第四十四話 心を殺して笑う日
夏がもうすぐ終わりを迎えようとしていた、秋晴れのさわやかな吉日。
寧王・李璿の婚儀が、寧王府で盛大に執り行われた。
私は李家の皇太子として、側室・凌媛羅を伴い、参列している。
面紗の下、凌雪がどのような表情をしていたのか、私には知る由もない。
数ヶ月ぶりに目にした彼女は、深紅の婚礼衣裳に身を包み、寧王の隣に肩を並べ、まるで絵画のように寄り添っている。
その姿を目にすれば、やはり“この胸に秘めた想いが変わることはない”と否応なく思い知らされた。
あれから何度も“媛羅との宿合”を行うよう母上に言われたが、どうしても応じる気になれない私は、この夏の間、それを避けるように辺境の軍営視察へと赴き、都を二ヶ月ほど留守にしていた。
寧王の婚儀の為、十日ほど前に太子府に戻ったばかりだった。
婚儀が滞りなく終わり祝宴が始まると、媛羅はしばらくして韓清之に声を掛けられ席を立ちそばを離れる。
その後私は、久しぶりに会う大臣や宰相たちに囲まれ、質問攻めにあった。
「殿下、少し御痩せになりましたか?」
宰相が、私の顔色を見て少し心配そうに声を掛けて来た。
「そうか?少し疲れていてそう見えるのかもしれない」
「戻られたばかりなのに、側妃の相手もお疲れでしょう」
にやけながら見当違いな冗談を言う尚書には、笑う気にもなれず思わずため息をつく。
皆婚儀の宴席だという事もあり、寧王の事だけでなく私と媛羅にも“早く皇孫を”とその話ばかりだ。
その頃韓清之は、媛羅を夫人の元に連れて行ったと思ったら、今度はちらちらとこちらを伺いながら慶淵王の所に連れて行く。
やはり韓昭が言うように、媛羅は警戒せねばならないようだ。おそらく私の挙動を報告するのだろう…。
それから少し酒が入って酔ったので、風に当たろうと、一人で寧王府の池を眺めに、中庭にでた。
―――あの宴会の場所は、本当に息が詰まる。
寧王の幸せそうな顔を見ても、素直に祝福してやれない自分が辛い。
私はこれから先、どんな思いで二人と接すればよいのだ。
こうして李璿が、躊躇いなく凌孟昊の娘を娶るのならば、私が凌雪を迎えても良かったではないか、とふと思う。
しかし蘇貴夫人は、ずっと寧王が凌雪を慕っていたと言った。
だからもし私の縁談相手が凌雪だったなら、陛下に“寧王に”と願い出ていたと…。
璿はその前に凌雪と会っていたのだから、結局はこうなっていたのだろうか。
人生とは…本当に思い通りには、行かないものなのだな…。
「兄上。お元気そうで何よりです」
そこへ、妹の天黎国公主・李華琳がふと後ろから声を掛けて来る。
「あぁ、公主も元気そうだな」
華琳は三つ下の同じ母をもつ妹だ。
顔は似ていると、幼いころからよく言われていた。
鼻筋も高く、娘にしては凛々しい顔だからか、小さな頃はそれが嫌だと良く泣いていたのを思い出す。
私達兄妹は、凌玄珣と凌雪たちのように特別仲が良いわけでもなく、いつも近況を話す程度でしかなかった。
「今日の日を迎えたという事は、結局…兄上は、凌雪から、お身をお引きになったのですね」
突然華琳が、想像もしていなかった事を口にする。
私はあまりの驚きに肯定することも、否定することもできず返事に困ってしまった。
そんな私を見て、華琳は宴場の寧王と凌雪の方を一瞬振り返り、小さなため息をついて小さく首を横に振る。
「兄上は私がなぜ知っているのか、驚いているのでしょう」
黙ったまま華琳を見つめていたら、彼女は続けた。
「いつだったか…紫陽花の花を、兄上の執務室にお届けしたのを覚えていますか」
「紫陽花?」
「兄上が狩りで足の怪我をされて、久しぶりに御公務に戻られた時でした」
「あぁ、そう言えば。よく覚えている。殺風景だった部屋が一気に華やいだ」
あれはたしか、療養から帰ったばかりで公務の仕事が立て込んでいて…
けれど、上奏文を書くことを、一番に優先させていた時だ。
「兄上が、宰相に呼ばれてお部屋を開けた時、見てしまったのです。
私は、案の上の兄上が書かれた陛下への上奏文を、呼んでしまいました」
「……」
「決して、わざとではないのです」
「そんなことは、わかっている…」
「兄上がなさる事とは思えず、動揺してしまいました」
「……」
「でも、あれから父上も母上も誰も何も言わず、ひそかに“兄上はどうなったのだろうか”と心配していたのです」
「心配…?」
「兄上は、あの上奏文を、陛下にはお見せになったのですか?」
華琳は、心配そうに私の顔の方を見た。
「見せるには見せたが、あの日は最悪だった。こちらの言い分など寸部も通らず、理不尽な父帝に今更ながら憤りを感じる」
こんな日だからか、酒が入っているかはわからないが思わず本音が口をついて出た。考えてみれば、このような事は誰にも言った事がなかったかもしれない。
「そうだったのですね…」
「でも仕方がない。それがこの国を背負うと言う責を担ったものの定めなのだ」
そう全て納得しているかのように言い放った私を、華琳は深い悲しみを湛えた目で見つめる。それが余計に、私を哀れにさせた。
「兄上…私は年が明けたら蒙成国の皇太子に嫁ぐことになりました。昨日父帝に言われたのです」
「そうか…“いよいよ”なのだな。年明けなど、あっという間だ…」
「兄上は、“永新”の事がわかりますか?」
「永新?お前の護衛の“魏永新”の事か?」
そう聞き返したら、華琳は小さく一つ頷いた。
華琳の護衛の永新は、彼女が13歳の時から護衛をしている四つ上の侍衛(専属の護衛)だ。
物腰が柔らかく、一見武人よりも文人のような感じなのだが、ひとたび剣を握れば、韓昭と互角なほどの腕前だった。
「私は、実はずっと永新を慕っていたのです。永新ただ一人を…」
その告白に、私は驚きでわずかに目を見開き、思わず華琳の方を見る。
――華琳が、永新を慕っていた?
