第五十一話 皇太子の疑問
交宿の翌日目が覚めると、側で薬念神医が、とても心配そうに私を見守っていた。
どうやら私は、意識を失ってしまったらしい。
神医に凌雪の香袋の事を知られてしまったが、それ以上の事は何も言わず
ただ涙を流して、私の無事を喜んでくれていた。
どうやら“気に当たる”とは、相当心配な事らしい。
“恵仁堂の仕事があるから”と神医が部屋を出て行った後、入れ替わりに今度は御医が入って来た。
その横には白湯を持った侍女が待機している。
「殿下、お身体の為に、まずは御湯(さゆ)をお飲みください」
御医に促され、侍女が私の側まで近寄って来て、白湯が入った器を手向けた。
湯盞を両手で包むと、まだ微かに立ち上る湯気が指先を温める。
唇にそっと器を傾け、一口含んだ。
ほのかに甘い湯が、喉の奥へと静かに落ちていく。
そう言えば、喉がカラカラに乾いていた。
その胸の奥を撫でるように、温もりが身体の芯へと沁みるように広がっていく。
「殿下、交宿日の記録をさせていただきます。体調はいかがでございますか」
「……」
「殿下?昨日意識を無くされたので詳細に体調をお話していただきたいのです。
将来のご懐妊判断にも使わせていただきますので、何卒…」
「懐妊?」
「その体調を元に、今後の交宿日を決めさせていただきます。
側妃の月信日と照らし合わせ、一日もお早くご懐妊されますよう私どもも力の限りを尽くしますので」
「つかぬことを聞くが、凌媛羅はどこにいるのだ」
「側妃ですか?側妃は恩房で目覚められた後、御湯を召されておりました。その後お部屋へ戻られたと思います」
「……」
やはり昨日の交宿は媛羅と??
あのようにはっきりと凌雪に見えたのは、一体何だったのだ?
私は、枕元の凌雪の香袋をそっと手に取る。
「殿下、御体調は…」
「体調は、大層良くないな」
「え!?…と申しますと…」
「昨日倒れたので、御医ならわかるであろう。
婚姻辺りから、実は体調があまり良くなかったのだ。
しかし、皆が騒ぎ立てるゆえ、昨日私は相当無理をした。
辺境の疲れもあるかもしれぬ。最近では食欲もあまりないのだ。
体調が戻るまで、しばらく交宿は控える」
「殿下、体調の事をなぜ今までお隠しに」
「神医に見てもらっているから、そなたは心配するな。
だいぶ良くなっていたのに、昨日の事でぶり返した。
今後、体調が戻り次第知らせる。今日はここで少し休むのでその旨を伝えよ」
私はそう言って、頭から布団を被ると、そのまま部屋の寝台に横になった。
それを聞い、て困った様子の御医と侍女はすごすごと部屋を出ていき、扉の閉まる音を聞いた後、再び寝床から顔を出す。
私は手に持っていた香袋を鼻に寄せると、凌雪の香りを深く深呼吸し吸い込んだ。
さっきまでとは違って、穏やかな幸せな気持ちが胸に広がっていく。
その時、ふと昨日の夜の出来事が脳裏をよぎった。
咄嗟に寝台から体を起こし、一通りの事を思い出してみる事にする。
あの、酒を飲んだあたりからか?
身体が徐々に、熱くなってきたように思う。
まさか、交宿の為に媛羅が酒に何か入れたとか?
いや、媛羅ではなく御医かもしれぬ。
まさか…母上が…?ーーいやいや、それはないだろう。
昨日は途中から、側妃なのか凌雪なのか、自分でも分からなくなってきた。
二人は母親が違うから、見た目も性格も全く似ていないのに…。
確かに声は、なんとなく似ている気がしないでもない。
婚姻前、媛羅に“殿下”と呼ばれ、凌雪と間違えて咄嗟に振り向いたことがある。
昨日も名を呼ばれたあたりから、頭が朦朧としてきた。
あれからの、抑えきれぬ情が全身をつき動かすような高揚感は一体何だったのだ。
凌雪だと勘違いしていたからか?
それとも凌媛羅だからか??
