第四十六話 側妃の憂鬱
凌雪との婚儀から一か月が経ったある日、皇太子煊王が我が軍営に視察に来る事になった。
このような事は今までも何度もあったが、お互い婚姻後は初めての事だ。
私は、軍幕で煊王を迎えに出ると軽く一礼する。
「兄上、ようこそわが軍へ」
「あぁ寧王、今日はよろしく頼む」
そう言って鋭い眼光で軍営全体を見渡した兄は、兵の鍛錬状況、軍備の配置、全体の規律などをしっかりと確認してゆく。
まるで、視察という名目の元、我が軍を試しているかのようだ。
「今、寧王の軍は五万だったな。南は?」
「はい。南の凰影門が現在二万です。今は叔父上が統括しているかと。夏に行かれた辺境はどのような様子でしたか?」
「あそこは、蒋玄庭が今かなり力を入れていた。しかし隣国が責めてきた場合、このままでは国境の守りが数で敵わぬ。早く景国と手を組まねば」
この時、ふと兄上の口から景国の名前が出て、私は兄上の側妃・凌媛羅の事を思い出す。
凌媛羅は、先週婚姻後の凌雪に会う為、寧王府を尋ねて来た。
―――あれは凌雪が凌媛羅に渡したいものがあると、半時ほど席を立った時だ。
陛下の元へ凌雪と婚儀の挨拶に出向いた際、兄上と凌媛羅の様子が気になっていたので、思わず凌媛羅に尋ねてしまった。
「あの夢錦樓での約束通り、お前に協力もしている。しかし兄上とは険悪になる一方ではないか?一体何をしているのだ」
「寧王殿下は、ご希望通り雪を娶れたのですから、もう良いではないですか」
「いや、今日も兄上には“来られない”と拒否されたではないか。
このままでは私も気まずいばかりだ。兄上が蕭烈微を娶る前に、なんとかならぬのか」
「何とかなるのなら、とっくに何とかしています!」
凌媛羅は感情的になって、声を荒げた。
「凌媛羅…」
「私だって、努力しているのです。でも、煊王殿下の御心には…」
そう言いかけて、彼女ははっとする。
「兄上の御心?」
私がそう聞き返したとき、ちょうどそこに凌雪が戻って来て、話がそのままになったのだが…。
まさか兄上は、正室さえ娶れば側妃はどうでも良いとのお考えか?
されど、それではあまりにも凌媛羅が不憫でならない。
彼女は、私に何度も“兄上を心から慕っている”と、そう言っていたのに…
――――少し兄上に話してみようか…。
軍営の私の幕内には地図を広げる長卓と、金具をあしらった黒檀の椅子。
煊王はそこに腰を下ろし、皇宮から軍営それぞれの位置を確認しながら、新しい軍備の配置を熱心に確かめている。
「兄上」
私が声を掛けると、彼はその声にふと顔を上げた。
「なんだ?」
「先ほど景国のお話がでましたが、蕭烈微を娶られる話は進んでおられるのですか」
そう尋ねたら、表情も変えず淡々と答える。
まるで人形の様な、心の無い目だ。
「年内には、蕭烈微が遊学から戻ると知らせが来た。戻り次第婚儀を行うそうだ」
「では、側妃はどうなるのですか」
「どうなるとは?」
「私の目から見ても、凌媛羅は不憫に映ります。少しは優しくしてやっても…」
「私にとって婚姻は、政治の手段でしかない。凌媛羅も蕭烈微もそれを承知のはず」
「それでも、兄上の妃になるのですよ」
「私にとって、妃は政治の駒でしかない」
「それではあまりにも、凌媛羅が…」
「愛する者を娶った寧王には、一生わからぬ。だから放っておいてくれ!」
「少なくとも側妃は、兄上を心からお慕いしているのですよ」
「私は別に慕ってほしいと頼んでおらぬ。娶っただけでも良いであろう!これ以上私に、どうしろと言うのだ!」
兄上は感情的になり、卓の上にある地図を勢いよく払いのけた。
「兄上…」
「では、お前は相手が凌雪ではなく、凌媛羅でも受け入れられたのか!
