第四十八話 禁忌の丹薬
――――東宮・太子府―――――
凛宸(皇太子)は、瑤心(凌雪)との約束通りに、凌媛羅を受け入れる決意を固めた。その旨を皇后に伝えると、すぐに司暦司から交宿日が届けられ、宮中はざわめきに包まれる。
御医は三日前から、毎日体調管理の為に皇太子殿下の元を訪ねた。
二日前には恵仁堂で、私が凛宸を自分の診療部屋に呼ぶ。
凛宸は穏やかな笑みを浮かべていたが、交宿の事を心配している様に見えた。
脈を測りながら、静かな声で話しかけてみる。
「皇太子殿下、御薬房議(宮中医師たちの会議)で、御医から交宿日が決まったと聞きました」
「これも、天子の役目なので仕方がないな」
そう言って苦笑いする凛宸に、私は小さなため息を一つついた。
脈に触れていると、その心が手に取るようにわかる。
凛宸は、瑤心への想いだけでなく、神の本能が魔の凌媛羅を受け入れないのだ。
「そのお心を守りましょう」
「心を守る?」
「私が見たところ、気が進まぬようですね」
今まで自分の胸の内を私には話したことはないが、脈に触れていると、心が乱れているのがわかる。
「神医。誰にも話したことはなかったのだが…私の心がどうしても、側妃を受け入れがたかったのだ。今までずっと拒絶していた」
「そうだったのですね…」
私には、それが痛いほどわかる。凛宸…
天界人と、魔は相反する存在だ。だからそれは、当然の反応で凛宸はおかしくない。
「しかし、この天黎を守ると決めたのだ。大事な人とそう約束をしたから」
少し目を潤ませた凛宸は、そう言うと胸で大きな息を一つした。
歴業が終わり、天界に戻れば記憶が無くなるとは言え、それを見ている私も辛い。その気持ちが手に取るようにわかるのに、何をしてやる事もできないのだから…。
「殿下…この薬を一つ、お飲みになってください。心を落ち着かせ、呼吸を整えます。そして不安から解放されるでしょう。きっとお役に立つと思います。私が雲淵という師匠から、受け継いだ秘薬なのですが…」
「わかった。神医の事は誰よりも信頼しているから」
「それから、お首元のあたりに少し鍼を打たせてください」
「鍼を?」
「此度は、お気持ちに逆らう事で、大きな心労がかかります。それが心の臓へ影響するのを防ぐのですよ」
「そこまでの心労ではないが」
そう言って凛宸は笑ったが、何とか首元へ、魔が影響を及ぼさぬよう身体に結界を張る。
二日後、凛宸は魔と交わる。
そして凌媛羅のつけている紫魂石を、絶対に外させてはならない。
「殿下」
鍼を施した後ゆっくりと寝台から身を起こし、開けた肩の袍を羽織りながら、凛宸はこちらへ振り向いた。
「側妃なのですが」
「側妃?媛羅の事か?」
「はい。彼女は今、腕に紫色の石の腕輪をしています。
おかしなことを言うと、お思いでしょうが、もし彼女がそれをしていなければ、その日、側妃に触れるのをおやめください」
「それは一体、どういうことなのだ」
首を傾げ、怪訝な顔つきの凛宸になんて説明しよう。
でもあれを凌媛羅がはめずに、凛宸に触れれば、彼の原神が穢れてしまう。
「実は、その腕輪は私がつけました」
「神医が?」
「側妃には、心の安定を施す“まじない的なもの”だと言って渡してありますが、実は凌媛羅の家系は、気が強すぎる体質なのです。
男は、戦いにも向き活力あふれ良いのですが、女は体調に影響が出やすく…」
「凌雪は大丈夫なのか」
凛宸は、それを聞いてすぐに彼女の事を心配する。
「幸い凌雪は、生まれつき気が安定しているようで問題ないのですが、お祖母様などはそのせいで頭痛がすると」
