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第四十九話 魔と交わる日

どういう風の吹き回しなのか、急に皇太子殿下が私との交宿を決められ、皇后陛下から知らせが届く。


宮中は騒ぎになり、すぐに良き日を知らせる司暦司(しれきし)から知らせが届き、いよいよ、その日を迎えた。


二日前には父が神医を寄こしてくれて、“子が授かりやすいように”と鍼を打ってくれる。


その日は朝から湯あみをして、宮女の皆に手入れを施され、私は東宮の恩房(おんぼう)と呼ばれる場所へ案内された。

練香がほのかに香り、几帳の奥には皇太子殿下を迎える為丁寧にしつらえた寝台が置かれている。

柔らかな絹の几帳が揺れ、あとは殿下を待つばかりだ。


――あれは太子府で、酔っていた私を怒鳴りつけ踵を返した日から、10日ほどした日の事だった。


執務室から戻ってこられた殿下は、しばらく部屋に籠られ、またいつもの事かと蘇嬢(そじょう)が足湯を部屋に運ぶ。


それから蘇嬢が私の所に来て、“殿下が呼んでいる”と声を掛けた。


また何を言われるのだろうかと渋々部屋へ行くと、殿下は部屋に入ってすぐの場所にある、八仙卓に座っていて、私に目の前に座るように促した。


「お戻りになられたのですね。御用は何でしょうか」


尋ねたら、彼は思いもよらぬことを口にする。


「司暦司に、交宿の日取りを決めてもらおうかと思う。宿合もまだゆえ…」


「え?」


「天子として役目を果たさねばならぬ。明日母后には私から話す。もし意義があれば申せ」


一体どういう心境の変化なのだろうか。

あれほど私を拒み、夏の間は二か月も辺境へ逃げるほど嫌がっていたのに…


「いえ、承知しました。よろしくお願いいたします」


私は、表情を変えないまま、殿下の部屋を後にした。


自分の部屋に戻ると、春桃(しゅんとう)が寝支度をしてくれている。

思わず後ろから抱き着いて、春桃にその事を伝えた。

まるで夢を見ているようだ。

あまりにもうれしくて嘘のようではないかと、頬をつねってもらう。


「痛いっ」


「夢ではありませんね、お嬢様!」


春桃は涙を流して喜んでくれて、私もその日は夢見心地で床に就いた。


それから今日までの日々は、浮かれていてあまり覚えていない。

途中茶会で(せつ)に一度会ったが、その事を話せば“良かったですね”と、素直に喜んでくれた。


―――そしてこの日。今部屋は灯が、柔らかく揺れている。

まるで心臓が飛び出してしまいそうなほど高鳴っていた。

私が緊張しながら殿下を待っていると、部屋の外から侍従の声がする。


「お支度が整いました。殿下…」


その声と同時に、扉が開き殿下が部屋に足を一歩踏み入れた。


――皇太子煊王李煌(けんおうりこう)殿下は、身に白絹の夜衣を纏っている。


淡く光を受け、透けるような白布は、潔白と儀式の重みを象徴しているかのようで、殿下のその身は、一滴の乱れも許さぬ整えられたお姿だった。


髪は、緩く翡翠(ひすい)(かんざし)で留められ、後ろ髪は艶やかに流れていた。

長い睫毛の奥に宿る瞳は、静かに伏せられたままこちらにゆっくりと進んでくる…


天黎(てんれい)の娘ならば、誰もが憧れる皇太子殿下煊王李煌。

この国の世継ぎであり、眉目秀麗にして、品位と威を纏った天黎一のそのお姿に、思わず見とれてしまう。


私は今日、ついに皇太子殿下と結ばれるのだ。


彼は、白衣の裾で静かに畳をかすめ、私の方へと一歩ずつ近づいて来た。


「殿下…」


そうお声を掛けると、皇太子殿下は寝台の横にある、卓の上に置かれたふたつの朱塗りの盃を静かに手に取り、寝台にいる私の隣にそっと腰を下ろした。


その手の盃の中には、淡く澄んだ琥珀(こはく)色の酒が注がれている。

香り高く、喉を通ると体を温めると言われる上等なものだ。