あのように激情に駆られるなど、私としたことが一体…。
薬念神医にもらった薬が、媚薬だったわけでもあるまいし…。
意識を失ったのは、凌媛羅の気にやられたのは間違いない。
――なんと恐ろしい事だ。これでは命が持たぬ。
今後の交宿は命がけだ。
凌雪にああ約束はしたものの、私が死んでは天黎も守れぬではないか。
それにやはり私は、相手が媛羅だと思うと、最初顔も見られず苦痛でしかなかった…。
私を慕っているという媛羅には申し訳ないが、なぜか心が彼女を拒む。
昨日も、私には凌雪しかいないと思い知らされた。
今後、どうしたらよいものか…。
「殿下…」
その時部屋の入り口で媛羅の声が聞こえ、私は慌てて頭から布団をかぶり寝台に横になった。
「…なんだ…」
「入ってもよろしいでしょうか…」
駄目だと言ったら入ってこないのか、と心の中で思ったがとりあえず許可をする。
媛羅はそっと扉を開き、軽い足取りで部屋に入って来た。
手には、盆にのせた白磁の薬碗を持っている。
「殿下、気力が回復する煎じ薬でございます。御医がお飲みになるようにと」
そう言われて、身体を起こさないままそちらを見た。
「置いておいてくれないか。あとで飲む」
そう言った私に彼女は穏やかに微笑み、側にある几帳にそれをそっと置いた。
それから横になった私の頬に、その手を伸ばしてくる。
私は咄嗟にそれを避けるようにして、顔をそむけた。
それを見た媛羅の顔が、みるみる曇るのに気づく。
「私は、顔を触られるのがあまり好きではないのだ」
思わずそう言い訳をする。
「お身体が心配で。申し訳ありません。昨日倒れられたので無理をされたのではと…」
媛羅は、とても優しい声でそう言った。
この間酒を飲み、私に当たり散らしていた時と大違いだ。
そう思った瞬間、この方が何かと都合が良いのではないかと思いつく。
体調が悪いと言っておけば、責められることも、交宿を迫られることもない。
向こうは心配はすれども、機嫌を取っておけば面倒な事が起きないのではないか?
御医も先ほど体調の事を尋ねたが、それ以上交宿の事は何も言わなかった。
「昨日は悪かった。体調が悪く私も不本意だ。だから…」
これから交宿はしばらく行えないと、そう言うつもりだった。
「いいえ。昨日の殿下は素晴らしかったです。
私は感動しました。あのように情熱的で、あんなにも私の事を思いやって下さり、涙が止まりませんでした。これからは体調が早く良くなるように、私もおそばにて精魂を傾けお支えいたしますね」
「……」
「それでは、今日は一日よくお休みになってくださいませ」
そう言うと媛羅は笑顔で立ち上がり、そそくさと部屋を出て行く。
それを呆然と見送り、また寝台の上で私は勢いよく体を起こす。
「情熱的?思いやる?凌媛羅に?」
媛羅の言葉を聞き、やはり酒に何か入れられたのではないかと疑う。
あの機嫌の良さはどう見てもおかしい。
婚姻してから、あれほどまでに私に優しく声を掛けてきたことがあっただろうか?
いつも眉間にしわを寄せ、表情も暗く、私の顔色を窺っていた。
言葉を交わそうものなら、二言目には凌雪の名を出し感情的になる。
なのに、あの変貌ぶりはなんだ?
情熱的だろうが、思いやっていただろうが、私も相手が凌雪だと勘違いしたからだ。
おそらく凌媛羅が仕込んだ、媚薬のせいだろう。
でも…それでよかったのかもしれない。
素面のままだったら、私は凌媛羅に、触れる事さえ出来なかったかもしれないのだから。
そう思い、肩で大きなため息を一つつく。
――それから、今度は凌雪の事を考えてみた。
お互い、現実を生きようなどと凌雪は言っていたが、私が彼女を想っているのも現実なのだ。
寧王と婚姻し、今生の別れのように思っていたが、よく考えたら会う事も話すこともできるではないか。茶会や宴、詩会、狩り…
必要であれば、寧王を交えてでも良い気がしてきた。
そう考えてからふと、執務室での毅然とした凌雪を思い出した。
しかし、私が邪な考えを持っていると知れば、凌雪に嫌われてしまうかもしれない。
でも会いたいし触れたいし、一体どうすればよいのだ。
あぁ…。
私はこうして一日中、凌雪の事ばかり考えている。
慕うという事は、こういう事なのか?これは寧王も同じなのだろうか…。
それとも私が、おかしくなったのか?