ならお前が凌媛羅を娶ればよかったではないか!凌雪ではなく!」
「それは…」
兄上は私の返事を待たずに、勢いよく袍服の袖を翻し、幕内を出て行った。
入り口に待機していた韓昭が、慌てて兄上を追いかけていく。
玄風の嘶きが聞こえ、蹄の音が駆け足で遠くなっていった。
急な皇太子殿下の退帰に、少しだけ幕外が騒々しくなる。
――兄上があのように感情的になるのを始めて見た。
私たちは決して仲の良い兄弟ではなかったが、兄上があのように私に声を荒げた事など今までなかった。
むしろ最近では話すことも増え、大人になれば分かり合えるものだと、そう思っていたのに…
でも、あれから兄上に無下にされ、苦しんでいる凌媛羅を見ると本当に不憫だ。
いつも顔色も悪く、兄上の後ろを隠れるようにして歩いている。
宮中でも太子府でも噂になり、このままでは皇孫ができず廃妃にもなりかねない。
夢錦樓でのことを思いだせば、自分だけが幸せになり、凌媛羅に申し訳ない気持ちもあった。
私はその日の夜、府に戻ると凌雪に兄上と媛羅の事を思わず話してしまう。
―――何か良い策はないかと…。
着替えを手伝いながら話を聞いていた凌雪は、軍営での話に驚きが隠せない様子だった。
「皇太子殿下が?」
「あまりにも感情的になられて驚いた。凌媛羅をまるで目の敵にしているようだった」
「……」
凌雪の目には憂いが、みるみるの間に滲んでいく。
「あのままでは子もなせず、側妃は廃妃になるのではないか」
「廃妃になると…一体姉上はどうなるのですか」
「冷宮に送られて、死ぬまでそこに幽閉される」
「冷宮?」
「宮中の奥にある、廃れた離れの様な場所だ。そこに地位も剥奪され、一生閉じ込められるのだ」
「そんな…」
「皇太子の側妃など、代わりはいくらでもいるからな」
「……」
「兄上もどうしたものか…」
「殿下は、なぜ姉上を目の敵にするのです…」
「それは私にもわからぬ。毛嫌いしているのか、それとも…」
側で私を見つめる凌雪の目を見ていると、その時ふと、叔父上や凌媛羅の言葉を思い出した。
そう言えば、兄上が凌雪を慕っていると皆口を揃えて言う。
しかし、例えそうだとしても兄上は皇太子であることを選んでいるではないか。
――今日は蕭烈微を娶ることも淡々と話していた。
それに何よりも、今まで私の前で、兄上がそのようなそぶりを見せたことは一度もない。
「殿下」
「ん?」
「私が、皇太子殿下に話してみてもいいですか」
「凌雪が?」
「姉上は私の大事な姉上でもあります。このまま放っておくことはできません。
実は、この前皇太子殿下には、父もお話をしたそうなのです」
「義父上が?」
「この間、里帰りさせていただいた時に父から聞きました。でも皇太子殿下は、全く聞く耳を持たれなかったと」
「凌孟昊も、娘の事を悩んでいるのだな…」
「姉が廃妃になるなど、黙って見ていられません。これは凌家の問題です」
「しかし、義父上が話しても駄目だったのであれば、お前の話など聞くだろうか…」
「わかりません…。でも姉上が廃妃になると聞かされて、何もせずにはいられないのです」
「そうだな…その気持ちはわからないでもないが…」
「……」
「では、兄上の執務室に行くが良い。あの場所でなら、例え兄上に会いに行っても、咎められはせぬ。私が兄上には文を書いておいてやろう」
そのあまりにも切実な凌雪の目に、この時の私は兄上にはなんの疑いも持たず“凌雪が訪ねていくので話を聞いてやってほしい”と文を書いた。
「凌雪、私は正妃がお前で良かった…。今日兄上に言われたのだ。凌雪ではなく、凌媛羅でも婚姻を受け入れられたのかと」
「……」
「私には無理だ。凌媛羅は娶れそうにない…」
「え?」
私はそばに居た凌雪を、咄嗟に抱きしめてしまう。
思わず口をついて出た本音。
凌媛羅は美しい娘だが、私には、何を考えているのかわからない所も多い。
容姿端麗だが、そばに居ると気も使う。
それに、いくら兄上を慕っているとはいえ、凌雪を陥れようとした事は私も忘れてはいない。
凌雪は実の妹なのに…
「媛羅が側妃だなど…兄上も不憫だな…。 」
「その言い方は、殿下も酷いです。私の姉上なのですから」
そんな私を見て、凌雪は呆れて眉を顰める。
「私は、正妃が凌雪で良かった。そう思っただけなのだ…」
私は彼女をこの腕に抱きしめながら、そっと唇を重ねた。