そっと手渡されたそれを手に取ると、口をつけずにじっと殿下の横顔を思わず見つめる。

彼は静かに酒をあおったが、その眼差しにはどこか遠くを見るような、憂いがあった。


「媛羅…」


「はい」


女子(おなご)が殿方に身を任せる時は、一体どのような気持ちでいるのだ」


皇太子殿下は、こちらを見ないまま私に尋ねて来る。


「私は、殿下を心からお慕いしているので、喜びしかありません」


「……」


「このような日が、無事迎えられることに※心花怒放(しんかどほう)でございます」


※喜びや興奮で心が花が咲き乱れるように、非常に明るく、楽しい気持ちになること。 心が大きく開いて、感情が溢れ出る様子。


「では、慕っていない者とならば?」


「それは…おそらく苦痛でしかないでしょう」


「苦痛?」


「今の世は、想い人と添い遂げられるなど多くありません。

私の様な身分の者は政治の駒になる場合も多く、親に言われるがまま嫁がねばならない事も多々あるのです」


「……」


「もしそのような事になっていれば、私の人生は何なのだろうかと後悔しているところでした。ですからそれは、苦痛でしかありません。地獄の様です」


「……」


「殿下に娶られて、私は天黎一の幸せ者でございます」





―――――そう、凌媛羅は言った。―――――




司暦司が交宿日を決めたその日。

それは東宮の恩房で行われる事になる。

日が決まれば後は、それを全て周りがお膳立てしてくれた。


私はただ夜衣に着替え、凌媛羅が待つ場所に向かうだけだった。


凌雪、お前はどのような気持ちで李璿(りせん)に身を任せたのだ。

胸に忍ばせた、凌雪の香袋を上からそっと掌で抑える。


―――中には、凌雪から受け取った彼女の髪が入っていた。


この香袋は、先日執務室に来た時に、凌雪が私にくれたものだ。

凌雪の母親が、彼女の為だけに作ったこの香りには、私が絶対に忘れたくない記憶が込められている。


その中には、彼女から受け取った髪が雲箋(うんせん)で丁寧に包んであり、私は肌身離さず胸に忍ばせ、ずっと持っていた。


部屋に一歩入ると、媛羅は寝台に座り緊張した面持ちで待っていた。


私はその隣に腰を下ろすと、側に置かれた卓の上の二つの盃に手を伸ばし、一つを媛羅に手渡す。


そして自分の盃は、この時一気に飲み干した。

これから起こることに対する、決意の様なものだ。


すると横から媛羅が、私に二杯目の酒を注いだ。

しかし隣の凌媛羅の顔が、まだ正面から見る事ができない。


その時盃の中の琥珀色の液体は、まるで私の心を表すかのように揺らめいていた。


「媛羅…」


「はい」


「女子が殿方に身を任せる時は、一体どのような気持ちでいるのだ」


私は、媛羅の方を見ないまま尋ねてみる。少しでも凌雪の気持ちが知りたかったからだ。――このような時、彼女がどんな思いでいたのか…と。


「私は、殿下を心からお慕いしているので、喜びしかありません」


「……」


「このような日が、無事迎えられることに心花怒放でございます」


「では、慕っていないものとならば?」


「それは…おそらく苦痛でしかないでしょう」


「苦痛?」


私は、恐ろしい言葉を凌媛羅から聞かされる…


「今の世は、想い人と添い遂げられるなど多くありません。

私の様な身分の者は政治の駒になる場合も多く、親に言われるがまま嫁がねばならない事も多々あるのです」


「……」


「もしそのような事になっていれば、私の人生は何なのだろうかと後悔しているところでした。ですからそれは、苦痛でしかありません。地獄の様です」


「……」


「殿下に娶られて、私は天黎一の幸せ者でございます」


凌雪は…

そのような思いをしてまで、私の為に…


寧王に嫁ぐのは、私を守るためだとそう言った凌雪(りょうせつ)