まるで魂ごと凌雪に奪われてしまったような…そんな感じだ。
来年になれば蕭烈微を娶らされ、そうなれば媛羅所の騒ぎではない。
蕭烈微は、幼き頃から何度か会ったことがあるが、気性が激しく武道にも通じ、まるで野生馬の様な娘だ。何事も思う通りにならねば、すぐに激高する。私の凌雪への気持ちを知れば、凌雪を殺しかねない。
寧王の事もあるし…蕭烈微が不義(不倫)を問い騒ぎ立てようものなら、凌雪も困る。
やはり、私はあの上奏文を押し通すべきだったのだ。
何度も繰り返し直訴し、父帝に認められるまで懇願すべきだったのに…
そう思うと、私にはため息しか出なかった。
――――寧王府書房へ――――
私は次の日の朝、ほとんど眠れず寧王府の書房へ足を運んだ。
寧王は午前中書房に籠り、軍報に目を通しているという。
そこは寧王府の奥にあり、静かな渡り廊下の先にある。
墨の香と竹の筆音が絶えぬ場所で、漆黒の案には軍の報告が幾重にも積まれ、壁には戦略図が掛けられていた。
そばには寧王の侍衛岳珩が控えていて、私に頭を下げる。
「兄上。どうぞお座りになってください」
寧王李璿は、私に気を使いながら、案の前に並べられた黒檀の椅子に座るように促した。
私は、韓昭に外で待っている様に伝え、そこに腰を下ろすと、李璿も岳珩に外で待っている様にと声を掛ける。
向かい合って座った寧王の顔色も肌艶もとてもいい。
寝不足の私と違って溌溂としていた。
「寧王、突然申し訳ない」
「いえ、今日は朝から寧王府におりましたので」
私は、昨日の夜のうちに使者を送り、寧王に文を届けた。
“話がしたいので明日どこにいるのか”と。
「実は…聞いて欲しいことがあるのだ」
私がそう言うと、寧王は姿勢を正し、襟元を整え私の方を真っ直ぐに見た。
「はい。なんでしょうか」
「凌媛羅なのだが…」
「凌媛羅?兄上の側妃の事ですか?」
「一昨日の夜が交宿日だったのだ」
「え?」
そこだけ小声で言うと、寧王が逆に大きな声で聞き返してくる。
「一昨日交宿日だったのだが、倒れたのだ」
「側妃が、ですか!?」
「私が!だ」
「え?それは大丈夫なのですか?お身体は?」
寧王は慌てて立ち上がろうとしたが、私が手でそれを止めた。
「私は…大丈夫だ」
「お疲れが、出たのでしょうか…」
「寧王に聞きたい事があって今日ここへ来たのだが…」
「なんでしょう」
「寧王は…寝ても覚めても、正妃の事ばかり考えているとか…
その…頭がおかしくなったような気がするときはあるか?」
「……」
「あ、答えたくなければ答えなくても良いのだが」
「あ、いえ…」
「寧王は“恋い慕って婚姻した”と言っていたので聞いてみただけだ」
「兄上…それはもしかして凌媛羅の事ですか…?」
「え?あ、いや…あぁ…。そうかもな」
「恋い慕わなくとも、一緒に過ごすうちに思いやりや愛情が芽生える場合もございます。私は昨日の交宿の事は存じ上げなかったので…。兄上もお役目を果たされましたね」
寧王はさわやかに私に微笑みかけているが、私が聞きたいのはそう言う事じゃない。
「いや、寧王は…。どうなのだ。正妃の事を寝ても覚めても…」
「私は、寝ても覚めても正妃の事を考えているという事もありませんが…。凌雪と婚姻して心から良かったと思っています」
「……」
「凌雪はとても優しいし、可愛らしいところが沢山あって…。王府の皆にも好かれているのです。私にも、とても良く尽くしてくれていて…」
「凌雪の事は、もう良い」
「え?」
「それより、寧王は蕭烈微を覚えているか?」
「覚えているか?とは」
「あの気性の荒さをだ」
「あぁ…。覚えています。子供ながらに衝撃でした」
「あの、馬に向かって矢を放っていたことを覚えているか?あと、蒼羽隊に切り付け暴れていたことも」
