた気持ちが、少しは晴れたようだ。お前がいる限り、背を預けるに不安はないな」


それに岳珩は、無言で深く頭を下げた。

その動きはまるで、一刀に込められた忠誠そのものだった。

それから、二人で寧王府へ戻り、私はすぐに凌雪の部屋へ様子を見に行く。


叔父上の話が、頭の中で打ち消してもすぐに浮かんできて、顔を見ずに居ては落ち着かなかったからだ。


蘇璃(そり)が言うには、凌雪は、調子も戻ってきて夕餉は少し食べられたと。


私は、はやる気持ちを抑えるようにして、正妃の部屋「翡翠居(ひすいきょ)」の扉を開けた。


「王妃、寧王殿下でございます」


そう待機していた侍女が、中に声を掛けながら扉を開けた瞬間、白檀とほんのりと甘い花の香が漂う。

香炉の中で焚かれている香は、凌雪の好みに合わせていつも選ばれたものだ。深い夜の(とばり)が下りたせいか、部屋の空気もどこか静かに沈み込んでいる。


寝台には滑らかな銀鼠の絹掛けがかかり、夜具の花の刺繍が、眠れない凌雪の肩をそっと包んでいた。


「もう眠るのか?」


そう言いながら彼女に近づいたものの、その歩みはどこか慎重で遠慮がちになる。


「…今しがた、灯りを落とそうかと思っていた所でした」


凌雪は柔らかく微笑むが、その声に覇気は全くない。


私は寝台の脇に腰を下ろし、そっと手を伸ばして凌雪の指先に触れた。


「どうしたのですか?お元気がないように見えますが」


「いや、体調はどうなのか気になって。夕餉は幾分食べられたと聞いて安堵していたところだ」


「私なら大丈夫ですよ。今日一日休んだら、すっかり良くなりました」


そう言って笑った凌雪の頬に、そっと手を伸ばす。


私を見るこの優しい目は、叔父上が言うように兄上を見ているというのか…


――いや、あのような妄言に惑わされていてはだめだ。目の前にいる彼女を信じねば。


それに今朝兄上は凌雪の事よりも、どちらかと言えば凌媛羅を心配していたのだから。


「この間の…」


「はい」


「兄上の執務室に行った時の話だが、凌媛羅の事をどのようにして説得したのだ」


「どのようにとは?」


「いや、私も何度か話してはみたのだが、兄上は全く聞く耳を持たれなかった。婚姻後一度も交宿が行われず、あれほどまでに頑なだったのに、今朝会った兄上はまるで人が変わったようだった」


「数日前、姉上には、殿下からお話されていたようですよ」


「凌媛羅に?」


「はい。皇后さまの茶会で姉上と会いました。その時、皇太子殿下から交宿を行いたいと言われたと。大層喜んでおられました」


「では、お前が説得したからではないと?」


「それはわかりません。話を聞いたのは私が皇太子殿下にお会いした後なので。ただ、殿下には父も私も、本気で皆天黎の事を考えていると申し上げました」


「……」


「皇太子殿下には、姉上を大切にしてもらいたいです…」


「お前は、本当にそれでよいのか」


私は思わず、凌雪に聞き返してしまう。

一度は飲み込んだ疑いが、叔父のせいで膨れ上がっていくのを感じた。兄上は、上奏文を書いてまで媛羅との婚姻を取り消そうとしていた。


それはもしかして、凌雪の為ではないのか…。


「それでよいとは?もしかして私が、姉上が不幸になればよいと思っていると?」


すると凌雪は、私が想像していたよりも、見当はずれな事を言い始める。


「え、あ、いや…」


「確かに、あの廬山峠(ろざんとうげ)の一件では姉上に不信感が生まれました。でも、腹違いとは言え姉妹なのです。姉上が幸せにならないと父も悲しみます。そして、皇太子殿下は私の兄上なのですから」


「……」


「殿下は、姉上が皇太子殿下と交宿された事が、そんなにお嫌なのですか?」


「え?いや!そんなことあるはずないだろう!私だって、心を痛めて兄上を説得していたのだ」


思わぬ疑いが、私の方へ向かって来た。

まったく!叔父上が変な事を言うからだ。


執務室で抱き合っていたなど、この様子では、そんな事もあるはずがない。


「凌雪、すぐに着替えをしてくる。今夜はここで休んでも良いか」


そう尋ねたら、凌雪は体調の事もあり、一瞬迷いを見せた。


「殿下…」


「私も今日は色々あって、気が落ち着かないのだ。せめて隣にいさせてほしい」


私も、彼女の体調がすぐれない事もわかっていたけれど、この日はどうしても一緒に過ごしたかった。そばに居るだけで良いのだと…。


凌雪は、私の目をじっと見つめると小さく頷く。

私は彼女を一度抱きしめてから、着替えの為翡翠居を後にした。







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