凌孟昊(りょうもうこう)にぶたれ、私の事が諦めきれず苦しかったと…。

涙が枯れるほど苦しみ、簡単ではなかったと。覚悟だったと怒っていた…。


瞼を閉じれば、あの二人だけの婚儀の日が、昨日の事のように浮かぶ。


「殿下?」


凌媛羅に、再度名を呼ばれ、私は盃をそばの卓に置くと、腹で覚悟を決めて媛羅を抱き寄せた。

香炉から立ち上る香りが、緊張を和らげるところか、むしろこの胸に鈍く重くのしかかる。媛羅を抱き寄せたものの、しばし動けなくなった。


その時、私の胸の中の凌雪の香袋が温かくなり、この胸元から彼女の香りが漂い始める。

そしてふと、媛羅の手首にはめられた紫魂石(しこんせき)とか言う石の腕輪が目に入り、神医の話を思い出した。


なんだか頭がくらくらする。

二口しか飲んでいないのに、酒が回ったのか?

―――そんなはずはない。


もしかして媛羅の気のせいだろうか。

私は小さく首を振り、気を立て直した。


徐々に首のあたりから顔にかけて熱くなってきて、目が回って瞼が開けられない。


一体何なのだ。ずっと体調は悪くなかった。

やはりこれは酒のせいか?


置いてあった琥珀色の酒は一体なんの酒だ。

別に変った味もしなかったが…


「皇太子殿下?大丈夫ですか?」


媛羅を抱き寄せたまま、その肩にじっと頭を預けていると、心配した彼女が、ふと前から私の顔を覗き込む。


深呼吸を一つして、目を開けるとそこには凌雪がいるように見えた。


「私は…なぜ…」

凌雪が見えるのか…。頭がおかしくなったのだろうか。

でもこれは確かに凌雪の香りで、目の前にいるのは媛羅ではなく凌雪で…


もう一度頭を軽く振り、しっかりしろと気を奮い立たせる。


私は両手で彼女の頬を挟むと、その顔を思わず確かめた。

あの香袋の香りに包まれて、どう見ても目の前にいるのは凌雪だ。


「どうして…お前がここに…」


「殿下、お気持ちが変わられたのですか?」


そう尋ねて来る凌雪に、頭が混乱する。


「いや…。気持ちは変わらぬ…。何も変わっていないのだ…」


私の想いは、例え媛羅と交宿を迎えようと変わることはなく…ずっと凌雪ただ一人。


けれど今、凌雪に話しているのか、媛羅に話しているのかもはや良くわからなくなってきた。


私の胸の香袋がどんどん熱を帯び始め、首筋から一筋の汗が流れ落ちる。


身体が熱い…。

―――その時だった。

目の前にいる凌雪だか、凌媛羅だか…

私の目に映るのは、滲んだり揺れたりしているが確かに凌雪で…


その彼女がそっと、私に唇を重ねてきた。


「凌雪…」


思わず名を口にしてしまうが、彼女は何も答えない。

じっとこちらを見つめていたかと思うと、優しく微笑みかけてくる。


「私はそれでも、良いのです。殿下の御側(おそば)に居られさえすれば…」


そう言った声が、凌雪ととてもよく似ていた。


息が苦しくなってきて感情が高ぶり、この香りと先ほどの口づけで、目の前にいるのがもう凌雪だとしか思えなくなってくる。


――まさかこれが、神医が飲ませた丹薬のせいだとも疑わず…


酒のせいなのか、媛羅の気のせいなのかと何度も頭の中で張り巡らせた。


「殿下…。お慕いしております。心の底から…。皇太子殿下だけを…」


そう凌雪の声で耳元に囁かれ、私の枷が一気に外れる。


堪えきれない想いが溢れ、抱き寄せた彼女をそのまま寝台に深く沈める。勢いよく、というよりは、もはや抑えきれない衝動のままにその腰帯を解き、焦がれるように自分の唇を重ねた。