「…はい」
「お前がもし、蕭烈微を正室に迎えるとしたらどうする」
「私の正室は雪が…」
「例えだ!」
「蕭烈微を正室に…ですか…」
「側室が凌雪だ」
「そんなの、凌雪が蕭烈微に殺されてしまいます」
「やはり、お前もそう思うのだな」
「兄上は、側妃をご心配なのですね」
「・・あ・・ぁ」
「蕭烈微は、私が知っている限りでは、凌雪の様な性分が好きではありません。あの罰をよく与えていた侍女が、どちらかというと凌雪に似たる類の者でした。恐らく側妃は全て自分が選んで据えるでしょう。凌雪はすぐ殺されてしまうのではないかと…」
「……」
「ただ、兄上には申し上げにくいのですが」
「なんだ」
「兄上の側妃は、どちらかというと蕭烈微とはうまくやるのでは」
「なぜだ?」
「側妃は賢く、頭も切れます。どちらかというと蕭烈微に似たところもある」
「……」
「凌雪が、蕭烈微とかかわらなくて本当に良かった。一度嫌われたら、最後まで殺ると思います…。そのような記憶しか私にはありません…」
「……」
やはり…寧王でさえ、そう思うのだな。
凌雪は蕭烈微が一番嫌う類の人間だと、この時の私はそれを懸念していた。
まさか蕭烈微にあんな秘密があり、この天黎がそれに巻き込まれ、凌雪が…私が…寧王が…、あのように振り回されることになろうとは…
この時の私は想像すらしていなかったからだ。
「雪は…」
「凌雪の事ばかり、うるさいぞ」
「……」
幸せそうな顔をした寧王に、腹が立つ。
今日寧王府に到着し、この書房に来るまでにもしや凌雪に会えるかもと期待していたのに。この肌艶の良い寧王の顔しか見られぬとは。
「もう帰る」
「あ、兄上、よろしければお茶でも」
そう言えば、茶も出てなかった。
「いらぬ。昨日は公務を休んだので、今日は忙しいのだ」
「凌雪が茶を用意しておりましたのに…」
「飲んでいく」
「え?」
「茶くらい、早く出すのだ」
「あ、すみません。ではこちらへどうぞ」
私は、言われるがまま寧王の後をついて行った。
私達の後ろを、韓昭と岳珩がついてくる。
それから、寧王府の品茶堂へ通されると、そこの円卓に美しい茶器と菓子が並べられ、私達はそこにそれぞれ座った。
入り口には韓昭と岳珩が二人並んで立ち、奥から侍女が茶を持って入って来た。
それを卓の上に置くとそそくさと出ていき、今度はそれで寧王が丁寧にお茶を淹れ始める。
目の前に置かれた茶器に、ゆっくりと湯気を立てながら注がれる、果実の様な甘い香りに、思わず心が安らいだ。
「これは、鳳梨薫華という茶で、鳳凰のように気高く、香り漂う華の茶だと。昨日の夜、兄上の為に凌雪が選んでおりました」
それを聞いて、思わず辺りを見渡す。
凌雪が私の為に…。
「凌雪は、今どこにいるのだ」
「あ…今朝は少し体調が悪く寝込んでおります…」
「それは…大事ないのか?」
「今朝早く神医が来られました。少し休めばよくなると」
「そうか…」
昨日は私の具合が悪く、今日は凌雪か…神医も大変だな…。
そう言えば、この間執務室で会った時、凌雪は顔色も悪く、少し痩せていたような気がする。
そんな事を考えながら、私は凌雪が私の為に選んでくれたお茶に、ゆっくりと口をつけた。
甘い花の香りが品よく口内に広がり、穏やかな時間を感じる。
昨日あまり寝ていないせいもあり、少しだけ頭がぼんやりとした。
この時、李璿の口から出て来る凌雪の話は、私にとっては面白くないものばかりで、やはり凌雪は寧王の愛妃なのだなと思い知らされる。
それから私は、凌雪に会えないまま寧王府を後にした。
それでもなぜか、あの交宿の日以来凌雪への気持ちは増すばかりで、取り繕っていても、媛羅との溝は徐々に深まっていくのだった。