言葉を失い、咄嗟に少し離れたところにいた、宴場の永新の方に視線をやった。
そして、彼が韓昭にこやかに談笑しているのが目に入る。きっと…華琳の気持ちなど、微塵も気づいていないような表情だ。
――あの男が、妹の心を占めていたとは…。
いつも風のように控えめで、鋼のように強い目をしていたが、時折、華琳だけには冗談を言ったり、温かいまなざしを向けていたのを覚えている。
永新…決して華琳が、結ばれる相手ではなかった。
……例えどんなに、その思いが強かろうとも。
私は、予想もしていなかった妹の本心を聞かされ、思わず動揺し言葉を失った。
「まさかとは思うが、もしやそれを…」
「父上も母上もご存知です」
「……」
「少し前、母上には打ち明けました。蒙成国との政略婚の事を考えると夜も眠れず、母上ならもしや、話せば分かってくれるのではないかと」
「そんなはずはない。母上は私にも理不尽な事ばかり言ってくるのだ」
そう言って苛立っていたら、“兄上はまるで子供のようですね”と笑う。
「私は、兄上の上奏文に、とても感動したのですよ?」
「上奏文に?」
「陛下に決められた、ご自身の縁談を破棄されようとするなど、どれだけの覚悟をお持ちだったのかと」
「……」
「皇太子と言うお立場でも、お気持ちを貫こうとされたそのお心に、私は兄上を見直しました。兄上は上奏文を出し、きっと凌雪と結ばれると…そう思っていたのです」
「華琳…」
「だから私も、心を打ち明ければ母上も父上も理解してくださるかもしれないと。…しかし結局、蒙成国との縁談が早まっただけでした。私達には、誰かを想い慕う権利もないのですね」
私は華琳の絶望ともとれる横顔を、ただ黙ったまま見つめるしかなかった。隣に佇む同じ運命を持つ妹を、慰めてやることさえもできず…
その時だ。背後で砂利を踏む音が聞こえて、ふと媛羅が立っていることに気づく。
彼女は、一体どの辺りから話を聞いていたのだろうか。一瞬冷水を浴びせられたような気持になった。
華琳も気まずさのあまり、媛羅に軽く頭を下げ、逃げるようにその場を立ち去る。
「煊王殿下…」
「あ、…韓清之はなんの話だったのだ」
「え、あ…、慶淵王の夫人達が詩の会に遊びに来ないかと」
「そうか…私ももう酔いが醒めてきた。中に入る」
そう声を掛けるしか思い浮かばなかったが、彼女は微笑みながら、私に小さく頷く。
さっきの話は聞かれてはないようだが…
もし聞いていれば、このように穏やかな笑みを浮かべられるはずもなく。
あの上奏文のことは、今となっては凌雪の為にも絶対に墓場まで持って行かねばならない。もし寧王に知られるようなことになれば、一番困ることになるのは凌雪だろう。
私は宴が終わると、寧王に簡単にあいさつを済ませ、面紗越しの凌雪とは一言も交わさぬまま、太子府へと戻ることにした。
二人を見ていたくないと言うのもあり、一刻も早く、その場から逃げ出したかったからだ。
それほどに凌雪の婚儀は、私にとって心が引き裂かれるような、地獄のような一日だった。
そして、これが現実なのだと…
凌雪は寧王のものになったのだと、思い知らされる。
それとは裏腹に、秋晴れの空はどこまでも青く、穏やかで、どこまでも残酷なほどに澄んでいて、その空の下で私は、この思いを誰にも悟られぬよう、ただ皆の前では笑っていた。
凌雪を思う気持ちを…、殺しながら…。