今目の前にいるのは、凌雪だ。

私が愛してやまない、この世で一番大切な凌雪だ。


胸元から湧き上がってくるような身体の熱さに、思わず着衣の首元を左手で緩めた。

すると、あの愛しき香りが私たちの周りに一気に立ち込めて来て、おかしなことに理性が徐々に吹き飛んでいく。


もう目の前にいるのは凌雪だと信じて疑わなくなってきていた…

この唇に感じる彼女の首元の熱が、私の鼓動を更に高ぶらせる。


凌雪…

私は寧王とのことなど、全部消してしまいたいのだ。

その小さな掌も、その唇も、柔らかな白い肌も全て、私だけのもののはずだったのに……


私達はなぜ、こんな事になってしまったのか。


今日だけでもいい。私だけの凌雪でいてほしい…。

そう思えば思うほどに、湧き上がる情動を抑える事が出来ない。


「殿下…」


その声に誘われるようにして、その中に深く腰を沈めこの感情の高ぶりと共にその胸に果てる。

そして私は…



――――凌雪との夢の中で意識を失ってしまった…


目を覚ますと、側に心配そうな薬念神医がいて、私の“意識が戻った”と外の侍従にすぐに報告に行く。


「神医…。どうしてここに…」


「殿下は、意識を失われたのです」


「凌雪は?」


私は慌てて身を起こし、薬念神医に凌雪の事を尋ねた。

あの目の前にいたのは確かに凌雪で、私は…

その時、少しめまいがして頭がふらふらとする。


それから胸元が開いた夜衣に気づき、慌てて香袋を探した。

そんな私を見た神医が、枕元に置いてあるそれをそっと手渡してくる。


「殿下…これは…」


「なんでもない。神医はなぜここに?御医は?」


そう答えて、大事に胸の中にしまう。


「ここ数日のうちに、殿下が何か変わったものを口にされなかったかと、私にも知らせが。二日前に飲んでいただいた丹薬の事を話したら、お側について様子を見るようにと陛下に言われたのです」


「私はどれくらい意識が無かったのだ」


「昨晩意識を失われたので、一晩ほどです」


神医はとても落ち着いた口調で話を続けた。


「殿下…。お伺いしてもよろしいでしょうか」


「なんだ」


「その香袋は、凌雪のものですか」


「……」


「決して誰にも話はしません。なので、答えていただきたいのです」


「神医…」


「凌雪の香りは唯一無二。香り分けをされたのですか」


「…そうだ」


「中に入っているのは、もしかして凌雪の髪の毛ですか」


「……」


「殿下!」


珍しく感情を高ぶらせた神医に驚き、私は思わず答えてしまう。


「そうだ。凌雪の髪だ…」


そう答えたら、神医は言葉を失った。

誰もが同じ反応をしただろう。


でも、神医は予想していなかった事を口にした。


「…本当に…良かった…」


「え?」


「殿下…」


そう言って、私の手を掴むと神医はぽろぽろと泣き始める。

初めて見るその姿に、私は少し動揺した。


「神医…大丈夫か…。一体どうしたのだ…」


「殿下が御無事でうれしかったのです」


「……」

なぜそう言ったのか、その理由を私が知るのはずっとずっと後になるのだが、私はこの時の薬念神医の涙を、一生忘れなかった。



その涙はただ安堵からくるものとは違う、もっと深く、重い感情が込められているように感じられる。


その日以来、薬念神医を見るたびに、この時の涙と、その言葉が私の胸の奥で何度もこだました。

彼の心の奥底にある感情を探る術を持たず、ただその深い眼差しの意味を理解できないまま時間だけが過ぎたが、この涙の真実が明らかになるまで、私が費やした時間はさほど長くはなかった。










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