「だから、神医がいつも鍼を打ちに通っているのだな…」
私は凛宸に頷くと、話を続けた。
「実は、側妃の気は生まれつき強すぎて、気が乱れた時、周囲の人に頭痛や息苦しさを与えてしまう事があるのです…。
その石は、それを鎮める作用がある“紫魂石”という物で、それがないと殿下のように気が清い方ほど危ういかと…。
何の薬を煎じても治らぬ者に、私の師匠がその“気”に気付き施した治療法なのですが、かなりの効果があるのです」
本当は、きっと凛宸の原神が、魔の妖気を感じ取って頭痛や息苦しさを感じているし、毛嫌いしているのだろうけれど…その状況を利用するしかない。
そうすれば、紫魂石を信用してくれるだろう。
「そう言えば、媛羅の傍に行くとなぜだか感情が苛立つのだ。息苦しさや、頭痛はそのせいなのだろうか?」
「きっとそうです。なので、必ず側妃が紫魂石をはめているか確認してくださいね」
「わかった…」
これでもし、凌媛羅が紫魂石をはめていなければ、凛宸は日を自ら改める。
後は、凛宸の無事を祈るばかりだ。
もし媛羅の妖気に当たれば、きっと凛宸はその日から体調を崩す。
――よく観ておかねば。
一時は玉狐神君のせいで、どうなる事かと思っていたが、やっと司命簿葉の通りに事が進み始めた気がする。
宮中の御薬房議に出た際、御医がやっと皇太子の交宿日が決まったと言っていた。
だからこうして私は、恵仁堂に皇太子として来た凛宸に、ある丹薬も飲ませた。
魔の気を和らげる神気の帯びた薬を、天界から持って来たのだ。
その薬は、穢れから守り原神を強化するはず。
凛宸は今人だが、神の原神を持っている。
それが魔と交われば、その原神が穢れ、凛宸は旋律神になれなくなる。
旋律神――それは、凛宸が天界に帰還後、昇華されるはずの神位だ。
なので、媛羅に魔を封じる紫魂石をはめた。
それだけでは不安だったので、司命老師と相談し、凛宸の首元に結界の鍼を、媛羅の首元には魔の気を消す鍼をそれぞれ施した。
その日の明け方媛羅の様子を見に行ってみたが、腕に紫魂石は確かにはめられていた。
消えぬ不安は残るが、凛宸の無事をただただ祈るしかない。
まさかこの時、凛宸が瑤心の髪の毛を持っていたとは夢にも思わず、私は天界に戻りありのままを老師に報告した。
行ったり来たりの生活も、もうこれ以上はできないだろう…
神が地上に行くのにも、限界があった。
遊歴と言って、神力も使わず少しばかり人間界で過ごすことはできるが、天界と人間界では気が違うので、あまりにも長引けば神気に影響する。
「後は凛宸の無事を祈るだけだな。燁煊、ご苦労だった」
司命老師は司命簿樹の傍に設えた卓袱台で、ゆっくりとお茶をすすった。
「なんだか、うまく行きすぎて不安が残ります」
「凛宸も瑤心の説得で改心したし、皇太子としての人生を全うするだろう。
そうなれば、あとは司命簿葉の通りに人生を送って、無事天界に戻ってくるに違いない」
「司命老師、あの丹薬は人間に使った前例はあるのですよね」
「……」
「老師?」
「ない」
「え?」
「まあ、大丈夫だろう」
「そんな…何かあったらどうするのですか!」
「大体、神の薬は人間に使うと、その効き目が10倍から100倍になるのだ。お前も死んだ子供を生き返らせただろう!」
「……」
「天界で、原神を守る薬効があるなら、人間界でなら10倍から100倍だ。だから安心、安心」
その時仙薬司の緲光仙母が別の煎じ薬を、老師に届けにやって来た。
仙薬司は天界の薬や治療に特化した役所で、緲光仙母は神聖な薬を司る女神だ。