自分の気持ちを、再び確かめるように…
凌雪は、いつも私に従順だった。
どんな時でも身を任せる彼女が、逆に心無き抜け殻のように感じる事がある。
でもきっと、それは気のせいだ。私は兄上と違って幸せなのだ。…幸せ過ぎて不安なだけだろう。
―――この時は、ただそう思っていた。
しかし凌雪を愛しすぎて…何も見えていなかっただけだったのかもしれない。
―――――東宮太子府にて―――――
太子府の庭先で一人酒を飲んでいたら、皇太子殿下が公務から戻ってこられた。いつもは声もかけてこないのに、今日は珍しく着替えを済ませ、私の所へやって来る。
――――婚姻してからずっと同じ、優しさのかけらもない冷めた目で。
「側妃」
「お帰りなさいませ。声を掛けてくるなどお珍しいではありませんか」
そう言って軽く嫌味を言うと、目の前の盃に自分で酌をする。
私がそれを口に運ぼうとしたら、殿下は片手でそれを勢いよく振り払った。
「殿下!!一体何をするのですか!」
思わぬ仕打ちに、咄嗟に彼の顔を睨みつけてしまう。
「寧王府で、何を話した」
「寧王府?」
「今日、寧王の軍営に視察に行った。その時寧王に言われたのだ。もっと側妃を気に掛けろと」
「それで?気にかけてくれる気になったのが、これですか?」
「余計な話を、寧王にするな!」
「余計な事?」
「私との事だ」
「そんなこと!誰に言わなくても周知の沙汰です!皇后陛下も、最近は私のせいだという。でも違いますよね!殿下のお心が凌雪にあるせいではありませんか!!」
私は、酔っていたせいもあり、殿下に大声で思いをぶつけてしまう。
皇太子殿下が私に冷たいのは、あの廬山峠での一件からだと思っていた。
寧王殿下に言われ、自分を変えようと沢山努力もした。
―――思われないのは、嘘をついた自分のせいだと…。
でも婚儀の日わかってしまった。
皇太子殿下の心には決して消えない凌雪がいて、私を受け入れる気が全くない事を。
やはり私の勘は当たっていたのだ。
いつの頃からだったか、殿下が雪を見る目が他とは違う事に気づいてしまう。
それを見ないようにして、ずっと私は耐えて来た。
寧王殿下と凌雪が婚姻すれば、皇太子殿下も諦めるだろうと思っていたからだ。けれど諦めるどころか、日に日に殿下は私に冷たくなるばかり。
まるで憎まれているとさえ感じる事もある。
何をしても許されないほどに…。
「凌雪の事は、関係ない!」
「そうでしょうか?寧王府に行かなかったのも、二人の仲睦まじい姿を見るのが嫌だったからではありませんか?現に雪は、寧王ととても仲良くしておりましたよ」
「……」
「蘇貴夫人のお話では、凌雪は真に従順な正室で、全て寧王の言いなりだとか。私よりも先に子ができそうだと嫌味を言われました。
殿下がどれほど思おうと、凌雪は寧王殿下のものなのです!!寧王殿下に抱かれているのですからね!」
そう言って高笑いをした私に、皇太子殿下は憤り卓の上の料理も全部手で払い、私の胸を突き飛ばして踵を返した。
関係ないと言っておきながら、少し煽ればこうやって感情を抑えられなくなる。
それほど雪の事を想っているくせに…笑わせるわ。そうやって、一生凌雪に片思いしていればいい。
公主と話していた上奏文の事。おそらく私との婚姻を取りやめたいという物だったのだろう。でも結局私と婚姻し、雪は寧王殿下と婚姻した。
どうやっても、雪とは結ばれない運命なのに諦めの悪い事!
一生嘆いていればいい。幸せそうな寧王と雪を眺めながら!!
「側妃…。大丈夫ですか?」
そこへやって来た侍女の春桃…。
「春桃…。どうして…」
「側妃様…。夜は冷えますよ。中へ入りましょう…」
「どうして、殿下は私の気持ちをわかってくれないのだろう…。雪と私と、何が違うの…。教えて…春桃…」
春桃に思わずつぶやくと、一気に涙が溢れだす。
ずっと我慢していたけれど、殿下にぶちまけたら堰を切ったように涙が止まらない。
昔からそうだった。
雪は愛されて、私は愛されない。
私がどんなに皇太子殿下をお慕いしたとしても、殿下の心は雪に囚われたまま…
この時の私は、この状況は皇太子殿下の一方的な思いが招いているとばかり思っていた。凌雪は、寧王殿下に向いているのだと信じて疑わなかったのだ。
しかし、とある真実を知ることで、私の暴走は加速し始める…
それが、とんでもない事態を招くなど、この時は何の想像もしていなかった。