絹の様な柔らかい翡翠色の衣をまとい、その袖には草花や霊薬の刺繍が細やかに施されている。
歩むたびに裾がふわりと揺れ、薬草の香りがほんのりと漂った。
長く揺れる黒髪は美しく、頭上には五薬石で飾られた小ぶりな冠が載せられている。
彼女は、薬草の声を聴くことができ、長寿・治癒の薬を管理する凌霽真人の娘でもあった。
「老師、残りの薬を持ってきたわよ。腰痛とひざ痛の薬がまだだったわ。はい、これ父から」
そう言って緲光仙母は、笑顔で老師に二つの包み紙を渡す。
「緲光仙母。ご無沙汰しております」
「あら?今日は燁煊もいたのね。相変わらず美男子ねぇ。美肌の煎じ薬も、あなたには必要ないわね」
そう言って愛想よく笑う彼女に、私は凛宸に渡した丹薬の事を聞いてみた。
「玉焔露?あの、老師が仙薬司から持って行った、原神を守る丹薬のこと?」
「そうです。あれを人間に使うとどうなりますか?」
「人間に??どうしてその様な事を聞くの…」
「凛宸が、今歴業で人間界にいるのです。魔とかかわるので原神を守ろうかと」
「魔とかかわる??凛宸はあっちでも戦っているのかしら?」
緲光仙母が、首を傾げていたら老師が口を挟んでくる。
「凛宸は、人間界で魔が転生した女を娶ったのだ」
「えっ??娶った??」
「なので、私が受け取ったあの玉焔露を、人間の凛宸に飲ませた。原神を、魔から守るためにな」
「嘘でしょ!!なんてことを!!」
老師の言葉に緲光仙母は、驚きを隠せない。
目を丸くし、大声で騒ぎ立てはじめる。
「落ち着いてください、緲光仙母。一体どうしたのですか」
「天界の薬は、人間には危ないわ!効き目が何倍にもなるのだから。死者も蘇るほどよ!!」
それを聞いた老師が、私に目配せをした。
「だから、原神を守る力も10倍…」
「老師!!あれを人間に使うのは駄目よ!!
玉焔露は神が使うと原神を活性化させ神力、心身共に整えられるだけだけれど、人間に使うと大変な事になるの!!
今人の凛宸に使うと、理性を揺らがせ、身体の火が湧きあがり、情熱が爆発するわ。媚薬効果もあって、愛を偽らせる禁薬なのに!相手は魔なのでしょ!!」
「それなら凛宸は…一体どうなるのだ?」
「魔を相手に心身の結びつきを強め、相手の欲の気を呼び起こすの。
凛宸も魔を欲し、魔も凛宸に執着して離れなくなるわよぉ!!人間界での使用は禁止されているのに~!」
「そんな事になったら…凛宸の原神は…。どうすればよいのですか」
「解毒剤はないのか!緲光仙母」
「すぐにあるわけないでしょう!!老師も人間に使うなら早く言ってよ!てっきり自分が原神の強化に使うのだとおもっていたわぁ!」
「どうすればいいのだ。どうすれば…」
「仕方がないわね!私が大急ぎで“鎮情露”を作ってくるわ。媚薬の作用を無効化するの。すぐに飲ませてきて!まったくもう~~~!!」
こうして緲光仙母が作った鎮情露を、私は凛宸に飲ませる為、またすぐに人間界に戻ることに決めて出来上がるのを待っていた。
このままでは、凛宸に何が起こるか分からない。自分の無力さに、胸が締め付けられる思いだった。老師も苛立ちに任せて軽く床を踏み鳴らす。
老師とは言葉を交わすことはなくとも、凛宸への深い思いと、どうすることもできない現状への焦りが、この時私たち二人を支配していた。緲光仙母が戻ってくるまで、ただ待つことしかできないこの時間が、永遠にも感じられとても苦しい。
「二人ともできたわよぉ~!!」
その緲光仙母の声に、老師と二人で振り向いた時だ…。




